「一般向けではない」ONE PIECE FILM RED 映画読みさんの映画レビュー(感想・評価)
一般向けではない
ワンピースは62巻までしか読んでおらず、アニメは完全未視聴。
話題作だから見ておいてと言われて見たが、驚きに富んだ2時間だった。
ワンピースが異常な盛り上がりを見せたのは2010年からの数年間だったと記憶している。
その頃に20~30代なら一般人も著名人も絶賛し始め、「大人が見てもいい、国民的アニメ」の地位を確立した。私は空島編で脱落していたが、会社の上司命令で読めと言われて頂上決戦編が集結する62巻まで読んだ。私のワンピースの印象はそこで止まっていた。
それで本作、急に生えてきた・101巻の間一言もルフィが言及しなかったらしい幼なじみウタ……というかAdoさんが7曲フルで歌うミュージックビデオ観という前評判は聞いていたので、ストーリーや演出は気にせず「そういう企画」として楽しもうと視聴した。
結果として感じたのは、映像以外の内容の低質さ。
「ワンピース信者ならこれでいいだろう」という「そもそも上質に作る気がない」ワンピース企画の製作態勢だ。ウタがAdoが脚本が以前に、全体的に声の演技がひどすぎると感じた。まともな製作現場なら「これはお出しできない、どうするか」と膝を突き合わせて喧々諤々となるようなものが、そのまま出ている。それも1つや2つではない。コビーとフランキーは耳を疑う厳しさで、正直ルフィもシャンクスももう声が出ていない。幼少期ルフィの方が声が低いという謎の声演は、NGを出さないといけない。
作品の稼ぎは、「面白い」よりも「面白そう」で決まる。それに命を賭けるのがプロデューサー業だ。
企画として「ついにシャンクスと対面」「シャンクスの娘」「ルフィの幼なじみ」「Ado」という並びが作る「面白そう」は、満点を超えて120点だろう。「ジャンプ話題の作品」がすでに鬼滅、呪術、チェンソーというか藤本タツキに移りきった今、ワンピースのテコ入れ策としても大正解である。業界を支えた古株の声優達を使い続けるのも、業界的には限りなく優等生の動きだ。これらを全部やりきった手腕というか豪腕は、尊敬に値する。
だから、もしアニメや映画やコンテンツビジネスのプロデューサーだけで映画館を埋めた試写会をすれば、120点を超える「究極の作品」として畏敬の念を集めるだろう。興行収入200億円という数字も、恐るべき「仕事の評価」として金字塔と見られるだろう。いわば本作は、プロデューサーたちが日夜明け暮れる「俺なんて、もっとすごいことをできるぜ」メンコバトルの実力を証明しきった凄まじい映画だ。
が、だからこそ「企画書のまま出てきた」が露骨すぎるのである。
「ついにシャンクスと対面」「シャンクスの娘」「ルフィの幼なじみ」「Ado」のために脚本や世界観は投げてしまっている(詳細は後述)し、作り手側の業界的優等生ムーブのために作品の質を磨こうという意志も捨てられている。コビーの声だけは「良い作品を作りたいなら」どうあがいても変える。本気ならシャンクスだって変える。たとえ尾田先生がこだわるとしても、人の歴史には忠臣ゆえの諫言という文化がある。尾田先生が呂布どころか董卓ぐらい恐ろしい存在になっていない限り、「視聴者としては」諫言があってほしかった。
プロデューサーでもないただの観客からすると、求めていたのは企画力としての「凄さ」ではなく映画としての没入体験・満足体験「面白さ」であり、「もっと映画を磨いてほしかった」という声も出てくるだろう。私は、そういう感想。
とはいえ、アニメのワンピースファン(も割れたようだが)は本作をエモい泣けると大絶賛する人もいるし、フランキーやコピーの声も前からこれだと言われればそう。つまり、「受け入れている」し、「受け入れている者だけがついてきている」ようだ。
ワンピースはかつて国民的作品だったが、今では「ワンピースファン専用」というかなり尖ったジャンルとして成立しており、かつての私を受け入れてくれたような一般感覚からは離れたのだなと感じた。声や脚本以上にそれを感じたのは、かめはめ波よりも万能なシャンクスの覇気。
---脚本---
ドラゴンボールのお祭り映画のように、脚本を目当てに見に行く作品ではない。
ただ、もう少しなんとかできたのではと思う点は以下の通り
・開幕
みんなウタのライブに集まってる(この世界観でライブって…は置いといて)。ウタは世界一有名で、麦わら一味はウタの熱烈なファンもいる。が、ウタが1曲歌って初めてルフィが「お前、あのウタか!」と気付く。すでに意味わからない。船長、なにを聞いてここまで船を進めた。
