屋根裏のラジャーのレビュー・感想・評価
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消されたシリーズでした。
良し悪しは兎も角、セル画アニメが
2000年以降基本的になくなったと聞く。
初めて知った。
セル画とCG画を使ったアニメ合成の方法がどう違うのか分からないので、言及しない方が良かろう。しかし、アニメはCGに乗っ取られたと言い換えられるかもしれない。
ジブリぽいかなと思って観ました!
絵が綺麗でストーリーも分かりやすくて大人でも楽しめる映画でした。
空想の友達ラジャー
お父さんが亡くなってから自分の中の決意?誓い?が具現化して
そばで支えてくれるような存在だったのかな。と思いました。
私も小さい頃はそういうお友達をぬいぐるみで作ってました。
なかなか言えないこともそのぬいぐるみには話せるんですよね。
そういうシーンが描かれてるのかなって思いながら見ると懐かしくなって楽しかったです。
気になっている方はぜひ見てほしいです◎
自分の世界から外の世界へ
少女の空想から産み出された架空の少年ラジャー。
少女の眼からではなくラジャーから描くことで、架空だけど存在し続けてる彼と少女が大人への階段を登ろうとすることでの別れを切なくも冒険ものとして描く。
ただ冒険ものとしようとすることで、彼や少女を追い詰めるキャラクターの存在が重要になるのだがその点弱く感じた。空想の産物(イマジナリー)を栄養にすることで永遠に生きるキャラクターを作り出すのだが、観てるものとしてすんなりと納得できるものではなかった。
空想の世界同士の敵対関係の方がすんなり納得できるのだが。
だが共に過ごした彼女から離れることになるラジャーの切なさはしっかり描けていた様に感じた。
是非!!
「屋根裏のラジャー 」レビュー
是非!!
映画館で観た予告で「子供向けのファンタジックなアニメーション」という印象を受けていました。きれいな絵が動くのがまず好きなので、興味がありつつ、それ以上の魅力は正直感じてなかったです。上映が始まるも、人気がなくてあっという間に上映回数が限られてしまい、予定を合わせて観に行くか迷ったので、とりあえず原作を読んでみました。原作はイギリスの詩人による児童文学作品で、数々の賞を受賞したとのこと。読んでみると予告で感じてたイメージとかなり違う!一体こんなホラーっ気のあるものをどうアニメ化したかな?と観てみたくなったので、映画館に足を運びました。
観た感想。個人的には原作のどこを改変して、どこに付け加えをして、どこを削っているか、という点について、かなり頑張っているのがわかり、納得の行く仕上がりになっていると感じました。
児童文学作品を原作に持つ映画は、ジブリでもいくつもありましたが、元々児童文学が好きなのもあり、「ゲド戦記」「借りぐらしのアリエッティ(原作は「床下の小人たち」)」「思い出のマーニー」はみな先に原作を知っていました。それらの3作品より原作との兼ね合いがかなり良かったと思います。まあ、「ゲド戦記」は原作ファンからしたらあり得ない出来だったと思いますが(申し訳ないけれど正直な感想です)、「アリエッティ」も「マーニー」も、原作に長さと深さが既に充分あるため、原作への丁寧な敬意は感じるものの、原作にだいぶ負けてしまう、2時間弱といったような尺にまとめるのに無理があると感じたのに対し、今回の作品は上手にまとめられていました。原作を知らずに観た方には、原作はさぞかしもっとキャラクターがしっかりしてるのではないかと思われるかも知れませんが、本作はむしろ原作の方がキャラクターの背景は描かれていませんし、映画で涙を誘う背景は映画のオリジナルの部分も多いです。そういったこともあり、是非原作も読んでみて下さいと、声を大にして言いたいところです。原作を読めば、ポノックがどのように原作を解釈して、どのようなメッセージを込めて映画にしたのかがわかりやすくなると思いますので。
原作が、映画に劣るとか、そういうことではありません。原作は文学作品として読んでいて引き込まれますし、結構容赦なく怖いと感じるシーンもあり、ハラハラドキドキ、意外な展開の連続、そしてラストの希望を含んだ切なさと、とても面白いです。物語の基本の展開や設定は原作と変わらないので、やはり原石として素晴らしいのだと思います。ここで「原石」と書いたのは、上で挙げたジブリの作品の原作に比べて、本作の原作は文字数的にも多分少ないのでしょうけど、そこから加工出来る余地が沢山あり、既に完成された宝石でなく「原石」になり得たと思うからです(あくまでも個人的な印象です)。また、それはある意味、原作は文学作品としては完成度が高くても そのままの感じで映像化すると、子供には恐怖感が強く残るでしょう。