すずめの戸締まりのレビュー・感想・評価
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新海誠の本気
2023年の初めに鑑賞。
集大成ということもあって、新海誠の本気が伝わってきた作品でした。
これまでは背景と挿入歌を強調したものが多かったですが、今作はストーリーに力が入っている印象を受けました。扉から災いが広がっていく光景はコロナ禍を連想させ、そこに過去に起きたあらゆる大震災を「これでもか!」と思うぐらい詰め込まれていました。そのため、今まで以上にスケールが大きくなっていました。
このときは驚きや恐怖など、自身の感情がジェットコースターのように激しく変化しました。それと同時に穏やかな日常は長く続かず、後戻りできない現実を乗り越える必要があるように捉えました。ここから、何事もない日常を過ごすことがどれだけ幸せなのかを改めて実感しました。
今回の登場人物も個性的でした。主人公の鈴芽は表情がとても豊かで、彼女の仕草を眺めているだけでも楽しめました。また、椅子に姿を変えられた草太も、彼の言葉やコミカルな行動につい笑ってしまいました。そんな二人が九州から東京までの旅を通して様々な人と出会い、それぞれの現実と向き合いながら成長する姿に感情移入できました。
気になった点としては、繰り返しや急展開が多かったことです。前半は日本各地にある災いの扉を閉めることが主なので、その展開が何度もあったため単調に進んでいるように見えました。
また、全体的にテンポが速いように感じました。これは長く視聴するのが困難な人でも見やすいようにしているかもしれませんが、個人的には後半から急激に変化する登場人物の心情に納得することができず、「あれ?」と思うような違和感を覚えました。
それでも、一つの物語として綺麗に成り立っており、必ず明るい未来が待っているメッセージ性が伝わってきた映画でした。新海誠が好きな人なら間違いなく楽しめるので、この機会に観に行くことをおすすめします。
みんな、いってらっしゃい
「戸締まり」という言葉に後ろ向きのイメージを感じていましたが、実はそうではなかったと判りました。扉の中は過去の自分。扉の外は明日への旅立ち。過去にどんなことがあったとしても、明日はちゃんとやってくる。嫌なことも、辛いことも、人生色々あるけれど、過去は大切にしっかり戸締まりをして、明日の自分にいってらっしゃい――。
私の捉えた映画の主旨はこんなところでしょうか。沢山の「いってきます」が伝えたかったのはそういうことでしょうか。そして、いくら何百万の命がかかっていようと、あなたの命を犠牲にすることは許さない。誰かがあなたを大切に思ってくれている。
そして、流石は新海誠監督の映像美。美しい日本旅情の満載でしたが、無計画な一人旅がこうも上手くいくなどと、それは既にファンタジーの世界。危険なことは多々あると思うので、つられて旅をしてみたいと思った方、お出かけは計画的に。
それにしても、「ルージュの伝言」を流すとは恐れ入りました。あまりにイメージが定着したこの曲の使い所があるなんて思ってなかった。そして久々に聞いた河合奈保子さんの歌声、「けんかをやめて」はやっぱり美しい。帰りにCD買って帰ろうかな。
忘却への危機感に動かされた攻めの震災描写、だからこそ賛否あって自然
新海監督は、10代20代の世代と東日本大震災の記憶が共有できなくなってゆくことを恐れて、今回あえて直接的な表現に踏み込んで本作を作ったという。
震災のインパクトは当時日本にいた人間にはみな刻まれているが、その時の個人的経験や心に受けた影響はひとりひとり違っているはずだ。現実の事象に触れる作品を見る時、そういった個別の記憶の作用から逃れることは難しい。その感想が作品の出来を超えてさまざまになるのも当然のことだと思う。
映画レビュー全般に言えることでもあるが、このような性質を持つ本作は特に、他のレビュアーの自分と違う評価を安易に貶めるということはあってほしくない。
当時幼な過ぎて、大人が受けたほどのインパクトを心に留めきれなかった年齢層に訴求する作品を見て、今も強烈な記憶を抱えた客層の反応が敏感になるのは十分あり得ること。もしそこから批判が生じても、監督は甘んじて受ける覚悟を持って本作を作ったはずだ。
