「禁欲的手法で撮られた豊穣なドキュメンタリー。観客が能動的に関わるからこそラストが胸にせまる。」GUNDA グンダ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
禁欲的手法で撮られた豊穣なドキュメンタリー。観客が能動的に関わるからこそラストが胸にせまる。
シネマ・カリテで開場前にチラシを漁っていたら、後ろのカウンターで声がする。どうやら予備知識ゼロの飛び込みで来たおばさんが、今日上映している映画について質問しているらしい。で、もぎりの館員さんが説明していわく、
「『ボストン市庁舎』は、ええと、ドキュメンタリーで、ただ仕事のようすを延々映しているだけの映画でして……」
「『グンダ』も、ええと、ドキュメンタリーで、ただ豚の日常を延々映しているだけの映画でして……」
「……そうですか」そして、帰っていくおばさん。
思わず噴いてしまった(笑)。
『グンダ』はたしかに、豚の日常をただ映しただけの映画だ。
正確には、豚とニワトリと牛の日常を映しただけの映画だ。
そうとわかっていても、今回は推薦人のメンツがすごい、というかズルすぎる。
なにせ、ポール・トーマス・アンダーソンにアリ・アスター、アルフォンソ・キュアロンあたりが口を揃えて絶賛しているうえに、ソクーロフとか「ノーベル賞に値する唯一の映画監督だ」なんていっちゃってるし。
これだけのメンツに激賞されちゃうと、こっちも観ないわけにはいかないじゃないか。
本作は、きわめて抑制的な製作スタイルでつらぬかれた動物ドキュメンタリーである。
通例、動物ものというと、野生生物の生活が描かれるが、今回は珍しく家畜がモチーフだ。
前宣伝でもさんざん強調しているとおり、モノクローム、無音楽、環境音だけの仕上げ。実に禁欲的なつくりである。デイヴィッド・アッテンボローのでてくるようなBBCの動物ドキュメンタリーに顕著な、「絵コンテ」の存在(=先に撮りたい絵柄があって、それに合わせて撮影する)すら、最大限に「隠蔽」されているのも特徴だ。
家畜が主役で、モノクローム、よけいな演出をしない、よけいな演技をさせない、よけいな説明をしない、という意味では、ロベール・ブレッソンの『バルダザールどこへ行く』(ロバの話)や、タル・べーラの『ニーチェの馬』あたりを想起させるが、あれらは「周囲の人間の生と愚かさを逆照射するための装置としての家畜」だった。
今回登場するのは、本当に豚と、ニワトリと、牛だけ。
ひととのかかわりはラストで象徴的に扱われるだけで、ほとんど出てこない。
さらには徹底的なローアングルによって、「人の視線の高さ」をレイアウトに取り入れないことで、撮り手の存在すらなるべくなら捨象して、気配を消している。
かといって、動物の生を人間のそれにたとえるような、『シートン動物記』のごとき古めかしい手法も本作ではとらない。ドラマも、イベントも、擬人性も、なにも恣意的にきわだたせることなく、家畜のひと夏(ずっと冒頭からラストまで、カラやヒタキの声に交じってカッコウの鳴き声がしているので、5月から7月くらいの限定的な時期のお話なのでは?)を、ただただ息を殺して、愚直に描き出している。
結論からいうと、大変よく「たくらまれた」良質のドキュメンタリーであり、一見どころか、百見の価値がある。
ただ、しょうじきとっつきやすい映画ではない。
たしかにレイアウトが巧みで映像が美しいから、観ていて飽きることはない。
とはいえ、とにかく長回しのショットが多く、しかもモチーフがなかなか動かない。
特に前半45分は、ずっと観ているこちらも息を詰めるように、同じ絵柄を延々見続けさせられるシチュが多い。小学生以来のバードウォッチャーで、ひとところで息をひそめて動物を見続けることに体感的に慣れている僕ですら、若干じれてくるくらいだ。
だから本作を観通すには、アントニオーニやアンゲロプロスに臨むのと同じくらいの、気構えと忍耐力が必要とされる。
とはいえ、じれながらもじっくり観続けていると、だんだんと新しい「気づき」に襲われるのは、絵画鑑賞と同じである。同じものをひたすら凝視するうちに、細部の気づかなかった何かに、眼と心が開かれるのだ。
そして、その「気づき」はおそらくなら、7時間の膨大なフィルムから、この1時間半を選りだした、監督とスタッフの「気づき」の集積でもある。
たとえば、中盤で出てくる牛の放牧シーン。
牛の群れが、広い農場の奥に向かって、走り出す。
まず、全体に静謐なトーンの映画のなかで、屋外で激走する牛たちからは、動的なアクションシーンとして、純粋に新鮮で鮮烈な印象が与えられる。
で、まず思う。……牛って「家畜」でもこんなにがっつり走るもんなんだな。
なんとなくこちらが持っている、野生動物はアクティヴに生を謳歌しているけど、農場の家畜は檻でじっとして何を考えているかわからない状態のまま死の運命を受け入れている、という「先入観」を、パンプローナ祭ばりに全身を躍動させて走る牛の映像によって、「揺り動かして」くるのだ。
そのあと続く、なんてこともない放牧の風景でも、観客の思考の回転は止まらない。
牛の身体から妙に突き出ている骨って、いったいどういう構造なんだろう。
牛って、前足をいったん折って、後ろ足から立ち上がるんだ。
牛の顔ってこんなに蠅がたかるもんなんだな。
あれ、この牛のペアってもしかして、お互い前後になって、相手の顔の蠅を尻尾で叩き合ってるのか?