それを承知でその路線を行くことも出来たかも知れませんが、伝えたいメッセージを邪魔しない程度に、そのあたりの原作のホラー感や生々しさはだいぶソフトにしてあります。また原作は、登場人物の人間性を掘り下げることよりは、ストーリーの方に重きが置かれている印象なので、そのままだとおそらく大人の鑑賞に耐えにくかったかも知れません。まあ、イギリスの感性ではどうなのかはわかりませんが、原作の主要な登場人物のキャラクターは日本人にはやや不自然に感じるのではないでしょうか?例えて言うなら原作のアマンダはちょっと「長くつ下のピッピ」(知らない方はすみません)のピッピのようで、身近にいるかも知れない女の子の域をちょっと超えてしまってる感があります(文学作品の中では魅力的なところもあるんですが)。原作ではアマンダがイマジナリであるラジャーを生み出した背景は描かれていないので、ポノックがされた映画として幅広い鑑賞者に馴染むものにするための工夫が随所に見られます。(というか、これって映画では。根幹にあたる部分に近いかも知れませんね)。そんなわけで、以下はネタバレになりますので、原作や映画をあまり知らずに楽しみたい方はここまでにしていただいて、ここからは、個人的によいと思った改変点や追加部分を書きたいと思います。
①アマンダの人物像を観る人に受け入れやすくするための背景が描かれ、イマジナリを生み出した理由(父親とのこと)や、行動の理由(濡れた傘を洋服ダンスに入れてしまうなど)、想像力が物凄く豊かな理由(家が本屋であったこと)などが改変、追加されている。原作のままでは観る人が共感したり感情移入したりしにくいようと思います。
②停電の後の流れで、働き口を探している母親が面接でうまくいかずに帰宅、疲れているところに、娘が自分には見えないもののことで取り乱している場面で、つい娘を傷つけることを言ってしまう。ここからアマンダがラジャーを傷つけてしまう展開になるのですが、ここはとても上手に感じます。原作では娘の世界を母親はほとんど全面的に受け入れており、これもまたやや共感を得にくい気がします。映画の母親も充分できた人ですが、あそこで母親の葛藤や、夫を失くして頑張っているところが描かれることで、人間味がうんと増して見えます。それは、中盤でラジャーが一度家に帰り、母親の涙を目にするシーンにも言えます。いずれも原作にはない場面です。
③上の場面の後で、ラジャーが、ロボットの形のイマジナリと話すシーン。ここで「イマジナリは作り手の子供が忘れるようになると消えてしまう」ということが示唆されます。切ない場面ですが、ジンザンがさっと横切るのが描かれ、ロボットちゃんは消えるまでに救われたことが暗示されていますし、後に病院で再会しているので、粋なはからいです。また、「忘れられると消える」という設定は、ここで一度示しておく方が、ラジャーが消えかけてきた時のドキドキ感が増すのでよいような気がしました。
④エミリーやジンザンの背景が加えられていること。ジンザンは原作では本物の生きたネコの設定ですが、映画ではイマジナリであることがはっきりしています。ジンザンの台詞から、「イマジナリは想像主の想像したことに縛られる部分がある」という一応のルールが示唆されます。ジンザンは「眠らずにずっと見守っていて欲しい」と願った想像主によって、眠らないイマジナリになっているわけです。これはとても重要な台詞で、そのことがバンティングのイマジナリである黒髪の少女の在り様に思いを巡らせる部分です。「話すこと」さえ想像してもらえていない少女です。また、エミリーはラジャーに自分は病気で大人になるまでに死んでしまった子どものイマジナリだった、アマンダはまだ生きているから会えると、ラジャーを勇気づけます。個人的に仕事で重度の心身障害のお子さんと関わったりしているので、ぐっときた場面です。エミリーの早くして亡くなってしまった想像主を思うと、エミリーがほとんど普通の女の子の姿をしていることや、空さえ飛べてしまうことに、胸を打たれます。
⑤図書館の掲示板で写真を選び、その人の一時だけの想像の世界の登場人物になるというお仕事に出かけるイマジナリたち(この設定は原作にも少しニュアンスは違いますが大まかにはあります。)。そこでイマジナリの1人ホネッコガリガリは、男の子に気に入られて一時でないその子のイマジナリに選ばれます。するとその子に想像された姿に変わります。このシーンは次に続くラジャーの姿が変わってしまうという流れのための伏線になってもいますが、バンティングのイマジナリである少女について考えさせられる重要な場面でもあると思います。
