「“わたしの”スモールランド」マイスモールランド しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
“わたしの”スモールランド
主人公は日本に暮らすクルド人の高校生、サーリャ。
彼女は、母国での政治活動に対し弾圧を受けていたクルド人の父親に連れられて日本に来た。
クルド人は、トルコを中心に何ヶ国かに居住し、“クルド人国家”というものを持たない。
まだ幼いサーリャの弟が学校になじめず、サーリャと父親は、弟の担任から呼び出しを受けた。その帰り道、父は幼い息子に、「俺たちの国はここにある」と、力強く自分の胸を叩いて見せる。
国はないが、自分のスモールランドは心の中に確かにある、と父親は言うのだ。
サーリャの家ではクルドの習慣を守り、食事にはお祈りを欠かさない。周囲にはクルド人のコミュニティがあり、彼らは同じ仕事に就き、休日には集まっていっしょに食事をする。
だが、生まれた土地の記憶も曖昧で、幼少期から日本で育ったサーリャは、父親とは違う思いを持っている。
このあたりの主人公の心情を表す脚本が巧い。
例えば、「ワールドカップ で日本を応援したかったけど、そう言ってはいけない気がした」、というサーリャのセリフは、子どもながらに友人たちの中での彼女の微妙な立場、複雑な心情を表していて秀逸。
ドキュメンタリーで事実をきちんと説明されるよりも、観る側の想像力を刺激し、共感が引き出される。
そう、サーリャには日本での生活のほうが当たり前になっている。父親には、ほとんどクルド人同士の付き合いしかないが、サーリャには同世代の日本人の友だちやボーイフレンドとの交流があり、むしろ、クルド人との付き合いに違和感を覚えることも多い。
そして彼女は、将来は小学校の先生になりたいと思っている。
そう、サーリャにとっての“スモールランド”は、むしろ、日本での暮らしや身の回りにある日常なのだ。
だが、そんな決して派手でもなく、どこにでもいる高校生の“スモールランド”は、突然乱される。
一家の難民申請が却下され在留ビザがなくなってしまったのだ(つまり不法滞在となる)。
ビザのないサーリャは大学の推薦を受けられなくなり、将来の夢を断たれてしまう。
ビザがなければ就労は認められない。サーリャがバイトを続けられなくなりばかりか、父親は仕事をしていたことが法に触れ、入管に収監されてしまう。
家族の中で、感覚の違いが表れる場面がある。
家族4人でラーメンを食べるシーン。
妹がラーメンをすすって食べていると、父親が「音を立てて食べるな」と注意する。ご存じの通り、日本人はラーメンや蕎麦うどんを、すすって食べる。
妹と弟は「すすって食べる派」だが、その場はサーリャがあいだに入って収めた。
だが、映画の終盤、収監された父親にサーリャが面会に行くシーン。
「親が入管法に従って帰国すれば、子どもたちには難民申請が認められる」という判例を知った父親は、逮捕や迫害を覚悟して、ひとりだけ母国に戻ろうとしていた。
父親は、「ラーメンは好きなように食べなさい」と告げる。そして、サーリャが使っていた自転車の置き場を教える。
サーリャは自転車に乗ってバイトやボーイフレンドとのデートに行っていた。サーリャにとって自転車は、自由の象徴だった。
父親は自分を身代わりの心に、サーリャの“スモールランド”を守ろうとしたのだ。
国や制度は、人びとが大切にしている“スモールランド”を奪っていいのか?
そして、その国は、僕が暮らす国なのだという現実が苦しい。