劇場公開日 2022年11月11日

「新海誠の映画が本作でついに東日本大震災という現実の出来事に深く切りこむことになりました。」すずめの戸締まり 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0新海誠の映画が本作でついに東日本大震災という現実の出来事に深く切りこむことになりました。

2022年11月12日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 一つの町全体を破壊する隕石落下、都市を水没させる長雨……。近年、架空の自然災害を一貫して描いてきた新海誠の映画が本作でついに東日本大震災という現実の出来事に深く切りこむことになりました。
 本作の大きなテーマは、滅び失われていくことを受けとめ、悼むこと。その点『君の名は。』でも災害を扱ってはいましたが、本作と大きな違いは、まだ災いを止めようとしていただけで、災い自体は受けとめていませんでした。『天気の子』では災いを受けとめるのですが、災害が起こってしまったことを認めるまででした。けれども本作では、災害によって登場人物にとって大切な誰かが亡くなってしった哀しみをに前面的に共感して、元に悼むことに初めて到達したのです。ただ東日本大震災というとてつもない哀しみを受け入れ、悼むことは新海監督にとってとても辛く、またそれを描くことに自信がなく、暗中模索してきたのです。それはまるで『喪の作業』といわれる、4つの段階つまり『無感覚』・『否認』・『絶望』・『再建』という各ステップを踏まなければ、次の段階へ進めないという大変時間がかかるこころの変遷が必要だったのです。
 しかし既に若い世代には震災を知らない震災以降に誕生した世代が増えてきて、危機感を感じた新海監督はも今のうちに、この映画を作らなければいけないという使命感をもって生み出したのが本作です。

 本作の大きな特徴は、これまで多用してきた自分語りのナレーションを封じ、主人公の鈴芽には彼方からの声に耳を傾ける役目を負わせていることです。そこには今までとは決定的に異なる果敢な挑戦を見てとることができました。

 また本作では一段とアクションシーンの連続で、エンターテインメントの度合いが格段に上がったといえることでしょう。とにかく今度のヒロインは走ります!空も駆けます! 新海監督ならではの精緻で美しい背景はそのままで、しっかり泣かせてもくれます。期待を裏切らない出来上がりでした。RADWIMPSと陣内一真の音楽が、物語をさらに盛り上げてくれました。

 九州の静かな町で暮らす17歳の女子高校生の岩戸鈴芽(声・原菜乃華)。彼女はある日の登校中に日本中の廃墟にある「後ろ戸」を閉じる旅をしている青年・宗像草太(声・松村北斗)に出会います。彼の後を追って山中の廃墟で見つけたのはある一つの扉でした。なにかに引き寄せられるように、すずめは扉に手を伸ばします。そこ扉の向こうにあったのは広い草原と、全ての時間が混ざりあった空があったのです。

 実は草太は各地の廃虚にある扉に鍵をかけることを代々家業として親から受け継いだ「閉じ師」でした。
 その後二人の前に人間の言葉を話す謎の白い猫、ダイジン(声・山根あん)が現れ「お前は、邪魔」と話した瞬間、草太は鈴芽がまだ幼い頃に使っていた3本脚のイスに変えられてしまうのです。

 日本各地に点在するこの世ならざる世界に通じる「後ろ戸」。その扉の綻びからはパンドラの箱のごとく「ミミズ」という、赤黒い渦巻きがこちらの世界に侵入し大地震をひき起こしていました。その扉を閉じて地震を未然に防ぐことが「閉じ師」の使命でした。
そして日本各地でこの「災いの扉」が開き始めます。「後ろ戸」があいてしまい「ミミズ」が登場する廃墟には必ずダイジンがいたのでした。逃げ出したダイジンを捜し、愛媛や神戸、さらに東京へと“2人”の後ろ戸を閉める日本縦断の旅が始まります。
 それは鈴芽にとって、大災害を未然に防ぐことばかりでなく、4歳の時に震災に遭ったとき、忘れてしまっていた大切な記憶を取り戻す、こころの旅ともなっていたのです。

