世界で一番美しい少年のレビュー・感想・評価
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研ぎ澄まされた構成力に引き込まれる
その少年は俳優志望というわけでも、モデルとして成功しようと野心を抱いているわけでもなかった。しかしヴィスコンティ監督に美貌を見出され『ベニスに死す』に出演したことで、訳もわからず世界的な狂騒の渦に巻き込まれ・・・。あれから50年を経た彼は、すっかり白くなった長髪をなびかせつつ、今なおフォトジェニックな表情で我々を魅了する。だが内面は別だ。そこに深く突き刺さっているものは一体何なのか。本作では、導入部から記録映像と音楽とが親密に絡まり合い、美しくもミステリアスな雰囲気を織りなしていく。はっとさせられるのは本作の構成の巧さだ。ビョルンという人間の複雑性を一枚、また一枚と丁寧にめくっていくその手捌きや筆致は、ドキュメンタリーでありながら、ひとつの物語に身を委ねているかのよう。幾つもの悲しみと苦しみを共有し、全てを知った上で改めて、彼に引き込まれていく。なんという人生。ずしんと重みを感じる作品だ。
日本人も大きく関わった美少年俳優のドキュメンタリー
『ミッドサマー』('19)で夏至祭のシーンに登場するロングヘアの老人が、実は『ベニスに死す』('71)で美少年タジオを演じた人物の50年後の姿だった、と言われてもピンと来なかった映画ファンのために、このドキュメンタリーはオススメだ。
その人物、ビョルン・アンドレセンが15歳で巨匠ルキノ・ヴィスコンティの目に留まり、性差を超えたアイコンとして突然注目され、特にこの日本で、スウェーデンからやって来たブロンドのアイドルとしてもてはやされ、もみくちゃにされ、消費され、興味本位で使い捨てられていくプロセスが克明に描かれるからだ。
そこには、シンデレラボーイ、シンデレラガールと呼ばれた人たちが辿る壮絶に暗い宿命のようなものが横たわっていて、見慣れた風景とは言え、少々複雑な心境になる。
しかし、日本人も大きく関わったアンドレセンの人生が、66歳を迎えた今、こうして公的に語られるまでになったことに少なからず安らぎを感じる。それが、ややドラマチックに描かれすぎる本ドキュメンタリーを観た正直な感想だ。
「ベニスに死す」タジオ役の少年が、日本で芸能活動していたという事実
典型的な「あの人は今」案件でめちゃくちゃ面白かった。「ベニスに死す」のタジオ役の俳優が、日本に来て芸能活動していたとは知りませんでした。チョコのCMに出たり、レコード出したり。ヨーロッパ中を行脚したという「ベニスに死す」のオーディション映像も貴重だし、カンヌ映画祭での熱狂的なリアクションの映像も初めて見ました。しかし一発当たっちゃうと、その後がねえ……。大いに驚くと同時に、ちょっとセンチメンタルな気分にもなりました。
映画序盤とラスト直前に少しだけ落ちる💦 従って一言だけで… 歳月は...
映画序盤とラスト直前に少しだけ落ちる💦
従って一言だけで…
歳月は実に罪深い
ビョルンの心に深い傷を塗り付けたのが、もしも日本での狂乱のプロモーションによるものだったのだとしたら、、、
何とも言い難いものがある。
2021年12月19日 シネスイッチ銀座2
ドキュメンタリーとしてよくできてた。てっきり芸能界の暗黒面に飲み込...