監督の12歳の娘には、震災にまつわる記憶が全くないという(考えたら当然だが)。そういった身近な若い世代から、監督は震災体験が風化する危機を肌で感じた。ダイレクトな映像表現はその危機感の表れとも言える。
ただ、インタビューなどから伝わる監督の覚悟と、東日本大震災の直接的な描写があることにほぼ言及しないプロモーションには何だかズレを感じた。地震描写や緊急地震速報についてあらかじめ注意を促すなら、直接的な描写のことも合わせて言及しておいた方がよかったかも知れない。見る側に抵抗があれば鑑賞を回避するか、あるいは心の準備をするかという対応の余地が出来て、ネガティブな反応の内容もまた違ったものになったのではと思う。
全然別の作品の話で恐縮だが、以前ある飛行機事故の生々しい描写を含んでいるのにプロモーションでは意図的にそのことを隠した舞台を鑑賞したことがあって、我ながら意外なほどショックを受けた経験がある。人にもよるだろうが、受け身を取る準備をさせてもらえるかどうかの違いは結構大きい。
個人的には、今回あらかじめ他の人のレビューなどで震災描写について把握していたこと、作品の外ではあるが監督の意図を知れたこと、エンタメとして映像・音響中心に相当質の高い作品であること(重いテーマだからこそキャッチーな要素があることは大切だと思っている)から、本作を概ね好意的に受け止めている。「君の名は」「天気の子」より若干ジュブナイル感が薄らいだ分むしろ見やすかった。
ただ、本作によってあの苛烈な震災の記憶を、監督の目論見通りに若い世代に伝えていけるかというと、正直よくわからない。私がターゲットから外れた世代だからというのもあるだろうし、そもそも本作はあくまで、過去になりつつある震災の記憶に目を向けさせる呼び水のような位置付けなのかも知れない。
母を亡くした鈴芽の孤独、彼女を引き取った環の秘めていた心情、普遍的に訴求力を持ち続けるのはこの辺りの描写だろうか。
(環がぶちまけた本音(操られてはいたが本人もそれだけではないと言いつつ認めている)は、心理描写としては一番生々しくて重い場面のひとつだったが、さっくり解決したのは少し拍子抜け)
暗がりで燃える街並、ビルに乗り上げた船、こういった風景描写は当時実際の体験や報道映像で耳目に触れ脳裏に刻まれている年代にとっては、記憶通りであるがゆえに異様なほど生々しい。しかし監督の危惧通りこの臨場感もまた、世代の移ろいとともに古びたものになってゆくのだろう。想像よりずっと早く。
揺るぎない普遍性を持った名作の誕生
本当に素晴らしかった。この可愛らしい響きを持つタイトルが、ひとたびスクリーンという扉をくぐり抜けると、途端に深い意味合いへ変わる。冒頭差し込まれる記憶。その全てが荒廃した様子から、本作がやがてどこへ行き着こうとしているのか、我々は自ずと気付くはずーー。しかしそれにしても猫を追いかけ、すずめと椅子が日本各地を転々としていく筆運びには心底唸らされた。所々で宮崎作品の記憶が不思議と蘇ったりも。そこで描かれる人情模様、巻き起こるファンタジー。二人は戸を締める時、かつてそこにいた人々の暮らしを強く思い浮かべる。そういったささやかな日常がいかに掛け替えのないものであったか。この主題はラストに向け大きな響きとなり、我々はすずめの勇気と行動を応援しつつ「決して忘れまい」という思いを新たにする。世界が揺れる今、これは日本だけの物語とは言えなくなった。揺るぎない普遍性を持った作品として深く広がっていくはずだ。
「歌」が全面に出ていた前2作品とは異なり、勢いで物語を展開させるのではなく「3.11」というリアルに向き合う意欲作。
「君の名は。」と「天気の子」の新海誠監督作品に共通する独特な特徴に、月刊オカルト情報誌「ムー」の登場シーンがあります。 確かに、2作品とも超常現象的なものが題材となっています。
そして、本作では、「地震」をオカルト的な捉え方で表現しています。
オカルト情報誌「ムー」のような発想をPOPなアニメーション映画として「エンターテインメント作品」に仕上げる、というのは容易いわけではなく、独自性のあるアプローチだと思います。
