「栄光に伴ったのは大きすぎる犠牲~ビョルン・アンドレセンの名声とその後」世界で一番美しい少年 Misaさんの映画レビュー(感想・評価)
栄光に伴ったのは大きすぎる犠牲~ビョルン・アンドレセンの名声とその後
子どもの時、あるいは若いときに分からなくても、後になって分かることというのがある。それはやはり人生や世間といったことが分かってくることもあるし、何十年も後になって「事の真相」が関係者から明かされることもあるからだ。
『ヴェニスに死す』のタッジオについてのことも、それに相当した。私は映画を観ないわけではないしヴィスコンティの名前くらいは知っていたが、その作品に精通しているとか熱狂的なファンであるとかではなかった。しかし、昨年の雑誌記事において、異色作と言われた、少年愛を扱った竹宮惠子さんの『風と木の詩』の主人公の美少年ジルベールのモデルがタッジオを演じたビョルン・ドレドレセンだったと知ったとき、なぜだか急に「腑に落ちた」。あの、白黒のペンの線で表されただけにしては肌の透明感があり、金髪や反抗的な目つきもリアルなキャラクターには、背後にちゃんと人間のモデル、すなわちビョルンがいたのである。なんだか裏切られたような、幻想が醒めるような気分を味わった。
さらには、映画『世界で一番美しい少年』作中にはあの『ベルばら』の作者・池田理代子さんが登場し、オスカルのモデルもビョルンだったという。『ベルばら』の方が『風木』に先行しているが、当時(少女)マンガ界は一種の排他的な世界を形成していたのだと思う。そのなかを吹き荒れた熱狂の「嵐」だったのだろうか。
ビョルン・アンドレセンという美貌ながらわずか15歳の少年が、ヴィスコンティの名画となり、なおかつ間接的に『ベルばら』『風木』といった大人気作を産んだというのは驚くに値する。さらに、映画作中に描かれているように、ビョルンは来日して歌を録音したり、テレビCMに出演したりもしている。もちろん波及効果はそれだけではないに違いない。
しかしこうした栄光、富の力に比して彼自身はあまりに悲惨な体験をし、惨めな人生を送ってきている。それを関係者は十分に理解しているのだろうか? もう「起こってしまったこと」であり、映画も制作され、マンガも描かれ・・・であるが(そして私もこれを書いている)、ビョルンという一個人の多大な犠牲がなければ、これらはあり得なかったことなのである。
映画作中にあるように、ヴィスコンティにオーディションの際「服を脱げ」と言われたときに、ためらったそのこころのままに断っていたならば、『ヴェニスに死す』『ベルサイユのばら』『風と木の詩』すべてなかったかもしれないのである。(それでもほかの方法で名作、人気作、名声、富はもたらされたであろうが・・・)そして、多分そうあるべきだったのだろう。
あるいはビョルン自身も感じたらしいように、彼の母が生存していれば、また彼を庇うなり、疑問を投げかけてくれるなりする人がいて、事態の展開は違ったのかもしれない。
今日の「子どもの権利」的感覚で言えば、ビョルンが体験した一連の出来事は、子どもの意思といったものに対するかけらの敬意も「お伺い」もない。あったのはただ大人の欲望や利権だけである。そのために一人のティーンエイジャーの子どものこころと身体は蹂躙され、引き裂かれたのだ。
この作中に映されているような本人状態-すなわち構わない部屋、火元を管理しないこと、うまく行かない恋人との関係、また過去の、父親としての責任を取れなかったことなどは彼の生い立ちを考えれば何の不思議もない。心理学的に言えば、彼の人生には数々の喪失やトラウマがあるからだ。まず、父親を知らなかったこと、いなかったこと。若くして母親の不在期間があり、また母親を失ったこと。祖母に利用されたこと。ヴィスコンティに利用され、またそのクルーに性的に搾取されたこと、などである。
これだけあれば何十年経ってもうつ、不安、PTSDなどに悩まされるのはある意味当然、と言ってもよい。
通常、たとえば演劇学校などに行ってから映画に出たりするものだと思われるが、ビョルンの場合、逆である。名声は得られたとは言え、俳優に「なりたかった」というよりは運命によって「させられた」と言った方がよい。そのため彼はあとから演劇学校に行ったようだ。
この映画について友人と会話していたとき、今だったら#MeTooで許されないよね、という話が出てきた。こうした過去の栄光や過ちというのはどういう風に処理されればいいのだろうか? 美や芸術のためであれば、多大な犠牲があったり、一個人の尊厳が踏みにじられていいのだろうか? とてもそうは思えないが、「どこまで?」 答えの出ない気持ちで取り残された。