ドキュメンタリーとしてよくできてた。てっきり芸能界の暗黒面に飲み込まれ…かと思いきや、それどころじゃなく。
なんだかもう、某あの人とカブるところもあり、泣けた。
彼のその後を知らなかった・・・
ベニスに死すのタジオを見た時、こんな美しい人が世の中にいるなんて信じられなかった。それ以来、私にとってビョルンは、美の憧れと象徴だった。
しかしその後の彼の運命なんて知る由もなかった。このドキュメンタリーを見た翌日、毒気?が当たったのか、熱が出てしまうほど強烈でした。
が、今の彼も好きです。ベニスに死すのタジオとは違った神々しさを感じる。苦労した分、深みがでたのか? 一本の映画出演がこれほど影響あるなんて、知らなかった、色々考えさせられました。
みているとドキドキしてくる
生半可ない映画より深いドキュメンタリー。
観ているとドキドキする。ビョルンの美しさのせいだけではなく、
この人の生き方そのもの、心の持ち方そのものが、観ている者の心をザワザワとさせる。
『ヴェニスに死す』の美少年の物憂げな表情には、こんな、それなりの理由があったんですね…。
ビョルンは、このドキュメンタリーの制作をどんな理由で承諾し、撮影のために他人が私生活に入りこむことをどう納得していたのか。
そんなことを考えると興味が湧いてくる。
子供の権利の養護。子供の気持ちへの配慮。
宗教がない世界で生きるという、大変に難しい模索。
重い映画ですね。
わたしはけっこう好きですけど。
でも、重いことは重いです…。
重たい称号を背負って生きる
ベニスに死す、映画のタイトルは勿論知っていた。
ただ、ここにこれほど美しい少年が出ていることは恥ずかしながらしらなかった。この映画を見始めて本当に驚いた。なんて綺麗な少年なんだろうと。
一躍スターに躍り出た彼だったが、それは彼が望んだことでも目指したかったことでもなかった。なんて辛い人生を生きてきたのだろう。
美しさについた称号は、世界で最も美しい少年だった。
そして栄光と挫折、賞賛と批判にさらされて彼は老人と言われる年になっていた。
年老いても、やはり美しさの片鱗は残しながら、自分の軌跡を辿っていく。辛いことを思い出して言葉にする作業はどれほどのものか。でもこの年齢でようやくそれができたのかもしれない。最後に良くも悪くも深い思い出のある海辺に立つ彼の静かな佇まいに涙した。
ベニスに死すを観ようと思う。
ルキノ・ヴィスコンティの呪い
もっともっと早くに呪いを解いて自由にさせてあげていれば・・・
呪いが50年!!
長過ぎた。
『ベニスに死す』のビョルン・アンドレセンは、その一作で映画史から忽然と姿を消している。
その間に何があったのか?
そしてビョルンの生い立ち、母親、祖母、妹そして娘さん。
汚部屋を掃除してくれる恋人。
妹の証言。
父親を全く知らないこと。
母親が10歳の時に自殺したこと・・・、
1971年。
『ベニスに死す』の美少年を探して、ルキノ・ヴィスコンティのオーディションが、
スウェーデンであった事。
ヴィスソンティに一目で気に入られた事。
人形のように言われるままに動いたこと。
2019年。
アリ・アスター監督の『ミッドサマー』でビョルンは衝撃のスクリーン再登場を果たす。
まったく「世界一美しい少年」の50年後の姿だとは誰一人気付きもしなかった変貌である。
50年間、まったくその姿を現さなかったから、死んでるとばかり思っていた。
そして白髭の仙人は飄々とそこに居た。
欲もなく、
名誉も金もなく、
美しさのカケラもなく、
多分、流されていたのだろう!
漂流して、いたのだろう。
このドキュメンタリーで、「あの人は今・・・」となったビョルン。
今度はこの波に乗れるのだろうか?
サーファーとして、波に立つことは出来るのか?
幸せを祈ります。
過去鑑賞
ドキュメンタリー風映画なのではと疑うほどドラマチック
ベニスに死すで知って以来私の中でも伝説の美少年として君臨していたビョルン様のドキュメンタリー映画です。
絵画のような圧倒的美貌と脚光の後にこんな人生があったなんて、こんなことを言われていたなんて、こんな風に感じていたなんてと凡人として生まれた私には想像もできない苦悩と孤独が描かれていて、オーディション映像で脱がされているのを見て能天気ににやけてしまった自分を恥じました。
性的搾取の苦しみに男女間のギャップは無く、全ての人間に配慮が必要だと実感。
ビョルン様のお母様の遺書の言葉、娘さんの言葉…どれも重く、切なく、心が震えます。
ミッドサマーでご自分の死体人形を楽しそうに写メる姿が微笑ましく、彼が「タジオ役の人」ではなく「ミッドサマーのおじいちゃん」と呼ばれるようになったことに、不遜ながら安心というのか…喜びを感じました。
美しさは罪ではない。しかし、美しさは嫉妬を呼び、悪を誘い、非現実的な永久性を求められます。
ルッキズムの被害は容姿の劣る者だけではなく、優れている者にも及ぶことをこの映画から学びました。
ビョルン アンドレセンのファンや映画ファンに限らず、ルッキズムで苦しむ方にも見てほしい一作です。
皮肉な結果