また、「幼少期からウタが滅茶苦茶歌が上手く、歌手になるために赤髪海賊団を去ったこと」はルフィの知ってるエピソードとして後に回想があり、矛盾する。
映像でんでん虫がなくてそのウタと特定できていなかったとしても、ルフィの頭の中には、ウタという名前の歌の上手い人はたくさんいるのだろうか。
・ウタ
海賊に島を滅ぼされた→自分を利用した赤髪海賊団も海賊たちも許せない→「実は自分が滅ぼしたことを去年あたりに気付いていた」→でも企画は動き出してたから、もう止められないじゃん
まったく意味がわからない。序盤や中盤でシャンクスや海賊たちに向けた侮蔑と憎悪が、言いがかり甚だしい演技だったことになってしまい、とうてい好きでいられるキャラではないのだが、なぜか善側・お涙側として受け止めてくれという圧で進む。また「動き出した企画がヤバイと気付いても止められない」は現実のプロデューサーの理論であり、ウタはプロデューサーではないので止められる。
・シャンクス
海軍に追われる自分たちと一緒にいたほうが危険……としてウタを島に残していくのだが、ゴードンしかいない滅びた島に二人ぼっちで残すのを温かい親心と思えというのは無理筋というか、本当にそう思っての行動ならダサい=キャラ下げが起きている。『漢気』系の海賊船の船長たるもの、児童とゴードンの二人ぐらい船に乗せて、人が暮らしている安住の地まで連れて行くとか、ウタが暴走しなくなるまで面倒をみるとか、そっちの方がシャンクスらしい。企画都合により、シャンクスがまったくシャンクスらしくない行動をとっている。
・海軍
数年前に島1個滅ぼし、世界も滅ぼすと言われている能力者を放置していた海軍。こんな能力者がいるなら、平時だってルフィよりもウタを全力でとっ捕まえる日々を送っていないといけない。世界一有名な歌手が行う、世界中の下層モブ市民まで集まってるライブを、後から「ヤバイ」と駆けつけるのが変。諜報力と行動力で、かわいそうな羊飼いの少年観客に負けている。
駆けつけた後「世界を守るためじゃ、多少の犠牲はかまわん!」と市民を撃ったりするのはその通りだからいいのだが、その直後にシャンクスがウタを抱えて覇気を出すと「ここでやりあえば市民に犠牲が出る、退きましょう」で退くのが変。一貫した行動ではなく、あくまで製作サイドの都合で瞬間瞬間考えを変え、動いてしまっている。
ウタが死んだからよかったものの、もし生存していたら、シャンクスがウタ(世界崩壊の力)を手に入れることになるので、自分らで言ったとおり「世界を守るためじゃ、市民どころではない」。というか、ここで退くなら、なんのためにここに来たのかがわからない。
この理屈で退くのなら、シャンクスや他の海賊は市街地にいる限り一生捕まらない。この納め方はさすがに雑。
・シャンクスの覇気
今のワンピースってこんなことになってるのか!?
ふんっと怒ると、自身を中心に全方位に爆風と閃光が走り、黄猿も立ってるのが精一杯で怯むほど。もう実の能力ですらなく、かめはめ波や元気玉ですら指向性や溜めモーションという限定要素があったのだが、ノーモーション全方位エネルギー攻撃である。しかも長時間照射や連発もできそう。海賊浪漫は遙か遠くに、実が乱立する異能バトル漫画になったにしても、「気で黄猿を圧倒」は異能バトル漫画としてのセンスを感じない。というかシャンクスは、パイレーツオブカリビアンよろしく、海賊らしく強くあってほしかったな。
この「気」の描写でシャンクスすごい、かっこいいと思うかどうかは、かなり人を選ぶと思う。「ガチで子供向けだな」も数割は出ると思う。
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昨年は、ストーリーやキャラメイクがブレブレの作品(未熟ゆえに雑な仕上げのまま出てしまっている作品)も多く、だがそれらが「深い」「ストーリーがすごい」などと言われている状況にも出くわした。そういう人たちに対する「これでストーリーやキャラメイクが上質だと言うのなら、普段どんなものを観ているのだろう」に対するアンサーに出会った気分。
SNSなどに表出しづらいサイレントマジョリティが「どこまで気にしないか」を表わす一つの事例として、好例に思う。
とはいえやはり「サイレントマジョリティ・一般層の目線が知れる作品」と言うには割り切りすぎており、「めちゃくちゃ多い、ワンピースファンという特殊層の目線が知れる作品」と捉えるべきに思う。