さらに本作では、前2作品とは違い、「歌」を全面に出すことをせず、主人公の「すずめ」と「草太」が猫を追って旅をすることをアクションシーンなどを織り交ぜながら、会話をベースに物語が進んでいくので本領が試される作品と言えます。
作画や背景のクオリティーは、良い所に落ち着いてきた印象でした。
ただ、リアルに近付こうとするほど、不自然さが同時に見えてしまう難しさも出てきます。
例えば、最初の「すずめ」が登校中に引き返して水の張った扉のところに行くシーンは、宮崎駿監督作品であれば、せめて靴下は脱いでいたと思われます。
また、「すずめ」と「草太」が出会うシーンも印象的で良いとは思うものの、急な坂を自転車で下る「すずめ」が「草太」の姿を見て、顔を赤らめ「綺麗」とつぶやきます。ただ、その直後の映像は、「草太」と「すずめ」の位置は、かなり距離があり、容姿どころか性別も判別できないような状況になっています。
物語の展開として「1匹の猫を追いかけて旅をする」というのがあり、ここは「#」が付くことでSNSで追うことができるとなっていますが、論理的にリアルに徹し切れていない面が見えてきます。
それは、世の中の人にとっては「ただの1匹の猫」であって、「話す特別な猫」ではないからです。
もし後者として物語を進めれば、「話す猫」は注目に値するので、誰もが気になります。
ところが物語は前者で進めているため、仮に誰かがSNSで写真をアップしようと、世の中は無関心で、ましてや、それを瞬時に「すずめ」がスマホで見つけることには繋がらないからです。
このような脚本や物理的な考察の部分は、気になる点が散見されます。
とは言え、雰囲気で見るようにすれば、エンターテインメント作品としては成立していると思います。
そういう視点では、「君の名は。」のようにリアルさからは遠い作品の方が、面白く感じる面があると言えそうです。
意欲的な挑戦〜やや失敗〜作
閉じた世界のボーイミーツガールにこだわってきた新海監督(いい人)が、前作「天気の子」で踏み出した一歩をさらに進めようとする意欲作に思えた。
東日本大震災はじめ災害が頻発する昨今の日本、とりわけその被害者が抱える痛みに光を当てようとした、のはわかる。さすがの真面目さだし、そこにロマンチックなお伽話要素も入って、既定のボーイミーツガール路線も健在。
ただ、いかんせん「災害=みみずを封じる」という大状況の解消と、不可逆的な喪失を抱えながらそれでも前を向いて生きていくっていう個人のドラマは割と別物。というか視点が真逆なので、たぶん両立するには非常に高度な技術が必要。
残念ながらその技術という点では今一歩だったんではなかろうか。終盤にかけて、いくらなんでも叔母さんや猫の動きがご都合すぎないか、と思う場面が何度かあった。
というか近年のハリウッドゴジラとかを観る限り、そもそも怪獣による災害と人間のドラマの両立は無理があると思う。
たぶん初代ゴジラだけがそのミラクルを成し遂げたんだけど、あれは戦争被害者の鎮魂みたいな背景があるから成り立つんであって普通はムリ。
そこでふと、ヒントになると思ったのはロメロのゾンビ。比重としてはすずめ個人のドラマがメインだろうから「変えられない悲劇的な状況」はひとつのバックグラウンドとして置いておき、根本的な問題は解決しないけど、個人としてはそれでも希望はある…というオチにすることはできたんじゃないのか。
それってつまり、前作「天気の子」で出した答えが正解でしたって話になってしまう。
でも現実の被災者を想定してる以上、いい人の監督としてはあくまで希望あるメッセージを残したかったのかな?
確かにラストの場面は感動的だったけど、ドラマとしては余韻が弱かったかなぁ。
あとは言っても詮ないけど、音楽の流し方が過剰な気がする。作り手に気を使ったのかも知れないけど、結果的にはもうちょっと引き算のがみんなが得すると思う。
けっかくならジブリに新海誠をリクルートすればよかったのに、と思うくらいには既視感のあるヴィジュアル(あとちょい旧エヴァ)が出てきたりして、ひさびさに「ほしのこえ」が「1人DAICON フィルム」と呼ばれていたことを思い出した。
だけど実は、このリミックス感覚はむしろヴィジュアルの優先ではなく、語るべきテーマが作り手の中にあるからこそ、既存イメージのパッチワークになった、ということなのかもね。うーん、真面目か!