⑥バンティングの最期について、何をして終わるのかという出来事は原作と同じですが、黒髪の少女の行動は全然違うものになっています。ここが映画の改変に一番ハッとしたところです。そして、私の見間違いでなければ、バンティングが消えた(原作では消えはしませんが)あとに、バンティングの写真がハラハラと残っていたと思いますが(私は視力が大変低いので違ったらすみません)、ここがあの黒髪の少女に一言も喋らずして物凄い奥行きを作っていると感じます。あの少女はバンティングの写真を選んでやってきたイマジナリだったのか、だとしたら、以前もっと違う姿だったのかも知れない という読み取りも出来ます。ですが、あそこまで下僕のように作られたイマジナリである黒髪の少女の中に意思の力が残っていて、あの行動に至ったのなら・・。バンティングは映画の中で「想像は現実に勝てない」と言っています。そして、消える間際に、自分が飲み込んだもの(黒髪の少女)の味を、「まるで現実」と形容して消えます。
現実とは何なのか?想像が意思を持つとはどういうことなのか?バンティングとは一体どのような存在と解釈出来るだろうか?そういう考察をしていける素晴らしい提示だと思いました。
さて、あれこれ感じたことを書いてみました。映画のラストは、原作をもう少し取り入れて、レイゾウコとの別れを長くして、ラジャーの絵にまつわる話を入れた方が好みでしたけど、あれは尺の関係でそうなっちゃったのかなとも感じました。序盤でアマンダがクサクサしながらなぐり描きするシーンがあるので、私の思うようなラストの案がもしかしたらあったのかも?とも思いますが、どうなのでしょう?細かく言えば、ここは敢えて台詞にしなくてもいいかなとか、レイゾウコという名前は原作のままなんですが、変えちゃっても良かったかもとか、宣伝がイマイチ上手でなかったのは残念とか思いますし、絵はきれいですが、個人的には3Dアニメが好きでないから、これ以上立体感出さないでいいとか思ったりはしますが、ちゃんと評価されないと勿体ないと感じる作品でした。
もし、私のレビューを読んで興味が湧いたら是非観てみて下さい!
こんな長い文章、読んでくださった方、ありがとうございました。
いい話なんだけど、切なくなった
主人公の少年、ラジャーはアマンダという少女の想像から生まれた、他の誰にも見えない想像の友達。
アマンダのためだけに存在している。
だから、アマンダが彼を忘れたら消えてしまうし、ラジャー自身はアマンダの友達として想像から生まれたのだから、アマンダを深く愛している。
こういう一方的で絶対的なものを見ると、僕のようなおじさんは切なくなるのです。
例えばオートバイ。
おじさん世代にはバイクに乗る人も一定数いて、若くてまだ給料が少なかった頃には、自分の愛車を最高の相棒のように言って、そのバイクに乗ってどこへでも旅をします。
バイクにとっては、乗り物として目的地まで安全に人間を運ぶために作られていて、その安全に運ぶべき大切な人間が、エンジンキーを持っている唯一絶対の、そのバイクの所有者です。
でも、その唯一絶対の存在であるオーナーは、例えば結婚して家族ができればバイクより家族が大切になることもあるし、バイクに乗る趣味がずっと続くとしても、バイクは工業製品なので、10年後とかに店頭で売られている最新機種の性能には絶対に敵わないのです。
そのうえ、オーナーは年齢を重ねてお給料も増えて、より高額なハイエンドモデルを買うことができるようになっていきます。
最高の相棒だったはずの愛車はいつしかガレージで埃をかぶって、エンジンオイルは古くなってドロドロベタベタに固まり、なんなら調子のいい中古車を買えるくらいの金額をかけてオーバーホールしてもらわないと乗れないとか、あるいは最新の上位機種への乗り換えで下取りに出されて二束三文のお金に変わります。
今までどんなに大切にされてきたとしても、「前のオーナーがどんな乗り方をしていたかわからない、急発信急加速でエンジンに負担をかけてきたか、オイルはきちんと管理されて定期的に交換していたのかもわからない」と、大切にされた過去まで否定されて、「初めてだからぶつけてもいいように安い中古を」なんて、ろくに大切にしてくれそうもない他人に買われていく。
そういう人間にとって都合のいい宝物が、映画の中の想像の友達と重なって、大人にはツラい映画だと感じました。
アマンダの母親リジーがずっと前に忘れ去った空想の友達、冷蔵庫という名の犬なんか、とうの昔に忘れられていても、それでもリジーを想っていて、映画のクライマックスでリジーが冷蔵庫を思い出したときには窮地を救いに現れるなんて、表面だけ見ればいい話なんだけど、おじさん的には「冷蔵庫、都合良く使われて腹を立てることもできない。自分をずっと忘れていたリジーに対して、子供ができて幸せそうで、良かったなんて喜んでいる不幸な犬」というふうに見えてしまいます。
