「ファリド(Farid)のイラン社会から離脱する過程をコミカルに描く」君は行く先を知らない Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
ファリド(Farid)のイラン社会から離脱する過程をコミカルに描く
この映画を見終わって感動した。ペルシャ語がわからないので字幕にとらわれ、人の表情、広大な景色の移り変わりを見逃したくなかった。だから、字幕より、感性を使って観賞した。それに、映画を観ながらメモをよく取るが、それもやめて、映画の進行に身をまかせただけ。
イラン映画には車の中でもシーンが多いが、多分、アッバス・キアロスタミ監督以降かもしれない
が? 彼かモハマド・ラスロフ監督のどちらかが言ってたと思うけど、、、、、それはイランの政治事情であり、車の中でどんな音楽を聴いていても、ヒジャブをかぶっていなくても、何を話していても、これらのことは政府に密告されないとか、、、なんとか、、、つまり、自由に羽ばたけるということだと思う。自由のコンセプトにも違いはありそうだが、あくまでも、イランでの自由だが。
車の中でのシーンに加えて、モハマド・ラスロフの『悪は存在せず(2020年製作の映画)
Sheytan vojud nadarad/There Is No Evil』の最初の主人公ハシュマート(Heshmat) と砂利道の父親、 クロソー(Khosro)の顔の表情は両方一定なのである。違和感があり気になっていたら、最後の方でその答えが出てくるという結果になる。
アッバス・キアロスタミ監督とモハマド・ラスロフ監督は私の最も好みの監督なので、彼らの作品の理解に対して自分はかなり自己満足している。しかし、「砂利道」の理解はかなり軽薄だと思う。なぜかというと、例えば、 逃亡するお兄さん役ファリドFarid(Amin Simiar )が 『2001スペースオデッセイ』をベスト映画として上げるが、これは禅のようで、落ちつるけると。そして、銀河系に自分を連れて言ってくれると言っている。この意味は自分がいく新しい世界は未来があるという意味ではないかと勝手に判断したが。この『2001スペースオデッセイ』と映画と
父親クロソーのお腹に弟さんが乗っかり二人で銀河を仰ぎみて会話するシーンは何か意味することがあり、繋がっているんだが、ここのコネクションが理解できていない。どなたかお教えてください?
映画の最初の方はイランの家族、四人と犬がテヘランから北へ向かって運転していく。運転している人は甥かなと思ったが、上のお兄さん(ファリドFarid)で、家族は両親に、子供二人。イランのウルミア・レイク(Urmia Lake)のことを話してるので、かなり、北方で、アザバジャン方面に行くのかと思って観ていた。それに、途中でアゼリーという言語を話すアザバジャン人の自転車乗りに遭うし。 正直言って何が起こるのかさっぱりわからなかった。よく、伝統的なイラン映画にあるパターンかと思ってみていた。
そのうち、わかってきた。ファリドFarid)を失うことによる家族の悲しみ、それが、歌を歌うことや
たわいのない会話などの日常茶飯事に表現されていることがわかった。わたしたちが困難に出会っても、その、一見、つまらなそうな会話も状態も、困難状態の中で一緒に歩んでいくことも、あらためて認識させられた。そして、もう兄と会えないことがわかっているかどうかわからない弟の祈りにも現れている。土に口をつけるなと母親に言われ祈る姿は家族の中で、唯一弟が祈りの形式を取っていた。ファリドFarid)は道中自分のことで頭がいっぱいのようだった。しかし、父との二人だけの川辺での会話で初めてイランに残る家族のことを気にしている。保釈金のほか、この闇のコヨーテに支払う金額は大変なものだと思うが。家族にとってもファリドFarid)にとっても、ファリドFarid)の将来は、イランではないことは認識していると思う。イランを去らなければ再興の道はないことを。ーー私感
この映画を観終わって、脚本の斬新さを感じた。なぜかというと、現在なお続く、センサーシップの中で、イランに在住しながら、センサーシップを上手に避けながら、極端にいうと、『曖昧さ』という表現形式をとりながらなの作品である。それも息子のイラン社会から離脱する過程をコミカルに描く。すごいと思う!監督は父親ジャファル・パナヒに自分の書いた脚本を読んでもらったと言っていた。
ヘストシーンは最後家族が国境を引あげ戻ってくるシーンで、五月蝿いガキ、弟が(Rayan Sarlak一番好きな登場人物だった)車のルーフから顔を出してワーと騒ぎ、曲に合わせて踊り出すシーンだ。『私の愛する人が去っていくのを見た』-by Shahram Shabparehhttpsという歌い出しから始まって、車の中で家族の一人一人がそれぞれの形で悲しみを現す。
あと、車を運転しているファリドがアザバジャン人の自転車に接触してしまった時、ファリドは自分の過失をそのままにしなかった。迷っていたかのように見えたが、周りがなんと言おうと、善悪の判断の基準があって、車を止めてアザバジャン人を助けた。この行為は彼が、トルコ(監督がトルコと)に逃げてからも変わらなく思えた。ファリドの明るい将来が見えた。