ヴィスコンティ監督が「ベニスに死す」を撮るために、ハンガリー、ポーランド、フィンランド、ロシアで探し求めた "美しい少年"。見出された少年の名は、ビョルン・アンドレセン。彼の、その後の人生と現在を取材したドキュメンタリー。
興味深いが、なかなか物悲しい話。
なぜなら、現代において考えれば、明らかに少年虐待ではないかと思えるから。決して、暴力を振るったとか、性的な行為をしたという訳ではないのだが、本人が周囲から性的な圧力を感じていたというのだから、やはりアウトなのだろうな。契約で僕の顔を独占した、という点も今ではダメでしょ、という話だろうな。
監督自身は、性的でもエロティックでもない、完璧な愛、崇高な愛の物語として「ベニスに死す」を撮ったと言うのに、なんとも皮肉な感じ。
いつかは、「ベニスに死す」を観るぞ。
弱くもしたたか、不思議なサバイバル人生。ひとりの老人の再生をかけた思い出巡礼の旅を描く。
もうすぐ終映ってことで、慌てて行ってきた。
ルキノ・ヴィスコンティに『ベニスに死す』で見出された世紀の美少年ビョルン・アンドレセンの、「その後」の人生を描くドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとはいいながら、66歳になった当の本人がのべつ登場して、かつての想い出の地を巡礼しながら、自分でナレーションも引き受けている。
ある種、数十年ぶりに「主演」を果たした「私小説」映画としての色が濃い。
僕にとって『ベニスに死す』は大切な映画だし、全作観た後期ヴィスコンティ作品のなかでも、『家族の肖像』と『地獄に堕ちた勇者ども』の次くらいには好きな映画だ。
あれはホモセクシャルの映画というよりは、「老い」への底知れぬ惧れを美学的に描いた作品であり、主人公は死の予兆のなかで「若さの美」に憧れ、身を焦がす。それがゆえに相手は「同性」=「少年」でなければならない、というロジックの映画である。
その美の象徴、タジオとして受肉し、映画に君臨したのが、ビョルン・アンドレセンだった。
僕は正直、ビョルン・アンドレセンのことをあまり美少年だと思ったことがない。
僕にとって美少年とはもっとベタな概念であり、デビュー時のエドワード・ファーロングとか幼いころのピアニスト牛田智大あたりが該当するものであって、それと比べれば、ビョルンはとうが立っているし、顔が長いし、どっちかというとダ・ヴィンチ風の古典的な顔立ちで、正直好みではない(ヴィスコンティにとっては、いわゆる美少年かどうか以上に、彼の造形がギリシャ・ローマからルネサンスへと受け継がれた西洋美術史上の伝統的な「美の規範(イデア)」に則っているかどうかのほうが重要だった)。
とはいえ、彼の存在が池田理代子や竹宮惠子、萩尾望都らに衝撃を与え、少女漫画家にとってのアイコンになったことはよく知っているし、その結果、遠い日本の地で世界に冠たる「ひとつの文化」を生み出してしまったのは、動かしがたい歴史の事実だ。
彼個人の人生に焦点を当てれば、そりゃあ回りの大人に食い物にされて可哀想だったね、という話にはなるのだろうが、逆に言えばビョルン・アンドレセンは、あの映画に出ただけで既に大変なことを成し遂げているわけで、彼のインパクトのおかげで生まれた「文化的達成」を、われわれは過小評価してはならない。
それが彼の「顔」のおかげで、彼の努力や演技のおかげではなかったのは不幸なことだし、同性からのいやらしい視線にさいなまれて可哀想だったとは思うが、そんな事例は世の中にそれこそゴマンとあって、たいていの「美しい人」は女なら町のヤンキー烈風隊にこまされ、男ならゲイ風俗関係者に消費されて、ゴミのような人生を送っておしまいである。
こうやって歴史に楔を打ち込めているだけで、彼はすでに全然「負け犬」ではないと、僕は思う。
たとえ当の本人が虚栄に倦み、不幸な生涯を送ったとしても、名も知られずに死んでいった何千億の無為な人生よりは、まともで有意義な人生だ。間違いなく彼は多くの人を幸せにして、多くの人の霊感源となれたのだから。
そしてビョルン・アンドレセン本人もまた、自分のあの時の「成功」を、そこまで悪いことだったとは思っていないはずだと、このドキュメンタリーを観たうえでなお、思う。
観終わって、なんとも奇妙な感慨にふけってしまう映画だ。
ルッキズムとチャイルド・アビューズに加担した日本人としての罪悪感は確かにある。
でも、スターダムを享受するのは、多くの者が恋焦がれる圧倒的な勲章でもある。
祖母ちゃんが勝手に応募したからといって、別に人狩りにあって徴用されたわけではない。
そこでつぶされるのが、ほんとうに世間様のせいなのか? という思いもある。
観ていてどこか不思議な感じがするのは、映画製作者と当のビョルンのあいだに、微妙な認識の齟齬があって、あえてそれを「埋めない」作りにドキュメンタリーがなっているからではないか、とも思う。
監督たちは明らかに、ハイティーンのときに「性的に消費」されたことが、ビョルンを「壊した」と考え、そこに焦点を合わせて撮っている。いかにも今風な視点だ。
でもビョルンのほうは、どうなのか?