表面的には「子供が生み出した想像の友達を食べることで想像の力を維持している、怪物みたいなおじさんが悪役として登場して、そいつに狙われたラジャーが、友達の力を借りてアマンダと一緒に悪役をやっつけてめでたしめでたし」という話なので、子供向けに単純で、誰でも楽しめると思います。
でも、想像の友達の存在について考えてしまうと、途端にかわいそうになります。
思ったより大作だが、明るさでコーティングされた根暗さを伴う
映像はとても綺麗です。ですがやはり、メアリと同じように、入り込めない不思議さを備えています。ポノックの作品は絵がジブリなので、ジブリレベルの人物描写で観ている側が入り込める事を期待してしまう(絵の感覚としてもはやそうインプットされている)のですが、ポノックは人物描写やハートフルな展開の作りがとても苦手だと感じています。
これはメアリの時も感じたことですが、脚本をなぞる為に、キャラクターがもたもた動いたり、心理描写に人間味がなかったりする事があり、それが私をイラつかせます。私がポノック作品に対して感じることは、明るさでコーティングされているが滲み出てくる根暗さと言えます。オープンマインドの演出をしていながら、実際は出てくる人物は殆どが根暗です。
例えば、主人公は基本的に心から周りと打ち解けていません。よく泣き、行動力はあまり無く、必要以上にもたつきます。
なぜなのか?ポノック作品が宮崎駿のジブリ作品のハートフルさや冒険活劇のような皮をかぶりながら、実はいつも大した冒険にならず、いつも人物描写に根暗さを備えていて、なぜ必要以上にもたつき、ご都合主義的展開でのみ解決を図るしかなくなるのか、メアリの時から考えていて私が出した結論は、それが監督や社長の幼少期の過ごし方で、それが内向的なものだったからというものです。これが良い悪いでは無く、だからこそ、きっと同じようなタイプにはハマる映画なのだと思います。ただ、わりとハートフルな私にはとても違和感で、チグハグに感じられてしまうのです。私が思うのは、ポノックは冒険活劇のように振る舞う事を辞めた方が、ポノック的な人物描写にマッチしていくのではないかということです。
色々なインタビューを読むと、ポノックは子供のために映画を作っているとのことです。それならなぜ、滅びに対して軽い描写をしてしまう節があるのか疑問を感じるところです。アリエッティから共通して、滅びや消える事に対しての軽さと欲求が垣間見えています。子供が楽しめる映画を目指しているのに、そこに、大人である誰かの、内面で抱えている人に対する価値観が反映されているのが見えてきます。そのような根暗さをもっているのに、この映画は大人に対して、子供の心を忘れるなと説教じみた要素を取り入れてきます。ジブリに慣れ親しんだ元々ハートフルに生きている大人は、それならもっとちゃんと温かみのある人間らしい描写をしてくれ!と思わされてしまうのです。
1回見れば充分。
映像は本当に素晴らしい。シナリオも悪くない。俳優の演技が悪いわけでもない。演出だって悪くない。だけどつまらない。
何と言うか物語に奥行きが感じられない。キャラクターに深みが無い。
今までのスタジオポノックの作品にも言える事ですが、見たまま、それだけの物語になっている様に感じます。
唯一感動したシーンは、ガイコツのキャラクターのイマジナリーが新しい男の子のイマジナリーに選ばれる所だけ。
魅力的なはずのイマジナリーの仲間たちも、楽園で享楽的に暮らしている様に見えても本当は主たる友達を求めているのではないか。どんな過去や思いがあって、ミスターバウンディングはイマジナリーを食らってまで生き続けようとしているのか。
そういったキャラクターの奥行きを感じさせるセリフも演出も全く無いのです。
唯一、語られるのは最後に重要な役割を果たす老犬のイマジナリーの冷蔵庫だけ。その語られ方も非常にわかりやすく全部を見せてしまうので、それ以上を感じさせる余地が無いのです。
重要なキャラクターのはずのエミリが消されてしまっても、さらっとそのシーンは流されてしまう。
ミステリアスな黒猫のイマジナリーのジンザンも、何故か全くミステリアスに感じられない。エミリが消されるシーンでも何もできず、その後のシーンにはほとんど活躍どころか登場もしない。
監督はおそらくイマジナリー達の本質的なはかなさ、みたいなものを表現しようとしたのかな?とは思いますが、それも表現しきれていない。
はっきり言って監督の力不足なのだと思います。技術は素晴らしい。だけど物語を作る力は無い。
絵が上手なだけの秀才的な作品だと感じました。1回は観る価値はある。でも2回目は無いかな。ひまで他に観るものが無ければ観るかも。
ジブリ感が抜けた大作!!
ラジャーらイマジナリーが、アマンダを助けるために敵にたち向かう作品。ラジャーたちの個性が豊かで感情移入して鑑賞出来ました。声優も豪華で……!
