「ヴェネチアの謝肉祭で跳梁する「道化師」殺人鬼! ありそうでなかったザ・王道ジャッロ。」ベネシアフレニア じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ヴェネチアの謝肉祭で跳梁する「道化師」殺人鬼! ありそうでなかったザ・王道ジャッロ。
あれ? 意外と世間的な評判はイマイチなのかな?
個人的には、くっそ面白かったけど!!
いやー、マジで最高でした。
鬼才アレックス・デ・ラ・イグレシア、健在なり。
予備知識は、映画館HPの簡単な紹介文のみ。
あらすじを見る限り、あの凄まじい個性派監督も、小金稼ぎに安易な低予算スラッシャーとかお仕事で撮るようになったのかと思わず嘆息したくなったが、いざ実際に観たらそんな適当な代物では全くなかった。
ヴェネチア。マスカレード。リゴレット。ペスト医師。
秘密結社。水没した劇場。跳梁する殺人鬼……。
何だよこれ、イタリアン・ジャッロ映画への熱いオマージュじゃないか!
監督個人の偏愛をぶちまけた、超マニアックな趣味的変態ワールド。
イグレシア監督×ジャッロ。
面白くないわけがない。
もともと僕とアレックス・デ・ラ・イグレシアの出逢いは、東京国際ファンタスティック映画祭のオールナイトで観た『ハイルミュタンテ! 電撃XX作戦』だった。
ブサイクゆえに虐待されてきたフリークスのミュータントたちが、富豪の結婚パーティに乗り込んで美男美女たちを片端からブチ殺したうえに、ヒロインを誘拐して宇宙まで逃亡するというぶっ飛んだ映画で、その尋常なからざる過剰さと際限ない悪ノリに僕は大いに打ちのめされた。
次の『ビースト獣の日』もたしか東京ファンタのANで観たのではなかったか。敬虔な神父が黙示録の研究からアンチキリストの再臨を知って、「自分で呼び出して倒す」ためにヘビメタ悪魔崇拝者と組んで街中で「悪行」の数々を重ねていくという、ひねりのきいた風刺コメディ。終盤は結構なアクションに変ずる。
最高に素晴らしかったのが『13サーティーン みんなのしあわせ』。死んだ大家の隠し財産をネコババしたヒロインと、長年財産目当てで大家が死ぬ日を待ちわびていたアパートの住人たちが繰り広げる命懸けのバトルロワイヤル。これだけ面白い映画に出逢えることはそうそうないと断言していい。
一般的な彼の代表作としては、お笑い芸人二人組が主人公の『どつかれてアンダルシア(仮)』や、ヴェネチア国際映画祭で監督賞を獲った『気狂いピエロの決闘』などもある。
何を言いたいかというと、
●監督はキャリアの初期から「正義の名のもとに暴走するテロリスト」をメインテーマに据えていた。
●彼が描く「闘争」と「対立」の背後には、つねに「差別」「宗教」と「排他主義」がある。
●彼の映画で「血みどろの惨殺劇」を繰り広げるのは、大半が欲か正義によって常識から逸脱した「市井の一般人」である。「はみ出し者」の象徴として頻繁に「ピエロ」が登場する。
●彼は社会悪の弾劾や政治的主張を交えながらも、タランティーノやバートンに近い「ジャンル映画愛」を前面に押し出してくる。
●彼はつねに「恐怖」と「笑い」を並置して呈示してくる。その源泉は、過剰さと悪ノリとサーヴィス精神であり、本質的にイグレシア監督は「稚気」の人である。
『べネシアフレニア』をご覧になった方は皆、本作が上記の条件にびったり当てはまっていることをご理解いただけるはずだ。
監督がここで展開している手法やテーマは、今回限りで採用されたものなどではない。
30年来、彼が追求しつづけてきた手法とテーマが繰り返されているのだ。
彼は何本も血みどろの映画を撮ってきたし、闘争やテロリズムも彼の映画には付き物だ。
だが、実は明快にジャンルホラーといえる作品を自ら手掛けたことはなかった。
