「「茶飲み友達」という罠」茶飲友達 ジユージンさんの映画レビュー(感想・評価)
「茶飲み友達」という罠
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最後に残ったのは、はっきりとした断罪だった。
曖昧な動機、複雑な背景、そして語られた言い分のすべてを通り抜けた先で、ある一線が引かれた。そこに情や事情が割って入る余地はなかった。
ルールが存在する。
誰がどんな理由を持っていたとしても、その線を越えた者に対して、社会は一つの態度しか示さない。厳密で、冷たく、揺るぎないものとして。その判断の重さは、理不尽さではなく制度の構造そのものであり、それに抗うための言葉は、何をどう並べても届かない場所にあった。
マナが語っていたことの中に、一抹の真実があったのは確かだ。
目の前にいた人々をほんの少し笑顔にしようとした場面も、空虚なものではなかっただろう。ただ、それがどうあれ、越えてはならない領域が存在し、彼女は確かにそれを超えた。
そうして、物語の中で重なっていた人間の揺らぎは、制度の単純さによって切り落とされる。それが必要なことだと頭では理解できても、どこか拭えない違和感のようなものが残る。そこには、構造と感情がうまく噛み合わないまま通過した痕跡が確かにあった。
ルールを守れる者と、最初からそれにすら乗れない者がいる。
それが事実だとすれば、果たして今の枠組みは誰のためにあるのか、ふと立ち止まるきっかけになる。弱さに耳を傾けることと、正しさを執行することの間にある距離は、この物語を通してはじめて明確に見えてくる。
結末はあまりにも整いすぎていて、むしろ不完全に感じられるほどだった。
それでも、そこに描かれていたのは、確かに今を生きる制度と人間のあいだにある、小さな断層だったのかもしれない。
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