 かつて温泉街だった最初の廃虚、水たまりの上、光のきらめきの中に立つ扉が鮮烈でした。さらには陽光の輝き、街の明かり。穏やかで美しい風景描写が広がります。
 鈴芽はいきなり、扉から出てくる災いの奔流に巻き込まれます。ダイジンを追う先々で扉は現れ、スペクタクルシーンが次々と展開するのです。その中で、彼女の成長が物語の縦軸となっていきました。旅では同世代の女子高生や子育て中の母親、死期の迫る老人と出会います。人生をたどるような道行きで、鈴芽は大人になっています。「スタジオジブリ」のあの作品へのオマージュが象徴的でした。
 しかし災い=地震を引き起こす巨大ミミズが「後ろ戸」から出てしまい暴れているにも関わらず、人々にはその怖ろしい姿が肉眼には見えず、気づきません。作中、たびたび発信される緊急地震速報の警報は、「忘れるな」と観客に強く訴えているのでしょうか。

 記憶の断絶は、鈴芽の身にものしかかります。
 デビュー作「ほしのこえ」から、新海監督は内省的で繊細な少年、少女を多く描いてきました。それに比べて、本作の迷うことなく突き進む鈴芽でも、登場当初は「普通の」ヒロインに見えてしまい、物足りなく感じました。けれどもそうではなかったのです。彼女は震災で母を失い、故郷を離れ。叔母に引き取られた過去を持ちます。根っこを失い、「死ぬのが怖くない」と気持ちをさらけ出しもしますが、終幕、自分の内に隠された記憶に向き合い、再び生き始めるのです。国民的監督として広い期待に応えつつ、新海監督らしさは健在だったと述べておきましょう。仔細は本編で!

 最後に、これまでの作品で日本神道との繋がりを臭わせてきた新海監督でした。本作ではかなり直接的に日本神道の神々との繋がりを描いています。例えば一旦開いてしまった「後ろ戸」を閉じることは容易ではなく、扉から出ようとするミミズの圧力には、草太でも力負けしてしまうのです。しかしそれで諦めてしまうわけにはいかない草太は、祝詞を唱えつつ、精神を集中。神さまと一体となって潜在意識下を解放し、「後ろ戸」を閉じてしまうのです。
 またスズメの名前の由来は、鳥のスズメではなく、神道の神さまのおひとりである天鈿女命(アメノウズメノミコト)からインスピレーションをもらったとインタピューで答えていました。天鈿女命というのは天照大神が天岩戸に隠れてしまったとき、その前で踊って、岩戸を開かせるきっかけを作った神さまで、芸能の神さまとしても信仰されてきました。そのお名前のウズメからスズメにインスパイアされたそうです。

 そして大事なことは、椅子にされてしまった草太に変わって、鈴芽が「後ろ戸」を閉じる役割を担うことになったのです。しかし鈴芽には信仰もなく、祝詞をあげることもできません。その代わり鈴芽は過去の人々の声に耳を澄ませることで、神さまと一体となり「後ろ戸」を閉じれるようになったのです。映画「線は、僕を描く」作品レビューでも指摘しましたが、「過去の人々の声に耳を澄ませること」とは、結局自分の過去で周りからどんなに自らが愛されてきたを思い起こすことにつながります。それは自己処罰の思いを克服し、自信につながるのです。自らを信じられる人は、自分の五感を超えた世界の神さまのお力も素直に入りやすくなるのです。なので特段神道の信仰のない鈴芽でも、神さまの応援が得られたのでした。神さまと一体となることで、人は火事場の馬鹿力を発揮できるようになるわけです。
 新海監督は、本作でかなりはっきりと日本神道の神々のお力と、人間一人ひとりに宿る潜在意識下の無限の力を描いたのでした。

流山の小地蔵