いやいや、これ、みんなでやってるじゃん! もともと牛ってこういう習性があるってことか。なんて賢いんだろう!……みたいな。
説明テロップやナレーションがないからこそ、観客は「気づき」の快感を「わがもの」として満喫できる。この観客自らが観察し解釈するよう、作り手サイドから誘導してくるスタイルは、グンダの出産~子供たちの成長を描くメインのシーンでも、檻から解放されるニワトリたちのシーンでも、一貫して変わらない。
こうして90分にわたって、作り手は観客に「能動的な視聴」と「コンセントレーション」と「自分なりの解釈」を要求してくる。
監督たちとともに、覗き穴からグンダたちを「観察」しているような臨場感。
監督の敷いたレール上ではなく、自らの知覚で家畜の生態を「考察」しているという参加感覚。
これらを共有してきたからこそ、ラストの「あれ」がひときわ胸をうつ。
そういっていいだろう。
どういう展開かはここでは明かさないが、事ここに至って、われわれは「ああ、もともとこれが撮りたくて作られた映画なんだな」ということにはっきりと気づかされる。要するに、本作にはきちんとした「筋書」があり、「落としどころ」がある。
考えてみれば、冒頭があの形で始まるのも、しきりにグンダの奇形的に肥大した乳房ばかりが強調されるのも、みんなラストに向けての「伏線」だったわけだ。
でも、そういう「作為感」を徹底的にオミットして、われわれには「素材を提供」しているように見せかけることに成功してきたからこそ、ラストの仕掛けがストレートに(それこそ井上尚弥ばりのストレートで)、われわれの胸の奥にガツンと届くのだ。
監督ははっきりと、こう言い切っている。
「私は私たちが地球を共有している生き物たちについての映画をずっと作りたいと思ってきました。彼らを見下したり、擬人化したりすることはありません。また、感傷的に表現するのは避け、ヴィーガンのプロパガンダにならない映画を目指しました。」
この中立的で禁欲的な「距離感」の設定こそは、まさにドキュメンタリーの本道だといえる。
モチーフにのめり込み過ぎず、情報量を敢えて削ぎ落とし、不偏不党の立場で、なるべくなら手垢のついていない素材を提供する。この姿勢は、たとえば前に観た『ゲッベルスと私』とも共通しているし、総じてヨーロッパのドキュメンタリー作家たちが共有している「矜持」でもある。
ぜひ、日本やアメリカでプロパガンダ・ドキュメンタリーにうつつを抜かす、活動家まがいのエセ監督たちに、彼らの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだ。
あと余談だが、今回初めて「ドルビーサウンド」の完成形を目の当たり(耳の当たり?)にして、なかなかに興奮した。「ドルビーアトモス」というらしいが、本当にぐるぐる会場内を「音が回っている」。離れたところで動物が立てた鳴き声や、鳥のさえずりが、マジで距離と方角を伴って知覚できるのだ。これは地味にすごい。
この音響体験とセットでこそ、本作の臨場感はフルで満喫できるともいえる。
ラストシーンも、「音が遠ざかっていく」から、胸にせまるのだ。
ぜひ、映画館まで足を運んで、実地で「体験」してほしいドキュメンタリーである。