時間が永遠に感じられる
こんな大衆アニメーションで「あの音」を流す姿勢に素晴らしさを感じた。
監督の妄想が…… (過ぎる…)
この作品は海外の方が明らかに評価が高い…日本人には未だまだ3.11の傷はあまりに深く癒えていない、、、其れ(地震)自体をメインにして物語りを語るのは抵抗がある人が多いのも事実。其れをフィクションにする事自体に嫌悪感を抱く者もいるだろう。
我々日本人は地震大国の土地の上に住んでいる。だからこのテーマに対してどう物語りを展開してもセンシティブになる。これは日本に住んでいれば仕方の無い事で此れ(地震)を切り離す事は出来ない。彼(監督)はこの点を甘くみた感は否めない。例えこの作品が鎮魂と再出発の物語りであったとしてもだ。作品は質が高く素晴らしい出来なのに勿体無いのである。
映像は美しく見事であったが、ひとつどうしても気になる場面がある。草太が登場するシーンで鈴芽の隣りを横切る時の草太の髪の毛が纏まって描かれているのが凄く気になった。あのシーンだけは髪の毛を一本一本丁寧に描くべきであった。大事な出会いの場面でもあったので。そうしないとその後の鈴芽が追い掛けて行くシーンに繋がらないし説得力にならない。だって女子高生が見ず知らずの者とすれ違って一言二言会話しただけで知らない年上の男性を追い掛けますか?これは明らかにこの監督の妄想の世界だけで実際には絶対に無い状況では⁇たとえそれが一目惚れであったとしてもだ。このオタク特有の妄想感があまりに非現実的なのだ。やっぱり此処の所(出会いのシーン)は非常に大事でありもっと説得力を持って描いて欲しい部分であった。
『君の名は。』『天気の子』も見たけど、これが一番私には良い。ちょっと泣きそうになった。
殆ど最後の方のすずめと小さいすずめが邂逅するシーン。小さいすずめの言葉に、泣きそうになっちゃったよ。はっきりとは示されていないけど、東日本大震災を下にしていることは間違いないので、その背景を踏まえたセリフとして聞くと、泣かずにはいられなかった。
それ以外と言えば、松村北斗。声優するなら、もうちょっと頑張れ。他の俳優陣の声は違和感ないけど、彼だけちょっと浮いていた気がしますね。
自分とは新海監督は合わないと再認識する作品だった
まず人物に魅力がない。現実味がない、奥行きがない、行動原理がガタガタだ。
絵は綺麗なのでかろうじて観ていられる。
話は大きなテーマに挑んだという気概はわかるけれども。むしろそれをやめてほしい。世界救わなくていいから。
ちんまい範囲内を丁寧に描いた言の葉のが何万倍も良い。大きなテーマをさばく力が無いんだから無理しないでほしい。あるいはストーリー面は別の人を入れてほしい。
すずめと叔母のやりとりで、どうよ人間の内面も出せてるでしょと言いたいのかもしれないが。あれだって実の親にならあんな甘えも言えるだろうけど、いくら親同然に仲良くしたって、叔母なんだから双方に若干の遠慮と言ってはいけない一線の線引きの認識くらいはあって当然だ。その距離感は女性同士ならじんわり掴んでる。それができないなら社会不適合度合いが高い。本音ぶつけあえたでしょ?じゃない、そういうところが人間を描けてない。
ちょっと会っただけの顔のいい男のために、女子高生が少ない手持ちのお金で全国移動して見知らぬお宅に泊まったりして東京では知らん男の友人(つまり知らん人)にも会って、飯も食ってないけど山に行ったりチャリで走るの?どんなスーパー女子高生だ?