ジブリ感は、かなり抜けていてスタジオポノック独自が出ていて感動しました。
子供と大人で感じることが変わる優しいアニメーション。
とても良い映画だったと思う。
アニメーションも煌びやかで綺麗だった。
子供の時と大人の時で感じることが変わる優しい映画だったと思う。
ラストはいろいろ意見が分かれるけど、
ラジャーとのお別れというより、アマンダ自身の子供時代とのお別れだと感じた。
つまり、ラジャーとの冒険は終わりだけど、大人としての自分の冒険はスタートするし、
ラジャーという存在はいつも自分を見守ってくれて、困った時は相談にも乗ってくれる。
ある意味ラジャーに依存していたアマンダが本当の友達としてラジャーを受け入れるって読み取った。
そして、それができない人間はミスターバンティングみたいになってしまうのだと思う。
バンティングのイマジナリーの背景はよく分からないけど、たぶん自分の娘とか幼馴染とか大切な人を亡くして、それをイマジナリーにしたんだと思う。
だけど、大人になるにつれて、イマジナリーの力は衰えていく。そのために他の人のイマジナリーを吸収することで自分のイマジナリーを保とうとした。
最期は自分自身のイマジナリーによって崩壊してしまう。
この作品の伝えたいことを個人的に考えてみたんだけど、
バンティングという人物はクリエイティブに生きる人の『成れの果て』なんだと思う。
少しずつ衰えていくイマジネーションをどう保つか、どう表現するか。
いろんなものを吸収して作品に活かしていきたい、だけど、少しずつほつれが出てしまい、衰えが生まれる焦燥感。
そして、どこかで自分の目指した世界に決定的な食い違いが生まれて、最期は自分を崩壊させてしまう。
本当はアマンダのように子供の感性のままで作品作りができれば、
どんなに素敵な作品ができるのかもしれない。
でも、それでは社会で不適合扱いを受けてしまうし、
人と人との繋がりがなければ、世の中に出す作品は作り出せない。
大なり、小なり、大人としての成長は必要だけど、
でも、子供の時の感性を捨ててはいけない。
ある意味、大人と子供の境目の世界で生き続けることを決意した
クリエイティブな世界で生きる人の「産みの苦しみ」を表現した一作でもあるように感じた。
そして、アマンダもその世界で生きることを決意した一人なんだと思う。
だから、ラストは「アマンダはラジャーを一生の友人として生きていくんだ」と結論づけた。
あまり高評価をされていない映画だけど、ぜひ、まずは観てほしいなと思います。
”大人になるということ”
大人になると、なぜイマジナリーといられなくなってしまうのだろうか。
なんとなく、そんなものだよなと受け入れてしまっている自分がいる。
日々が忙しくなり、時間がなくなるからだろうか。
現実を知ってしまうからだろうか。
想像の世界を楽しめなくなってしまうのだろうか。
子供には何故想像する力があるのだろうか。
自分も小さいときは色々なことを想像していたように思う。
しかし、スマホを持つようになってから想像する”時間”というのが格段に減ったような気がする。”暇な時間”に色々なことを想像していたのが、暇なときにはスマホを触るようになった。
今では、暇な時間に何かをやっていないと落ち着かなくなってしまった。
大人は想像の世界に浸らない。そんな考えが自分の中にはあるのではないか。
「想像が絶対に勝てないものがある、それは現実だよ」
Mr.バンティングは言う。現実によって想像は消えてしまうのか。
自分の世界に浸ることは楽しい。
想像によって、自分は自分の世界を作ることができる。
英国と思しき外国の町。 数か月前に父を亡くした少女アマンダ(声:鈴...
英国と思しき外国の町。
数か月前に父を亡くした少女アマンダ(声:鈴木梨央)は、空想上の友だちラジャー(声:寺田心)との冒険で心の隙間を埋めていた。
空想での冒険が繰り広げられるのは屋根裏部屋。
時間も場所も超えての冒険だ。
しかし、空想上の友だちはいつかは忘れ去られるもの。
それは現実の子どもたちが大人になることなのかもしれないが、空想上の友だちを食べる怪物がいるのかもしれない。
いやいや、実際いるのだ。
子どもたちの空想を食って何百年も生き続けるミスター・バンティングという名の怪物(イッセー尾形)が。
アマンダの自動車事故をきっかけにラジャーは消えようとしているが、ミスター・バンティングはラジャーが消える前にを食ってしまおうと執拗に付け狙ってくる・・・
といった物語。
そこへ、忘れ去られた/忘れ去られそうになった空想上の友だちたちがかろうじて生き残れる世界の物語がラッピングされているので、映画の構成としては甚だ複雑。
この構成の複雑さに加えて、舞台を外国の町に設定したために(児童小説の原作があるので、原作踏襲と思えるが)、日本のアニメファンの関心を殺ぐことになってしまった。