なんとなくびっくりだが、これはイグレシアにとっては「初」のホラー映画なのだ。
今回新たな冒険に参入したのは、ソニーやAmazonの口車に乗った部分もあるのかもしれないが、何より自分の愛してやまない「イタリアン・ジャッロ」をイタリアの地で撮るという魅力的アイディアに抗しきれなかったからだろう。
この映画は、中身うんぬんをさておいても、
「ヴェネチアで、カーニヴァルの仮面舞踏会を舞台に、殺人鬼ホラーを撮る」
このアイディアを実現しただけで、大変な価値がある気がしている。
じつは、これだけド直球の「いかにもありそうな」アイディアなのに、僕の知る限りでは誰もやったことがないのではないかと思うのだ。
仮面の怪人といえばおそらく元祖としては『オペラ座の怪人』がいるし、仮面をつけた疫病(ペスト)そのものが登場する作品としては『赤死病の仮面』がある。
イタリアン・ホラーにおいても、劇場が登場する作品としては、ダリオ・アルジェントの『オペラ座血の喝采』、弟子のランベルト・バーヴァの『デモンズ』、同じく弟子のミケーレ・ソアヴィの『アクエリアス』(スラッシャーの傑作!)などがある。
一方、ヴェネチアを舞台とするジャッロは数本が知られているが、そこまで有名な作品はない。なんといってもホラー要素の強い作品としてはニコラス・ローグの大傑作『赤い影』があるが、あれもカーニヴァルや仮面舞踏会をメインでは扱っていない。
ヴェネチアのカーニヴァルといえば、『007』の小エピソードや煙草のCMを思い出すが、「あれだけホラーと相性がよさそうなお祭り&舞踏会」なのに、正面切ってそれを題材にしたホラーはなぜかなかったような気がする(あったらぜひコメ欄で教えてください!)。
アレックス・デ・ラ・イグレシアは、ひょっこり「ジャッロとしてはこれしかない」という大ネタを引き当てたのだ。
オープニングからして、もう最高だ。
60~70年代ジャッロのポスターアート(というか、それがモロに影響を受けている50年代のパルプのカバーアート)の影響下にある、あざとくも美麗な絵柄と色彩。グロテスクに誇張された顔、顔、顔。妖しげなヴェネチアン・マスクの数々。
観ているだけで、もうわくわくがとまらない。
ジャッロが何かをわかってらっしゃる!
冒頭に出てくるツーリスト殺し、大型クルーズ船から30代の5人組が下りて来て、水上タクシーで「道化師」と出逢うまでの躁的なテンポ感も素晴らしい。
息つく間もなく、本題に突入する、いきなりアクセル全開の疾走感。
(水上タクシーといえば、このあいだ観たイオセリアーニの『月曜日に乾杯!』でも、水上タクシーの船長との友情が描かれていた。)
ちなみに、カーニヴァルの開催時期は例年2月。みんな着こんでいる感じもないわりに、海に落ちた弟が死ぬほど寒がっているのはこれが「冬の海」だからだ。このあたりの描写で、船長がわざと落ちるように操船したのでは?とか、乗り込んできた「道化師」とグルなのでは?と思わせるやり口がいかにもジャッロらしい。
チェックイン。街ブラ。仮装ディナー。
道化師や、ペスト医師や、亡霊の仮面をつけた人の群れ。
夜の街。酒場。黒い扉。謎のサイケデリック・パーティー。
イグレシア監督は、きわめて巧みにヴェネチアの風俗やカーニヴァルの細部を映画内に取り込んでいる(扉の上に刻まれた謎の紋様とか、合言葉とか、薬酒とかは『サスペリア』への目配せだろう)。
たとえば、ツーリストがいきなり刺し殺される「仮面の扉」。
ヴェネチアン・マスク店の扉は実際にあんな感じになっているし、そこに何食わぬ顔で殺人鬼が顔を出して、トタテグモのように獲物が通るのを待ち構えていると思うとドキドキする。
そのあと、スラッシャーショーが始まるかと思いきや……
まさかの『ヴァルカン超特急』展開!