意外にも、この映画のなかで彼の口から恨み言が出ることはあまりない。
違和感のなかで生きてきたこと、「世界で一番美しい少年」というフレーズが重荷だったこと、右も左もわからないままに消費されてきたことについては、明確に語る。
でも、彼自身は、そこまでヴィスコンティを恨んでいる様子もないし、日本のことは「大好きだ」と述べ、「ぜひ再訪したかった」と言っている。要するに「悪い思い出」というわけでもないらしい。
どちらかというと、本人は自分の弱さ(&才能の欠如)のせいで世間の期待にアジャストできなかった部分のほうに、意識が行っているように思える。実際、彼はパリで一年放蕩して戻ってから、一本映画に主演し、結婚し、演劇学校に入り直し、二人の子どもを授かっている。少なくとも「『ベニスに死す』のせいで廃人になった」わけではまったくない。
おそらく彼をもっとも痛撃したのは、泥酔した自分の傍らで、長男を乳幼児突発死症候群で死なせたことであり、彼の人生が真に暗転したとしたら、起点はそこだったのではないか。
この映画における製作者は、(ある意味当然のことながら)「『ベニスに死す』に出演したせいでぼろぼろにされた美少年」という枠組みを常に強調するように撮っている。それ自体は別に噓ではないし、彼の人格形成に大きな影を落としただろうことは容易に想像できる。
ただ、そのまま観ていると、次々と「後出し」で、「実は母親に捨てられたうえ、自害されている」とか、「兄妹とも父親が誰か知らない」とか、「自分の庇護下にある状態でSIDSで長男を亡くしている」といった、もっと根本的な「彼を生きにくくした要素」が提示されるので、少しとまどってしまう。
ちょっと待って。それ、最初に言ってくれよ、みたいな。
いや、そっちのほうが結構大きい問題なんじゃないの? みたいな。
どちらかというと、僕の思ったビョルン・アンドレセンの人生は、殊更「特別」な悲劇ではなく、ほぼすべての「脱皮できなかった子役」たちに共通する、きわめて普遍的な物語だと思う。
複雑な家庭環境。ショービジネスに熱心な保護者。
あまり覚悟を決めずに出た作品で果たした大ブレイク。
異常なフィーバー。寝る間もないほどの多忙さ。
でも、それに続くヒット作はなかなか出ない。
顏はごつくなり、一瞬のかぎろいの美貌は喪われていく。
やがてオファーはかからなくなり、自尊心は毀損される。
なんとか大人になろうとするものの、子供の部分が抜けない。
家族ごっこは簡単に崩壊する(彼の場合は真の悲劇だが)。
酒浸り。ドラッグ。世捨て人。没交渉。エトセトラ、エトセトラ。
むしろ、僕から言わせると、『ベニスに死す』当時のビョルンは、「よく守られていた」部類に思える。
たしかに、今の感覚で観て、ビョルンを見初めて鼻息荒い(明らかに目の色の変わった)ヴィスコンティが「シャツを脱げ!」とか叫ぶと、「うっわあああ!」と思う。僕も思った。
でも、70年代に少年の身体を確認することがそんなに異常だったかと言われると、正直ふつうにあったんじゃないかと思う。ジャニーズだって、似たような齢の少年、さんざん半裸にしたり、透明のスケスケ衣装着せたりして今でも踊らせてるじゃん。
しかも、ヴィスコンティは、ほぼ同性愛者ばかりだったスタッフ全員(しれっとナレでそう言われててのけぞったw)に、「タジオを見てはいけない」との厳命を出していたらしい。「私は知らぬうちにヴィスコンティに庇護されていたのだ」とビョルン。
僕は、てっきり「ヴィスコンティにお稚児さんにされた」みたいな話をきかされるものだとばかり思っていたので、逆にちょっと驚いた。ちゃんと、商品には手を付けなかったんだな、あのじいさん。
いや、今の感覚でいえば、やはりビョルンは、食い物にされていたのだ。性的に消費されていたのだ。
それは間違いない。そこを否定したいわけではない。