加えて、画面上に登場する文字類が英語と日本語が混在していて、どこの国のハナシ?となっている。
これは明らかに失敗。
現実世界の舞台は日本の街に設定して(西洋風の雰囲気を出したければ、小樽なり札幌なりの西洋建築が残る地方都市にすればよかったと思うが)、空想の世界はまるっきりの異国風に設定するなど、現実と空想の差別化を図るべきだった。
もうひとつの手痛い失敗はタイトル。
「屋根裏」という語感にワクワク感が乏しい(というか、薄暗いイメージが付きまとっている)。
『そうぞうのラジャー』とか、原作小説を踏襲して『ぼくが消えないうちに 空想のラジャー』とか、もっと明朗でわかりやすいタイトルがよかったのではなかろうか。
上記二点はクリエイター側ではなくプロデューサー側の範疇だろう。
とまぁ欠点はあるのだけれど、作品としては上々の出来。
キャラクターをはじめとする影のつけ方の秀逸さ、細かいところまで動くアニメーション、終盤食われそうになるラジャーのムンク的な質感・・・などアニメーション作品としては優秀。
物語的には、裏読みも可能で、空想を食らって何百年も生き続ける敵役のミスター・バンティングがジブリの御大・宮崎駿監督に見えて仕方がなかった。
あれほどのイマジネーションを食べて生き続けてきたアニメ監督。
彼に戦いを挑んでいる物語とも裏読みできる。
(その伝でいくと、生き延びた空想上の友だちたちは、旧ジブリのスタッフたちと見ることも可能なのだが)
ジブリに戦いを挑みつつも、ジブリのイメージを引きずっているところもあり(「れいぞうこ」という名の老犬は『ハウルの動く城』のヒンの年老いた姿に見える)、そこいらあたりは痛しかゆし。
とはいえ、結構面白く、アマンダとラジャーの三つの約束、「忘れないこと。守ること。泣かないこと」の由来がわかるシーンなどは胸が熱くなりましたよ。
大人になると子供の頃の事って忘れちゃうよね、、、
全体的に内容は少し子供向けな気がする。
感動もできるし、いい話だけど何か淡い。そんな感じ。
明確な敵がいて、そいつを倒そうとするのはいいが終わり方はこんなかんじかぁって。なんであーゆー風になったのかなって。あの女の子も少し闇落ち前を思い出したのか?!とか思ったけど説明ないし、、、。色々と、、、。
イマジナリーの世界も綺麗だけどその辺りはあっという間に終わったし、物語のラストもあやふやだし(あやふやなのはいいけど、もう少しラストクレジット欲しかった)何よりエミリー。良い奴で好印象だったからこそ悲しい。もうちょい救いがあってもいいのでは?あんなんできるなら逃がすなよとか思ったり、、、。
とはいえ、ラストのイマジナリーバトルは良かったし映像も綺麗だし、冷蔵庫辺りは胸アツだった!お母さんとの関係性も涙もの!
ってところから相対的に普通くらいな感じ。
あとは、悪いとは言わないけど声優雇用して欲しかった。
忘れられると消え去るしかない空想の友だちの存在が気になり足を運ぶ
アマンダの空想冒険が響かないのは、当方が枯渇した老人になのかと暗澹たる気持ちで始まったが、図書館がイマジナリーの棲家であることが嬉しくなる
いささかうるさ過ぎるがね
虚無としか名付けようもない現実にもイマジナリーの連れ合いがいたことが面白い
失った父への想いだった結末は心打ち、心の中の存在と現実への旅立ちを思わせるやりとりに泣くが、急ぎすぎている感じもある
設定は面白かったが…
もう少し上手く見せられたのではないかと感じました。
ラジャーが生まれた背景は評価。
イマジナリの世界が図書館というのもなるほどと思いました。
想像の世界での戦いも見応えがありました。
アマンダのお父さん、エミリ、バンディング…それぞれのキャラの背景について丁寧に描いて欲しかったです。
最後まで感情移入できないまま終わってしまいました。
予告を見るたびに気になっていた映画!
予告で ようこそイマジナリーの世界へ が記憶されました。なんだか、わくわくしますよね!
このようこそって言ってる人はまさかの敵…え〜ってなりました。
小さい子の想像の友達イマジナリーは想像した本人しか見えないし、本人が忘れたらイマジナリも消えてしまう運命。
ある女の子アマンダのイマジナリであるラジャー(男の子)はいつもお互いが遊び相手。想像で雪山に行ったり海で泳いだり〜
想像して変わっていく描写がすごくよかった
敵ミスターヴァンディングはイマジナリを食べることで大人になっても想像力を増大させる事ができていた。目をつけられたのはラジャー、新鮮で美味そうだということで追われてしまう、追われたときアマンダとも一緒で急いで逃げたら、アマンダが交通事故に…
ラジャーが消えかけているところを猫のイマジナリ ジンザンが行くべきところへ導いて新たな世界が待っているという話
もう、イマジナリたちが可愛すぎ
こゆきちゃんすごい好きだったあとエミリも!