ナイトパーティーのあと失踪した弟を探して、官憲とヴェネチアの街を回るが、誰も「弟が存在したことを認めない」という不可思議な事態に。
この場合、そもそもSNS陰謀論者の弟が写真に写らないよう生きてきた人間だとか、直前に海に落ちてスマホを無くしたとか、特殊な要素が絡んで成立している不可能要素なので、ヴェネチア側の誰かが「仕組んだ」現象だとはいいがたいのだが、それでもヴェネチアという「魔界都市」の妖しさ、異界につながっているような怖さを強調する演出としては面白い。
そして、ついに殺人鬼の本格稼働。
リゴレットの道化師の扮装をした殺人鬼は、『復讐だ、すごい復讐だ』と叫んで人を殺すが、これは実際に『リゴレット』第二幕でリゴレットが唱える「Sì, vendetta, tremenda vendetta」から取られている。
道化師(ピエロ)はイグレシア監督にとって常に「虐げられてきた者」の象徴であり、「攻撃性とペーソス、恐怖と笑い」の要素を兼ね備えた特異なペルソナなのだ。
特徴的なのは、この「道化師」殺人鬼が夜陰に紛れて何かするのではなく、常に陽のあたる日常のなかで当たり前のように動き回り、成り行き次第で辻斬りのように平然と人を殺すことだ。
『赤い影』で「夜」や「路地裏」「地下水路」に封じ込まれていたヴェネチアの「魔界性」は、本作においては、陽の光のもとに拡張されているわけだ。
なぜか。それはこの時期のヴェネチアが「カーニヴァル」だから。
祝祭で聖化された街では、街の表と裏は一体となり、魔界が現実を侵蝕し、仮面の匿名性のもと、数多の魑魅魍魎が解き放たれる……。
船上での斬首殺人に船客が誰も気が付かないとか、街中での殺人を残虐ショーだと思って観光客大喜びといった部分は、流石に現実というより風刺の色が強い感じだが、カーニヴァル期間中に「残酷ショー」の寸劇が行われること自体はあってもおかしくなさそう。
なんにせよ、陽光のもと突拍子もなく始まる惨殺劇は、単に恐怖を喚起するだけでなく、ある種の「笑い」「冗談」「戯画」の気配を身にまとう。
いかにも、恐怖とファルスをつねに表裏一体で考えてきたイグレシアらしい試みだと思う。
あえて深くは触れないが、終盤の半水没した劇場で展開されるグラン・ギニョルも素晴らしい。
その過剰さと悪ノリと美意識は、まさにイグレシア印。
じつに楽しそうだ。
操り人形でしかない「道化師」が、操り人形を操ってみせる。
頓智もきいている。
このあとの展開については(否がだいぶ多めの)賛否両論があるだろう。
ホラー映画としては、明らかに「失速」して終わっているからだ。
だが、だからこそそこにはイグレシア監督の「本当に伝えたかったこと」が含まれているのかもしれない。
『べネシアフレニア』は「オーバーツーリズム」問題を扱った社会派映画でもある。
でも、それは本作の提起する問題の一面に過ぎなくて、本当は「保守主義者による他国民排斥」を扱った映画でもあるわけだ。あるいは、グローバリズムとそれに対峙しようとする右派伝統主義者の「分断」の物語ともいえるし、オーバーツーリズムに対抗しようとするテロリストたちの「テロルの作法」を問う作品でもある。
何かしらの思想的な分断が起きたときに、敵勢力の「暗殺」もしくは「公開処刑」をもって「恐怖(テロル)」をばらまく暴力的手法を是とするのか。それとも殺人を用いない誘拐・拘束・脅迫の範囲で主張を広めることを是とするのか。
実のところ、ここで双子の兄弟によって示される二つの手法的対立は、まさに60年代末から70年代初頭に吹き荒れた「政治の季節」にしきりに問われていた「暴力革命」をめぐる思想対立とパラレルである(この時期が、まさにジャンル映画としてのジャッロの「全盛期」であることもわれわれは見逃してはならない)。
そして、それは元首相暗殺が実行された日本においても、保守とリベラルの分断が臨界点に達している西洋諸国においても、戦火のただなかにあるロシアとウクライナにおいても、決して無縁のテーマではない。
人は暴力をもって、あるいは劇場化された死によって、理想をかなえられるのか。
このいかにもB級の、くだらなそうな、血まみれのジャッロもどきの映画は、そんな切実な問いをさりげなく内に秘めている。
もう一つ付け加えておくと、現在のヴェネチアン・カーニヴァルは、実は古来受け継がれてきた伝統的な祝祭ではない。いったん18世紀に規制によって廃れて喪われた祭典を、1979 年になって「観光目的で復活」したものなのだ。
あえて、そのカーニヴァルを舞台に、こんな話をつくってしまうアレックス・デ・ラ・イグレシアの底意地の悪さが僕は大好きだ。