「深い深い、もっと深い家族愛の物語」君は行く先を知らない talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
深い深い、もっと深い家族愛の物語
<映画のことば>
「お兄ちゃんは、どこ?」
「妙だな。さては、あいつを食う計画に気づいたな。」
「お兄ちゃんを食べるの?」
「ゆうべ決めた。」
「だけど、苦いと思うよ。」
「首の肉は旨いぞ。バーベキューなら最高だ。」
「きっと、甘くて美味しいわ。」
まだ20歳そこそこの長男・ファリードは、外国で、束縛の及ばない自由な(人間らしい?)生き方をさせてやりたい、との思いから、夫婦は、長男を「旅人」として送り出すため、家屋敷を売り払い、その「旅行」を取り仕切っているエージェントに大金を支払う-。
政治的な情勢の不安定さの故でしょうか。宗教的な戒律の厳しさの故でしょうか(母は次男坊・ホスロが大地に口づけしようとするのを、何度も制止します)。
はたまた、その両方の故でしょうか。
借り物だという三菱自動車製のパジェロ(?)を運転していた長男が、旅の途上では終始一貫して寡黙だったことは、その間の事情を物語るものと、評論子は理解しました。
旅の途中の景観が美しいだけに、長男のその心情が観客の心にも沁み入るように思われます。
そんな、ある意味では「追い詰められた」状況の中でも、上掲の映画のことばのような軽口を交わせるのは、やはり家族の間が家族愛で満ちみちていればこそ、なのだと思うと、本作の本当の意味合いにも、思いが到るようにも思います。
◯家族の一員であるかのように、家族の誰からも慕われていた愛犬・ジェニーの死。
◯ひとつの目的を秘め、家族を乗せてひた走る一台のクルマ-。
まるで、イラン版の『リトル・ミス・サンシャイン』のようだというのは、本作のトレーラーにあった本作の評ですけれども。
そのゴールがミスコンか、あるいは自由な生活かの違いはあったとしても、そういう評に少しの違和感のない佳作だったと思います。
(追記)
別作品『リトル・ミス・サンシャイン』では、例の黄色いワーゲンを運転していたのは、お父さん。
(推測ですが、同作では帰路もお父さんが一人で運転していたはず。)
これに対して、本作では、往路は(国外脱出を図る長男の)ファリードが運転し、帰路は(家族のファリードと別れた)母親が運転する。
家族としての一体性を取り戻した上掲の別作品とは対照的に、家族の分断を象徴するのに、これ以上の描写はなかったと思います。
(追記)
<映画のことば>
今後はゴキブリを殺しても、トイレには流すな。
両親が希望を託して、外の世界に送り出したはずだから。
その場で木からもいだ野生のリンゴを食べながら(長男がエージェントと落ち合うまでの)束の間の父子の惜別-。
その時間は、父にとっても、息子にとっても、とてもとても、とても重たい時間だったことは、疑いようもありません。
そして、そんな重苦しさの中でも、父親が息子に託せる思いやりの言葉として、これ以上のわが子に対する励ましは、他にはちょっと思いつかないのではないかと思います。
(追記)
両親は、長男の出奔を次男坊・ホスロには、ちゃんとは話していないようです。
(そして、それが本作の邦題になっているとも思います。)
長男は遠くで結婚するので、家からはいなくなるとか、別れてからは旅行の途中でオフロードバイクのレースに行ったとか…そんな程度の説明しかしていない様子です。
なぜ、話していないのでしょうか。
まだ幼いホスロから、人を介して隠しごとが当局に露見することをおそれてのことでしょうか。
それとも、出奔(密航)しなければ自由がないこの国の現実を、まだ幼い次男坊にあえて知らせることが憚(はばか)られたからでしょうか。
本作はその事情を詳(つま)びらかには描いていませんが、この家族の家族愛の深さに思いを致すと、両親の本意は後者にあったのではないかと、評論子は思います。
往路を運転していた長男・ファリドの胸中には、自由のためには家族を捨てなければならないこの国の矛盾が去来していたことでしょう。
そう考えると、彼の無表情が(余計なセリフが能弁に語られるより、もっともっと以上に)かえって胸に迫る思いがします。