屋根裏のラジャー
私でもイマジナリ出せるかな…
バンティングが気になった
正直いってこの作品は面白くなさそうな気がしたのだけど、スタジオポノックは設立された経緯が経緯なので、応援したい気持ちが強くて、観ることにした。
結論からいうと、非常に良かった。「メアリと魔女の花」は、悪くいえばAIにつくらせたジブリ風の映画みたいな、「ジブリぽさ」しか印象に残らないような作品だったけど、本作はストーリーも絵も独自のものが立てられ、洗練されていて、ジブリという親から独り立ちしはじめた若鳥のような初々しい勇敢さが感じられた。
絵が絵本チックなので、原作の絵に似せたのかと思ったけど、原作にはあまり似てない。万人受けするそれなりに魅力的な絵柄だとは思うけど、可もなく不可もなく、という感じ。陰影のつけ方が安いCGぽいところが気になった。もっと個性的なキャラがたくさんいると良かった。ミスター・バンティングのキャラデザは好き。
ミヒャエル・エンデの名作、「果てしない物語」と「モモ」思わせる、テーマ、世界観、ストーリーが僕の好みに非常にはまって良かった。子供は現実の世界と空想の世界を行き来することで成長していくことが象徴的に描かれている。
イマジナリー・フレンドが父親の死によって生まれた、という経緯は感動するし、深い。「空想」というものは、耐えられない現実の欠乏を埋めるためのもの。だからすばらしいし、だから悲しい。忘れられてしまったイマジナリーの生き延びる場所が図書館というのも深い。イマジナリーたちは「本」の中の架空のキャラに昇華されているということを表しているのだろう。
全体に非常に良かったが、終盤は少し物足りなかった。バンティングとの戦いは、アマンダとバンティングとの空想力の戦い、というところを軸に、もっと長尺で描いた方が良かったんではないかと思う。
バンティングとの戦いがすっきりしないのは、バンティングがどんな存在なのか、深く煮詰められていないからだと思う。たとえば「モモ」の「時間どろぼう」なら、彼らが現実において象徴しているものが何なのか深く考察できるようになっている。
バンティングは「大人になってもイマジナリーと別れたくない」と願いすぎた、ある意味純粋すぎる人間だったのかもしれない。
大人になると、誰しも「現実と空想」を区別できるように心が成長する。それは現実に適応して生活するために必要なことなのだが、その代償としてイマジナリーを失ってしまう。バンティングは何か「悪しき手段」によって、そのルールの外にいる存在なのだろう。
アマンダの「正しい空想」とバンティングの「悪しき空想」の戦いというものを、映像で表現できたらとても面白く見ごたえがあっただろうと思う。
バンティングのイマジナリーが自らバンティングに食われるという行動をとったのは良かった。もう少し、バンティングと彼のイマジナリーの背景を知りたかった。彼がどのように誕生し、彼のイマジナリーが何を想っていたのか。
この作品の感想というところから少し離れるけど、この作品を観て、何となく「宮崎駿」作品の魅力の正体というものが分かったような気がした。宮崎駿作品が言葉に表せない魅力を持っていたり、不可解なものが描かれたりしているのは、宮崎駿が大人になっても子供のようなあふれるような空想力を維持しているからではないか。
この「屋根裏のラジャー」を含め、子供向けの物語というのは、普通は大人が「子供のために作った物語」なのだが、宮崎駿は自分自身の中の内なる子供のために作品を作っているんではないか。そんなことを考えた。
オーロラと傘
原作小説は、A.F.ハロルドの代表作
「The Imaginary」
イギリス文学協会賞受賞をはじめとする数々の賞を総なめにしてきた傑作ファンタジーだそうです。
加えて、スタジオポノック最新作!
ジブリ第三の男、百瀬義行監督と西村Pのタッグですもん。
期待しますよぉ〜!
超楽しみにしていました♪
私は子供の頃から空想好きで
「イマジナリーフレンド」ではないけれど、実在の人物を自分の都合の良いように登場させ、人気者になったり、モテモテになったり、救世主になったりしていましたw
自分の想像の中では無敵なので、今考えると、嫌な事があったりすると、空想世界に逃避し、心の均等を保っていたんだと思います。
本作もイマジナリーフレンドという存在を
「アマンダの想像上の友達=夢・友情・愛情」という、純粋なもの、という事だけにはしておらず、
アマンダに忘れられてしまうと
「消えてしまう」という設定にしている所が、何ともシビアで、大人になった私にも刺さりました。
子供達に忘れられたイマジナリー達が、図書館で楽しく暮らすファンタジーのように見せておいて、実は、人間の精神面にかなり触れているのが興味深かったかな。
バンディングの
「想像は、現実には勝てないのだ」なんてセリフも哲学的で面白い。
原作が童話なので、ぶっちゃけ何でもありなんだが、無茶な展開がやや気になった。
不明瞭な点も多いのに、ラストはありきたりで残念に感じた。
題材は好みなのにな。。
"喪失と再生"
ラジャーはアマンダの悲しみを引き受ける存在だったと思う。
だから
「イマジナリーフレンドが必要な子供達」
の理由!
