「異形のカルト・ノワールを現代のエンタメとして見事に蘇生させた、ウェルメイドな人間ドラマ」ナイトメア・アリー じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
異形のカルト・ノワールを現代のエンタメとして見事に蘇生させた、ウェルメイドな人間ドラマ
原作は既読(扶桑社版)。
本作のリメイク元の『悪魔の往く町』(タイロン・パワー主演、エドマンド・グールディング監督)も、昨年シネマヴェーラで鑑賞済み。
結論から言うと、想像していたより、ずっと「まっとう」なノワールだったし、ものすごく「ちゃんとした」エンタメだった。
『シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー賞も獲って、功なり名遂げて好きな映画を撮る自由を手に入れたデル・トロが、次回作で自分の偏愛する往年のフィルム・ノワールのリメイクをやるってきくと、どうしても「個人的」で、「マニアック」で、「趣味的」な映画になるんじゃないかと思ってしまう。
でも、実際に観た本作は違った。
むしろ、如何に「古い中身」を「現代のエンタメ」の器に注ぎ込んで「再生」できるかに腐心したような、とてもよくできたウェルメイドな人間ドラマに仕上がっていた。
デル・トロ、大人だなあ。
『ナイトメア・アリー』の原作は、かなり変わった小説だ(傑作だけど)。
出だしは、カーニヴァルの見世物小屋から始まる。芸人や猛獣使い、占い師、フリークスたちの居並ぶ一座に、若いマジシャンが入ってくる。上昇志向の塊のような彼は、とある経緯で女占い師とコンビを組んで読心術の舞台を務めるようになり、遂には秘伝のタネ本を手に入れ、一座で知り合った電気椅子芸の女性とボートヴィルに進出、夫婦で出演する読心術ショーで大成功を収める。
しかし、彼の野望はそこで終わらなかった。彼は「降霊術」を用いたペテンで、より大きな金と成功と名声が見いだせると気づき、霊媒稼業と宗教的活動にのめり込んでいくのだ。やがて彼は、とある女性精神分析医と運命的な出会いを果たす……。
各章の頭にはタロットのカードが掲示され、物語が運命に支配されていることを示す。キーとなるカードは、「吊るされた男」。貧困層の野心家が犯罪行為に手を染めて成り上がろうとする筋立てと、典型的な「ファム・ファタル」の登場という、ノワール特有の枠組みをもちながら、ショービジネスの内幕ものとしても、コンゲームものとしても読める独特の世界観を示す。なんというか、ネタのビザールな異形のノワールというか。やたら詳細にカーニバルの隠語や、手品のタネ、降霊術のトリックが明かされる、ある種の(『白鯨』的な)「情報小説」としての個性も強い。フロイト流の精神分析がふんだんに出てくるのはいかにも40年代的で、『白い恐怖』や、マーガレット・ミラーあたりのニューロティック・スリラーを想起させる。
主人公のスタンが切羽詰まったり、酒びたりになったりすると、思考の流れに則して「文体まで壊れてゆく」という、ジェイムズ・ジョイスのごとき文学的実験を、一般向けの小説でやっている点も面白い。さらには、アルコール依存の末、舌がんになって、最後は無一文で野垂れ死に同然で自殺したという著者ウィリアム・リンゼイ・グレシャムの人生も、作品と呼応するようで興味深い。
タイロン・パワー版の『悪魔の往く町』は、小説のヒットを受けて、翌年の1947年には公開されている。
112分と、当時としてはかなりの長尺の部類に属する映画でありつつも、とても原作の全部は入りきらなかったと見え、マジシャンとしての活動期の話や、スタンの過去と家族との関係性、霊媒師として積み重ねるペテンの数々などが、大胆にカットされている。また、ヘイズ・コードの影響で、ラストが大きく変更されている。
総じて、スタンという野望に燃える色男が、三人の人生を変える女との出逢いを受けて、どのような流転の生涯を送っていくかに、ぐっと焦点を絞った作りとなっているといえる。主人公も、明らかに犯罪者気質の強いピカレスク・ロマンである原作と比べると、かなり善なる部分をも内に併せ持つ穏当な描き方となっている(そうしておかないと、あのラストにつながらない)。
前半のカーニバルの描写から、ラスベガスで成り上がるまでの描写は、ノワールというよりはショービズもののノリで、トニー・カーティス主演のハリー・フーディニの伝記映画『魔術の恋』(54)を思わせる。後半、物語が降霊術関連の話になだれ込んでいくところも両作はよく似ていて、これは『ナイトメア・アリー』の主役の人物造形に際しても、フーディニを参考にした部分が大きいからだろう。
で、本作『ナイトメア・アリー』だが、映画のパンフにあるデル・トロのインタビューによれば、もともとは何十年も前(『クロノス』を撮っていた頃)にロン・パールマンに薦められてから、ずっと温めてきたリメイク企画らしい。
