「たよりになる仲間たち」劇場版ラジエーションハウス 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
たよりになる仲間たち
おそらくラジエーションハウスを見ている人向け。
──というのも愉快で頼りになる仲間たちの雰囲気が強調表現されるから。それは見慣れた面々でないと恥ずかしい。
たとえば責任感の強いヒーローが人助けをするために身分をかなぐり捨てて単身で奮闘する──というシチュエーションがあったばあい、じぶんだけだと思ったら仲間たちがかれを手助けするために追随してくる──というお定まりな友愛と感涙のシークエンスになだれ込む。もし助太刀するのが傭兵だったら得物を肩に担いで一騎当千感を醸しながら片目をつぶって鼻下を人差し指でさする心得顔カットが挿入される定番画になるところだ。
ヒーローは「み、みんな・・・。」とか言って熱鉄の涙を流したりする。
──そういう定型シークエンスをまったく知らない人たちでやられたらどうか──という話である。
HEROの鈴木雅之監督としては、愉快で頼りになる仲間たち=チーム描写は得意とするところであり、とうぜん(HEROでの)検察庁の愉快で頼りになる仲間たちの雰囲気を、ここで放射線技師チームに再現しようとしたに違いない。
が、HEROがなぜ映画でチーム描写を達成できたのかといえば、役者が揃っていたからに他ならない。
チームの雰囲気形成に浜野謙太や八嶋智人や遠藤憲一らがいくら頑張っても、肝心の主人公に魅力がなくてはどうしようもない。(個人の見解です。)
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医療ドラマにおいて、だいじな人が露命と知らされたとき、医者にくってかかる完全にパターン化したシークエンスがあるが、現実世界にそれはない。
いや、医者じゃないからじっさいにあるかないか知らないが、識別救急(トリアージ)せざるをえない医者に、まして患者の怪我や病気の責任が一切ない医者に、感情的にくってかかるのは、はなはだ不合理だ。
とうぜんドラマは愛の深さや愛する者の気持ちを表現するために医者にくってかかるシークエンスを挿入するのだろうが、きょうび医者の胸ぐらをつかんだり脅迫めいた発言をすると110番通報されるだろう。それを考えたとき医者にくってかかる台本は常套とはいえ旧弊or大時代的というほかない。ドラマといえども現代社会とリンクすることは必要だろう。
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また医療ドラマにおいては登場人物から近い人がつぎつぎに怪我や難病に見舞われるものだが、ここでもそれが顕著で、本作におけるその連鎖はほとんど呪われていると言っていいほどであり、およそ五十嵐くんと甘春さんは厄災の元凶であったにちがいないw。だいたいにおいて甘春総合病院で冷静なのは和久井映見が演じた病院長だけであり、ラジエーションチームにいたっては机を並べて駄弁っているだけだったw。
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けっきょく作り話なので医療ドラマといえども荒唐無稽なのはかまわない。が、配役や細部にリアルがあると俄然見ばえが変わる。
余談だがじぶんは山本太郎のことが人物も思想もぜんぜんすきじゃない。ただしかれが中村義洋監督のジェネラルルージュで見せたトリアージのシーンはしっかり記憶にのこっている。あの映画の山本太郎は掛け値なしに名演だった。すなわち役者は適材を適所に充てるとマジカルだが、その適材適所値がこのドラマ映画では低かった。(と個人的には思った。)
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鈴木雅之監督のクレジットがあったので見た。U-Nextで399円。前述のようにHEROをやろうとしている気配が濃厚だった。鈴木監督なので泣かせも笑いも巧い。が、こっ恥ずかしくてついていけなかった。それは見たわたしが悪いのであってプロダクトとしての需要は満たされていた。と思う。