さほど付き合いのない相手の為そこまでする?ってのは宮崎駿作品だって同じなのだけれど、宮崎のはその行動に入るまでの間に、そうしちゃうんだろうなこの人なら、というくだりがあるので、強引な運びでもそんなに疑問を感じずに観ていられる。新海作品では製作中に、そこ指摘してくれる人がいないんだろうか?君の名は、のときは結構プロデューサーが口を出したというが、だからこそあれは比較的違和感なく観やすかったんじゃないだろうか。
人間を描けないんだから、現実に傷ついた人、いまも苦しんでる人がいる災害をネタに使わないでほしかった。関係ないファンタジー作品ならここまで反発もおぼえなかった。
観もしないで毛嫌いするのも良くないなと、結局何本も新海監督作品を観ているけれど、そのたび自分とは合わないなと繰り返しわかってしまう。私とは相性悪いんだろう。クレヨンしんちゃんを観たいよ。
タイトルなし(ネタバレ)
映画の日。今年は『すずめの戸締まり』を観に行った。新海監督作品は初鑑賞。
『君の名は』の頃から映像の美しさで話題になっていたのは知っていたので、作品を見ながら確かに美しいなと目を奪われた。
結論から言えば、人って自分次第でこんなに変われるのかと思った。そして改めて震災の記憶を忘れてはいけないと思った。
予告では想像できないようなストーリー。
ラストにかけてのシーンで、色々と繋がって涙が出た。
でももっともっと色々と暗示していることがあるのではないかと、気になって調べてはっとさせられた気付きたち。
〜以下ネタバレ
①「うちの子になる?」というセリフ。
環が鈴芽に言った言葉で、鈴芽を救った言葉でもあるけど、同時に環から他のものを奪うきっかけにもなった言葉。同じ言葉を、鈴芽もダイジンに言っていて、鈴芽もその後学校生活だけでなく命でさえも捨てる覚悟でダイジンを追いかけることになった。
②初対面の草太を「どこかで会ったことがある」と言っていた理由がラストの常世のシーンで分かる。常世は全ての時間が同時にある場所。
③1度なくした椅子。(実際は津波に流されてしまい、死者の世界である常世に流れ着いた。これを成長した鈴芽が見つけ、幼い自分自身に渡した。という考察がされていた)
④12年間ずっと燃えていた常世。(被災者である鈴芽の見る常世。12年間ずっと燃え続けていたように、まだ震災は終わっていないことを暗示しているらしい)
⑤
鈴芽の故郷の宮城県に向かう道中、芹澤は「このへんって、こんなに綺麗な場所だったんだな」と語る。すずめはその言葉にハッとし、「綺麗?ここが?」と呟くように返す。“被災者”である鈴芽と、被災者ではない芹澤の被災地に対する見え方の違いを明確に描き出している。震災の記憶が薄れつつある人々にまだ終わっていないことを告げている。
⑥
東日本大震災が起きたのはお昼。多くの人たちの最期の言葉が「いってきます」「いってらっしゃい」となったと思われる。(劇中でも多くの人たちが鈴芽に対し、色々な方言で「いってらっしゃい」と言い、その言葉が鈴芽を応援する言葉にもなっている。)
そして最後のシーンは言えなかった「おかえりなさい」。
⑦草太のセリフと坂や日向/日陰の演出の工夫。
〜〜〜
当時小学生だった私は東京に住んでいて、放課後のクラブ活動中にいつもより大きめの揺れがあって、でもすぐに収まったから怖かったね〜なんて言って、教室に戻ったら「保護者が迎えに来るまでは帰れない」と先生たちが慌ただしくしていて、そんなに大きな地震だったのかと思いつつもあまり理解できていなかったけど家に帰ってテレビをつけたら、いつものテレビ画面ではなくてどのチャンネルでも、左側と下側に常に地震関係のニュースが流れていて、映像もずっと流れていて、同じ国に住んでいる人がテレビに映る大きな揺れや大きな波を実際に体験して、多くの人が亡くなって、行方不明の方も沢山いると知って、少し考えただけで恐ろしくなって悲しくなって、小学生の頭じゃ理解できないくらいの衝撃的で信じられない出来事だったから被災者ではない私でさえ、今でも忘れられない記憶。