映画としては、明らかに原作準拠というよりは、『悪魔の往く町』準拠。すなわち、映画版のリメイクとしての色彩が強い。
物語の展開も、カットの仕方も、タイロン・パワー版にだいたい準じている。
ただし、前半の見世物小屋の描写、とくに原作にある「野人(ギーク)」の描写を、あえて再度復活させていて、ラストも「ほぼ」原作通りに修正されている。
まあ、「ここがこの映画のキモだ」と、デル・トロ監督も考えたんだろうね。要するに、ヘイズ・コードに阻まれて旧作では割愛せざるを得なかった、究極にビザールで皮肉で衝撃的なラストのギミックを、再映画化に際してきちんと補完してみせた、ということだ。
冒頭からの布石が、きれいに円環を成す、美しいエンディングだ。
なんとなく、ブラッドリー・クーパーの「アレ」は、ちょっと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のラストのデ・ニーロを思い出したなあ。
ああそうか、直前で「アマポーラ」が流れてたからか(笑)。
序盤のカーニヴァルから、デル・トロらしい映像美は充分発揮されている。
ただ、思っていたほどは、はっちゃけていない、というのが僕の正直な感想かも。
デル・トロなら、ヘネンロッターの『バスケットケース2』や、バーカーの『ミディアム』みたいな乱痴気騒ぎだってやれたと思うのだが、あくまで「控えめに」トッド・ブラウニングの『フリークス』を参照し、心からのオマージュを捧げた、という感じだ。
原作で出てくる「半分人間(ハーフボーイ)」みたいな面白ネタも、映像化を自粛してるし。
なんというか、一般の観客がウゲっとならない程度のマイルドさで、カーニヴァルの幻想性と郷愁を追求していて、『フリークス』ほどのぞっとするような「リアリティ」は、敢えて「封印」して臨んでいる。
主人公の手技の使えるマジシャンとしての要素や、当時のインチキ霊媒における定番だったラップ現象やエクソプラズムみたいなベタな要素も、ほぼ映画ではオミットされていて、あくまで「読心術師」が、そのままの勢いで終盤のアレに進むという構図になっている。
要するに、あんまり珍奇でクセの強い部分や、普通の客が観て趣味に走りすぎていると思うようなところを、監督は非常に注意深く避けて通っているようなのだ。
一方で、後半の「いかにもノワール」と思われる展開に入ってからは、完成度がぐっと際立ってくる。
とくに、ケイト・ブランシェット。彼女がとにかく、圧倒的に素晴らしい。
旧作の映画版よりも。……おそらく、原作よりも(笑)。
この人、台詞の内容と、その言い方の演技と、それを言っているときの表情の演技に、それぞれ「ズレ」をもたせてくるんだよね。
恐ろしいことを言っているときに、悲愴さを漂わせ、
攻撃的なことを言っているときに、弱さを漂わせ、
優しいことを言っているときに、非情さと狂気を漂わせる。
スタンに襲われてるときの演技とか、ちょっと余人に代えがたい壮絶さで、何人ものケイト・ブランシェットがひとつの身体のなかでせめぎ合っているかのようだ。
彼女のおかげで、本作の「ファム・ファタル」登場シーンは、たぶんデル・トロと脚本家が意図していたよりもずっと多層的で、深みのある複雑さをまとうことになった。
思想的な部分でも、『ナイトメア・アリー』は、現代の思想的な分断だったり、資本家と貧困層の対立だったり、集団のなかでの孤独だったり、今と共鳴できる部分をきちんと強調してきているし、「虐げられる弱者の連帯と精神的勝利」という、デル・トロ本来のテーマにも連関させている。
結果として、本作はピーキーで趣味的なカルト作というよりは、監督が愛してやまない変わり種のノワールを「今の一般的な観客でも咀嚼し、ふつうに楽しめる現代的な感性の映画」に再生させたものとなった。
まあ、それだったら、わざわざこんなクセの強い素材をリメイク元に選ばなけりゃいいのに、どうせやるならせっかくだし、とことんキッチュで、ビザールで、コテコテに頭のおかしい映画が観たかったよ、という意見ももちろんあるだろうが、デル・トロは、「そっちにはいかない」人だったということだろう。考えてみれば、そういうバランス感覚は昔からずっとある監督だよね。
サム・ライミやピーター・ジャクソンと一緒で、自分の出自や偏愛には噓をつかない「誠実なオタク」でありながらも、「ちゃんと」関わったみんながハッピーになれる映画を頑張って撮ろうとしているわけだ。
だからこそ。
本作はノワール好きや、カルト好きや、『フリークス』好きだけでなく、一人でも多くの「一般の人」に観に行ってほしいと願ってやまない。
で、逆にこの手のビザールな世界、あるいはノワールの魅力に目覚めてくれれば。
たぶん、それはデル・トロのいちばん望んでいることだろうから。