心の深部をもっと描いて欲しかった!
観てよかった
ちょうど、前作の「メアリと魔女の花」を家族がテレビ録画していて、それを冒頭のさわりだけ見ていたところでした。正直、冒頭だけで難点が見えてきて、最後まで観るのが難しいかもという印象だったんですが、今作「ラジャー~」はなかなか評判が良いので、思い切って観てきました。
好みじゃないと2時間座るのがかなり厳しかったりするんですが、行ってよかったです。冒頭から引き込まれて、大人でもとても楽しめました。
前作(まださわりの視聴で申し訳ないですが)で感じた難点、キャラクターが作り込まれてなくて、絵が素晴らしいのに全く世界に入り込めなかったのが、今作ではキャラクターが作画含めてとてもイキイキしていて、冒頭からホッとしました。終盤までラジャーもアマンダも輝いてました。アマンダが主人公かと思いきやラジャーの方だったんですね。アマンダの途中退場に少し驚きました。
全て流れもまとまりも良くて感動したんですが個人的に最後だけちょっと引っかかったのが、終盤で母のリジーが、イマジナリーが見えだしたり、敵の男Mr.バンティングが娘の病室で不審極まりない言動をしてたり、昏睡状態だった娘が目覚めて苦しんだり、色々起こっている時にリジーのリアクションがいまいち弱かったところです。なんかぼやけた動きだったなぁと。昏睡の娘が目覚めたのでも結構な事なのに、不審な男が病室にいるなんて、アメリカ(かな?)だったら即通報レベルだと思うんですが、なんか頼りなくてはっきりしない大人にみえて。
ついでに、犬のキャラクターがとても良かったので、名前の「冷蔵庫」ももうひとひねりしても良いんじゃないかと思いました。海外を意識して、英語だったら「フリッジ」とかで日本語のゴロより名前っぽくおさまるとか、そんな都合だったのかな?
IMAGINE?
想像の世界だから、常識や物理法則に囚われない。
アニメーションとは非常に相性のよい題材だが、それはルールが無いこととは違う。
扉は開けられないのに車には乗れるし、イメージだと思ってたら現実にも影響を及ぼす。
この辺に没入感を妨げられて、あまり楽しめなかった。
“普通の人間”もいたから実在するのかと思ったら、“図書館”には“扉”からしか行けない謎。
バンティングについても、イマジナリを食べる(=想像力が死なない)ことがどう不死に繋がるのか理解できず。
子供のイメージなのに、イマジナリを主役にして自分は指示を出す立場が多いのも違和感アリ。
骨っ子の件は設定の説明にしか感じず、ジンザンや小雪ちゃんもフェードアウト。
エミリの消失(ラジャーだけ覚えている理由も不明だが、もはや諦めた)は特に悲しまれず、キャラが使い捨て。
というか、ラジャーもイマジナリの町や人々に何の思い入れも見せず、アマンダと二人の話に終始していた。
黒い娘の最後の行動にも何も説明がないし、何故あの直後にラジャーとお別れしなくてはならないのか…?
演技は思ったほど悪くはなかったが、やはり感情が昂った際の棒読みには興醒めした。
個人的には、雰囲気に合わないのでスマフォやロックミュージックは出さないでほしかったかな。
ポノックは、題材や作画がジブリとディズニーの間の子というところからいつ個性を出してくれるのか。
期待はしているが、まだまだ先は長そうだ。
ちなみに、杉咲花のオーロラとやら、どこで喋ってました?
思い出せないイマジナリーフレンド
イマジナリーフレンドは一人っ子や第一子に多く
見られる現象との事。
自分の子どものころを思い出そうとしたけど
(ひとりっ子です)
やはり、本作のようなキラキラした世界観は
覚えていなかった🤣
自分のイマジナリーフレンドはどんな姿かたちを
していたのだろう。
どんな遊びをしていたのだろう。
忘れられてしまったから「イマジナリの町」で
今日一日だけの友だちと遊んでいるのかなぁ。
ファンタジー溢れ、色彩豊かで子どもはもちろん
大人も楽しめる作品でした。
ラジャー役、寺田心くんが声優初挑戦🎤
なかなかどうしていっぱしの声優っぷり👍←誰目線w
その真逆のところで
リジー(母親)を安藤サクラなのですが
あれれ?声の演技は苦手なのでしょうか。
なんだかしっくりしませんでしたね。
個性が声にも滲み出ていたMr.バンディングは
誰が演じているか知らなくてもわかっちゃったし、
山田孝之や高畑淳子は違和感なく良かったです。
ジブリは声優を起用しない事で有名ですが
スタジオポノックも同じスタンスなのでしょうか。
そういうこだわりにも良し悪しがあると思うので
臨機応変に対応してほしいなぁと思いました。
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