そのあと被災した同い年の子達が一時的に自分の小学校に来て、いろいろな話をしてくれて、本当に起きた出来事なのだと、だんだんと理解していった。そんな記憶もやはり被災した方と直接被災していない人とでは全く心に刻んだ記憶の数が違うと思うし、地震描写はきっと被災された方々にとっては辛い記憶で、リアリティーもあるし、気軽に観てほしいなんて言えないけど、この作品は伝えたいことが痛いほどはっきり、しっかり伝わってきたし、何年経ってもこういう作品で長い歴史の中の1つの出来事ではなく多くの人の記憶を思い起こさせ、残すべきだと思った。(被災者ではない人は時間と共に忘れていってしまうので)
色々な伏線や込められた想いも含めて、もう一度観たい作品。もうすぐ今年が終わるこの時期にまた心に残る作品に出逢えて幸せだなと思った。
恋愛と死との関係がテーマの壮大な物語ではあるが平坦なストーリー。
女子高生の主人公が朝の通学途中に謎の青年に偶然出会い事件に巻き込まれ旅をしているうちに日本の危機を救い主人公は自身の過去を思い出すストーリー。この映画は起伏の少ない平たんな一直線の道路のように淡々と都合よく話がテンポよく進んでいく。主人公の恋愛の気持ちがわからず。2.5点。
私は主人公が謎の美青年を見た後に空に大きなミミズを見る場面は思春期の妄想だと思ったのだが実際あの大きなミミズは思春期からの湧き出るように発生する止まらない性欲を表していると思う。鈴芽と草太は扉からあふれ出る性欲を二人で止めるがこれは性欲を二人で発散したと解釈できる。死の世界である常世から扉を通って現実世界に出てくる大きなミミズは巨大な性欲と巨大な死(地震や災害などでの大量死)を表現している。なぜ性欲の放置が大量死と関係するのかという理由は 、恋愛による性欲の発散がない場合は恋愛が存在しないということなので子孫が生まれなくなりそれは人類の滅亡につながる大量死と同じ事となるからだと思う。愛し合う二人による恋愛のみがミミズ(性欲)を退治する方法であり恋愛をしないでミミズが放置されると子供が生まれない(人類の大量死につながる)ということである。大きなミミズは日本人の性欲であり日本人の恋愛がなく性欲が放置されると生まれるはずの大勢の子供が生まれない。それは災害級の大惨事に匹敵する。大ざっぱに言うと鈴芽と草太は性欲を放置せず恋愛をして子供が生まれるようがんばっている。
結論:鈴芽の恋愛と母の死との関係がテーマの壮大な物語ではあるが平坦なストーリー。
追記:
なぜ人は恋愛するのか。そして性欲はなぜあるのか。
それは人は死ぬ事を知るからだと思う。人は人が死ぬことを知りそれゆえ恋愛し性欲を獲得する。鈴芽の場合はあの扉の世界で母の死を知り理解して同時に草太との恋愛が生まれたと解釈できると思う。常世(死の世界)からミミズ(性欲)が発生するのは人が死を知ることと関係がある。もしも人が不死身なら恋愛はたぶん起きない。
まとめ:
人の死の意味は他人に死を教えるということである。他人の死を知った人は自分の死も知り同時に性欲が湧いてくる。発生した性欲を抑えるため恋愛をする。やがてその人も死に他人に死を教えて他人の恋愛の起点となるという生と死のサイクルが本作品の主題(メインテーマ)であろう。
ストーリー:
女子高生の鈴芽は過去の震災での母の死をまだ心の中では認めていなかった。ある日イケメン大学生の草太と偶然出会い自然に性欲が湧いたがそれが何かを知らなかった。出来事がいろいろあってやっと母の死を認めることができた鈴芽は草太と恋愛をスタートしたのだった。ラストシーンあたりで鈴芽が「行ってきます」と行ったのは実家を出て独立したことを意味しており「おかえり」と草太に言ったのは新しい家庭を築こうとしていることを意味する。