でも、当時の感覚からすると、ヴィスコンティは、むしろビョルンを丁重に扱っていたようにしか思えないんだよね。
少なくとも、似たような時代に日本で、深作欣二が川谷拓三をモーターボートで引きずり回してガチで殺しかけたり、神代辰巳が水に沈めた中川梨絵を棒でさらに抑え込んだり、大島渚が吉行和子を縛って吊るして水かけて殺しかけてたことを考えれば、映画内でうつる撮影風景を見ても、ビョルンの扱いを見ても、「余程ちゃんとした現場」のようにしか思えないという話なんだけど(笑)。
観ていて思ったのは、柳楽優弥にしても、カルキン君にしても、「身を持ち崩す」子役って、たぶん自分の成し遂げたことと、得られた名声の「ギャップ」が自尊心を食いつぶすのだろうな、ということ。
ビョルンは、ヴィスコンティから指示されたのは、「歩け、止まれ、振り返れ、微笑め」の四つだけだったという(面白いな、こいつ)。たぶん彼は、「それくらい」しかやっていないのに、「あれだけ」の評価と評判がついてきたことが、とにかく重たかったんだと思う。
だって、ジャニーズやビリー・エリオット出身者って、概ねまっすぐ育ってるじゃない。あれって、「あれだけ頑張って」「あんな凄いことまで成し遂げた」結果として、名声や評判がついてきたから、それをしっかり受け止められるんじゃなかろうか。
逆に、そこの「努力・献身・達成」という過程がぽっかり抜けた状態で、「成功・名声」というご褒美がいきなり天から降ってきたときに、人間はどこかでゆがんでしまうものなのだろう。
人間は、努力と成果が釣り合わないと心の均衡を保てなくなるくらいに、本質的に「道徳的」な存在なのだ、きっと。
それにしても、不思議な魅力のある老人だ。
長髪の白髪に、皺の刻まれた顔。極端な痩身。
どこか悲しげで、とぼけたような風もある、澄んだまなざし。
とても66歳には見えない。80くらいいってそうな老けっぷりだ。
でも、なぜか少年のような佇まいもある。絵になる老人である。
これだけ苦労の多い人生を送ってきて、ゴミ屋敷で世捨て人のような生活をしながら、なんとなく飄然とした小ぎれいさは保っていて、えらく若い彼女が居て、献身的に世話を焼いてもらっている。
いしだ壱成や清原のような、才能をダメにしてしまった人間特有の悪相や負け犬感がない。
たしかに、彼は他の人以上に繊細で、傷つきやすく、感受性豊かな青年だった。
一人歩きする美少年のイメージと、望外の名声にたやすく押しつぶされてしまった。
両親に捨てられた寂しさと、喪った幼い命の重さに押しつぶされてしまった。
でも、彼はなんとか生きてきた。廃人になることもなく、自死を選ぶこともなく。
たぶんこの人は、ぎりぎりのところで致命傷を負わずに生きながらえる「すべ」を、長い苦難の人生のどこかで身に着けたのだ。人より断然弱いが、ぽきりと折れない芯の粘り、したたかさがある。そんな感じ。
傷ついた、ダメになったといいながら、彼女任せで10日もかけて掃除してもらって一言の礼も言わず、東京から彼女のスマホで電話をかけまくり、そのくせ若い男の影を感じたら詰問する。で、彼女にキレられたら途方に暮れ、「さてどうしたものか」と考え、考えるのをやめ、いやなことは後回しにして忘却する。そうしたら、そのうちまた勝手に彼女が戻ってくる……。
どうだろう、この爺さん。意外にしぶといではないか(笑)。
本作は、製作者にとってはチャイルド・アビューズ告発が主眼のドキュメンタリーかもしれないが、ビョルン・アンドレセンにとっては、長く立ち止まって考えないようにしてきた「苦しみの元」と、もう一度向き合い、次に進んでいくための糧を得る、「巡礼」と「再生」の物語でもある。
この5年にわたる自分探しと客体化の旅を終えて、彼が少しでも肩の重荷をおろして、生きやすくなっていることを心から願う。