追記その2:
現代では恋愛と死の関係の密接さは古代よりは薄れている。現代では映画などのメディアが多感な時期の若者に対し恋愛をファッションとするよう扇動しているように見える。
追記その3:
本作品はキリスト教の聖書の創世記に書かれている最初の人類アダムとイブの最初の子作りの話がモチーフであろう。二人以外誰もいない廃墟で鈴芽と草太つまりイブとアダムは子供を作るための作業をする。つまり戸締りとは子作りのことである。また二人は廃墟で子供を作って人類を復興させるという役割も担っている。大地震などの大災害では確かに大勢の人が死ぬが性欲が適正に発散されず恋愛をする人が減り子供がいなくなると大地震の被害以上に人がいなくなり、しまいには町は廃墟となる。本作品では大ミミズは性欲の象徴として、草太が変身する椅子は自慰行為の象徴として描かれる。大ミミズという性欲を放置し子作りしない場合、子供が生まれなくなり町は廃墟となるのである。戸締りとは疑似的子作り行為である自慰をやめるという意味合いも持っているのであろう。現代日本では性の話題は恥ずかしいこととしてやハラスメントとしてや場合によっては罪に問われてタブーであるが神聖な行為としての性活動をこの作品は描いていると思う。私としての感想は恋愛の減少が原因で子供が減るなどの仮説のように現代日本の人口減少問題は単純なものではなくもっと地理的で複合的で歴史的な要因の結果として人口減少があると思うので本作品での子供を作ろうという単純なメッセージ性は宗教的で聖書的で清らかすぎる感じがする。現実世界の本質は聖書のように色眼鏡を通して見たような単純な世界ではなく人類の理解を超えたカオスであると私は思う。とはいえ私はこの作品の美しい映像世界に魅かれたのは事実である。
大好き
雰囲気は良いのだが
さらっと見ると面白いのです。ダイジンがかわい子ぶりすぎなのは好みじゃないけどアニメだからこれくらいはこちらが譲らねばならない。ダイジンやサダイジン悪意なの?と思うけどそうでもないらしい。何だよと思うけど、これも太古の神々はイタズラずきでわがままで暴力的と相場が決まってるのでまあ良し。でもさ一番大事なところ、すずめは東北の震災でお母さんを亡くしてる気配だよね?もう大震災起こったあとの世界でしょ?その後にすずめは要石を抜いている。ん?そもそも筋成り立ってなくない?雰囲気重視なのは良いけど、そっち優先するために一番大事なところないがしろにするのって、しかもまだ傷跡も生々しい東日本大震災を描くなら細心の配慮をしてもまだ足りないくらいなのに、こんな片手でこねるような使い方ってちょっとしっくり来なかったです。君の名はほど話題にならなかったのもこの辺りが原因じゃないでしょうかね?
盛りだくさん
草太とともに扉を閉める前編と、草太を助ける旅をする後編
前編で終わるってもいいなと思ったり、
扉の中の世界を充実させる話でもいいなと思った
草太は要石のままでも良かった気もする
鈴芽とのラブにはあまり盛り上がれなかった
地震がテーマなのだから他の閉じ師が出てきてもよかった
もっと日本を世界を救って欲しかった
ところどころジブリのコクリコ坂やもののけや魔女の宅急便やラピュタを感じた
新海誠作品なのにそれでいいのかな
猫のキャラクターやイスのキャラクターはまた別のターゲットを狙っているのかな
廃墟も扉の中の世界も美しかった
映像はとても綺麗
もっともっと暗い気持ちにさせられるかと思った
恐怖を感じさせられるかと思っていた
だけどなんだか盛りだくさんで中途半端に思えた
自分には合わないのだろうなあ
松村北斗君にとっては初の声優、しかも椅子に感情をのせて演技するのは...
松村北斗君にとっては初の声優、しかも椅子に感情をのせて演技するのは難しそうですが、声自体が美しく聴きやすく、変な作為や癖がない言葉が率直に伝わってきて、期待以上の声優ぶりでした。新海監督が安心感を与えて力を発揮できるようにさせて下さったお陰もありましょうし、北斗君の声や技術だけでなく人となりを含めて選ばれた草太さんだったこともあるのでしょうか。とはいえ草太さんに使命感や自己犠牲を感じこそすれ、監督の仰る神聖さはあまり感じられず。確かにこれまでも北斗君の役は、祝詞を唱えたり矢で祓ったり鍵で封じたり英霊になってしまわれたりする何やら神聖な設定で、もれなく眉目秀麗。でも本作の草太さんは「ありがとう」の声やすずめを思い遣る言葉の抑揚に現れる誠実さのみならず、例えば焼きうどんにポテサラトッピングにどんびきする呟きや、何気ないリアクションにコミカルさもあって。登場した瞬間に「きれい…」とJKに頬赤らめさせてしまう「ザ・イケメン」でありながら、どこかおかしみの滲む、そんな草太さんの人物(椅子)造形は北斗君だからこそ表現できたキャラクターのように思いました。監督が北斗さんの不憫さや面白さに気付いて書かれたのか、北斗君という声優を通じて表現がそうなったのか。実際、あて書きとも思える位、人・椅子問わず草太さんの役柄、台詞、動き...様々な場面の草太さんから「私の知る北斗君」が匂い立ってくるようで、それが本当に心楽しくて。そんな役、制作者に出会える冥利を想像して、私まで幸せになるのです。本作を通じて北斗君の幅広い表現力、多様な魅力を多くの人に知って頂けそうで嬉しいです。
お話自体は「鹿男あをによし」や「帝都大戦」などでも親しんできた、人の世に災厄をもたらすものを封じ込めるというSF奇譚的モチーフに、震災の記憶と日本の地方の在り方という社会的テーマを絡めたもの。考察は再見時と原作読了後に譲るとして、すずめの真っ直ぐな逞しさに加え、ヒーロー然としていない草太さんの存在があったから、新海監督作品に私が感じてしまう一種の気恥ずかしさを本作では感じずに、照れや戸惑いなく初見では冒険活劇と成長譚として堪能できたのだと思います。背景にある東日本大震災の描写には被害の少なかった私ですら心の奥の記憶を揺さぶられて涙腺がゆるみそうだったので、仙台で被災した友人に勧めることは躊躇してしまいますが。 想像以上に心躍らされたのは草太=椅子の躍動感でした。椅子アクション史上最高の縦横無尽の動き、ミミズが天に拡がり蠢く様のスケール感は大きいスクリーンで観てこその醍醐味でした。「天気の子」「君の名は」はビスタサイズだったと思うのですが、本作がシネスコのアスペクト比で製作されたのは、その水平方向の拡がりと、北へ向かうロードムービーとしての性質からなのでしょうか。そのためせっかくの池袋の25.8×18.9m IMAXスクリーンで上下に余白ができてしまっていたのだけが残念。12日のTOHOシネマズ日比谷の新海監督ティーチイン付上映はスクリーン12のVIVEオーディオ、13日は夫を連れてTCX+DOLBY ATMOSで、と其々お気に入りのスクリーンで鑑賞するので、見比べ・聴き比べるのも楽しみです。
「すずめの戸締まり」は、私が目撃してきた中でも松村北斗君にとっての大きな転換点に思えるのです。それは内容や実績というよりも北斗君の在り方、受け止め方という点で、理由はこの宣伝期間の映像、写真の表情が、前述のように何か悟りを開いたかのような、すっきりした穏やかなものだったことです。年下の原さんを見守る立場だからなのか、監督はじめとする制作陣に委ねることができたという新しい経験によるものなのか。
6回目は、この物語が欧州でどのように受け容れられるのだろうか、と考えながら観ていました。ある年齢以上の日本人なら日記の日付や陸に高くうちあげられた船等と結びつく震災の被害。事前に説明することなく鑑賞させたとして、震災の記憶が脳の特別な領域を刺激する私達と受取り方はどう違うのでしょうか。ロンドンで参加した東日本大震災のシンポジウムでは、被災地の映像に留学生達も心を大きく動かされたようでしたが、一方でアフリカ出身者が「我々の地域では飢餓や紛争で毎日この程度の人間が死んでいる。欧州は豊かな日本より我々にこそ目を向けるべき」と発言していて、はっとさせられました。現在戦乱が陸続きの国で続いている欧州でこの映画がどのような感情をもって観られるのか。そして、キリスト教文化圏の人々の自己犠牲や利他主義といった要素の受けとめ方にも興味があります。ただ、人種や社会文化背景を問わず普遍的な、幼きすずめに贈られたメッセージ、アニメならではの椅子とダイジンのアクションの痛快さはもちろん、日本の景色、津々浦々の土地の物語、すずめの成長譚、災厄に纏わる奇譚、友情、家族愛、ほのかな恋慕...多様な要素が世界中をきっと魅了するでしょう。ベルリンでは笑い声が多く聞かれたとの事ですが、私もこの作品のコメディ要素とアクションの楽しさが最も好きなので、そこがうけたのかしらと嬉しく想像しています。
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