にしても……ラストの日本語曲の羞恥プレイ感は半端なかった……(笑)
生まれ持ったカリスマ性 ☆
一夜にして有名になり、大人達に利用され…。
彼の作品で有名なのはベニスに死す一本だが、その後に監督初め他の大人の餌食にならなかったということだろうか。
彼の生まれ持った美しさとカリスマ性は、ストレートの男性でも何か心のざわめきがあるのではないか。
世界で一番美しい少年
過去に「ベニスに死す」に、魅せられ何度映画を観に行ったかわからないくらいでした。昔はただ、ただ美しい少年に魅せられただけでしたが、この映画を見て彼は心も有って血も流す生身の人間だったんだ、とひとりの俳優のドキュメンタリーを見た感じがしました。DVD化望みます。
想像していたよりも、ずっと
壮絶な人生でした。
エンドロールで涙が溢れて止まりませんでしたが
見終わって
時間が経ってからの方が、
じん、と心に棘が刺さったように
染みてくる感じがします
彼は、彼で
宿命の人で
・・・
当時は消費されたのかもしれなくとも
でも私達が彼からもらったものは
今でもとても大きい、
人によっては一生ものの
素晴らしいものだったと思います。
彼が静かに 生きていてくれること
多くの傷を受けながらも
生きてきてくれたことに
心からの感謝を
これからの一生が
温かく穏やかである事を
願います。
人生は見えているよりずっと長い
単純に「あの人は今」的な面白さもあるが、多感な10代のさなかに突然名声を手にした少年が、大人たちの想いと時代の要求に翻弄され、世界で一番美しい少年という虚像とパーソナルな実像とのギャップの中で苦悩しながら"消えていった"50年間の生身の人間ドラマとして非常に興味深い。
ノスタルジックで輝かしくそれでいてどこか空虚にも見える過去の記憶と、リアル過ぎるほどの現実の間に横たわる一人の男の人生の深淵を覗きこみ、少し切なくなった。
美しさを持て囃しては消費しまくって、あっさりと投げ捨ててしまうこの世界の身勝手さに翻弄された人はたぶん多いだろうが、そこから破滅へと突き進むのか、過去を捨てて再生するのか。
人生は見えているよりもずっとずっと長く、照らされていない時間も続いていくものなのだ。
ベニスの海岸にもう一度対峙した今のビヨルンが美しかった。長生きしてほしい。
正直に書くと、私も彼のことを「見る=観る=消費する」対象として、じっくり賞味したいという欲望を持ってスクリーンに臨みました。「ベニスに死す」の限られたカット以外に、当時のオーディションの模様やその後のドキュメントフィルムでもって、あのお美しいお顔を堪能したかったから。ルッキズムってやつですかね。
見終わって、魅せられたと思うのはそれよりも「現在の」彼の容姿と言葉。どちらも実にユニークで誠実で天然のオーラに溢れていていました。一方伝わったメッセージは普遍的でした。彼の存在はオンリーワンかもしれないけど、「人(大人)が人(子ども)に与えてしまった罪の結果」を背負って生きるとはどういうことかの普遍的なサンプルとして。
70年代、私は小学生でした。明治のチョコレートCMに出ていたのは(「小さな恋のメロディ」のマーク・レスターかと記憶していたけど違っていて)ビョルンでしたの驚き。(ちなみにマーク・レスターは森永ハイクラウンだったらしい、このパッケージも懐かしい)確かに、動くオスカル様。封印されていた当時の記憶の蓋を怖いもの見たさで開けたくなる、調べたくなる、ヴィコンティのことは嫌いになったけど、作品はもっと見てみたくなる、もやもやさせられる魅力に富んだドキュメンタリーでした。どなたかも書いていらしたけど、エンドロールに流れる歌(彼が日本語で歌わされたどマイナーな歌謡)が哀しかったです。
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