土を喰らう十二ヵ月のレビュー・感想・評価
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食べて、書いて、生死を共に
四季折々の自然の中で自給自足のスローライフ。
以前も橋本愛主演で『リトル・フォレスト』があったが、概要はその初老の男版と言った感じ。
長野の人里離れた山荘で、愛犬と暮らす作家のツトム。
幼い頃禅寺で学んだ経験から、作るのは精進料理。材料は全て自然で採れたもの。
そんな暮らしぶりを書き記す。
食べて、書いて、マイペースに暮らして。
ちょいと私の憧れでもある。(実際は大変なんだろうけど)
“食”の映画でもあるので、作られる料理の数々はそそり所。
精進料理なので殺生して得る肉や魚は一切使わず、自然から採れた菜や葉、実やキノコなどなど。
肉や魚好きの方には物足りないかもしれないが、山の中は具材が豊富。そうして出来た料理もなかなか!
一番食べてみたいのは、お湯やお酒で蒸して菜を添えたタケノコ。
それをお焦げ付きの白い炊きたてご飯で食べたら、堪らんだろうね~。あ~、お腹空いてきた…。
じっくり漬けた糠味噌。
梅干しの酸っぱさ、後から来るほんのりの甘さに泣く。
どれもこれも素朴で質素。が、バカになる美味しさ。
この地で育まれたもの、採れたものを食べる。
土を香り、土を味わい、土を食う。
人や外界との関係を断ち切り、仙人のように暮らす…って訳ではない。
執筆の仕事をしている。
電話などの連絡手段もある。
人との交流もある。
そんな彼の下をちょくちょく訪ねて来るのが、担当編集者の真知子。年の離れた恋人でもある。
ツトムの作った精進料理を美味しそうに食べる真知子。
彼女に料理を振る舞うのが、ツトムの何よりの楽しみ。
大人同士の変わらぬ落ち着いた関係であったが、ある時ツトムが提案する。「ここで一緒に暮らさないか?」。
二人の関係に変化が起きる出来事が…。
13年前に亡くなった妻の遺骨をずっと収められずにいる。
ツトムと同じく自然の中で暮らし、妻の亡き後もお世話になっていた義母が突然死去。一通りの事終わった後、義妹夫婦から遺骨を押し付けられる。
ツトムにも突然の病が…。心筋梗塞で倒れる。訪ねて来た真知子が見つけ、大事には至らなかったが、数日生死をさ迷う。
山奥の初老の男の一人暮らし。自由気ままに見えて、もし本当に“その時”が来たら…。
返答せずにいた真知子だったが、一緒に暮らす事を決める。
ところが、ツトムの方にも心境の変化。
死とは…?
生とは…?
沖縄を舞台にした作品が多い中江裕司監督の珍しい“本州映画”。舞台地もさながら内容も含めて、新境地と言えよう。
『飢餓海峡』などで知られる水上勉のエッセイが原案。幼い頃禅寺で学んだ事や晩年軽井沢(作品では長野に変更)の山荘で暮らした事、精進料理の数々など、ほぼ実体験。
担当編集者との関係は脚色であろう。何かちょっと取って付けたような感を受けた。
幾ら心境の変化があったとは言え、自分から一緒に暮らそうと言っときながら、心配して受け入れた彼女を申し出を断って、いやいや言い出しっぺは自分やないか~い!…と突っ込まずにはいられず。そりゃあちと関係が冷めて、別の人と結婚すると言われても仕方ない。
キネマ旬報や毎日映画コンクールで主演男優賞を受賞した沢田研二。確かに味わい深い抑えた好演だったが、そこまで秀でたものあったかな…? 個人的には昨年の主演男優賞なら、『さがす』の佐藤二朗、『流浪の月』の松坂桃李、『死刑にいたる病』の阿部サダヲ辺りを推したい。
松たか子も好演魅せるが、本来の実力存分に発揮…とまでは感じなかった。
出番僅かながら印象残したのは、これが遺作になった奈良岡朋子と愛犬“さんしょう”の賢さと可愛らしさ。
食べて、マイペースに生きて、単なる癒しムービーに非ず。
生死の境をさ迷って、今改めて向き合う。
やはり死は怖い。
どうしたら死と共に生きられるか…。
一度“死んでみる”。
ちょっと突飛な発想だが、全ての雑念を捨てて。ここら辺、禅寺で学んだ経験が活かされたと言えよう。
死から目覚める。
その時の陽光の温かさ。自然の美しさ。食べ物の美味しさ。
これが、“生きている”という事か。
妻や義母の遺骨を収められなかったのも、死に対して“抵抗”があったからであろう。ラストシーン、遺骨を収めた。死を受け入れたと感じた。
生があるから死があり、死があるから生がある。
当たり前の事だが、忙殺する日々に追われ、つい忘れがち。
明日もまたその次の日も…と思うから、しんどく面倒。
今日一日を全うする。
この台詞は染みた。
私も明日も明後日も仕事…と思うから先が重くなる。その日一日を無事終えて。
その積み重ねが、生きていくという事。
一日一日を。
食べて、生きて、全うして。
死神と仲良く付合う
原作は未読だが、どうも水上勉のエッセイを基にドラマを監督が執筆したようである
水上勉の小説は一冊も読んだ事はないが、何故か名前は知っている 何でだろうと思い出すと、どうも講演を沢山開いていたらしいので、その宣伝のポスターをやたら目にしていたことが原因だろうという結論に
自分が学生の頃の有名な作家達は、色々と地方の辺鄙なところに移住し、そこでの執筆活動をするというのも、或る意味ステイタスだったのだろう 勿論、静かなところで構想を練るのも大事な事だが、今作のように信州の山奥まで引っ込むと、そもそも生活していくだけでしんどいのに、その後の作家活動なんて、かなりのバイタリティがなければやっていけない 野良仕事なんてのはそれ程重労働なのだ 勿論、今のように機械化されているものもないのだから、自分だったらと思うとご免被る そしてそんな重労働の末に獲得した野菜や山菜を、これ又、畜生の肉が一切無い精進料理として、自然の味付けでのみ調理していくというシンプル且つ、骨の折れる、身を切るような手作業で作り上げる 劇中何度もシーンとして印象付けられる、野菜を洗うシーンでは、手指の感覚が無くなるんじゃないかと思う程、キンキンに冷えた水作業に、自分は手荒れが酷いから直ぐ諦めてしまうと、又自己嫌悪である そう、今作品、禅宗の教えがベースだから絶対に折れない諦めない心を日々の生活に賭して生きているのである
というと、あくまで映画だし、フィクションだから、実際はお湯使っているんでしょ?って勝手に自分を慰めながら観賞している自分は、今作品の真逆の生活を惰性で生きているから、本当に情けない限りだ 折角、東京からわざわざ逢いに来る編集者兼恋人の若い女性であっても、愛情はあるが、しかし自分勝手に振り回す 勿論、後半のテーマが"死"だけに、主人公が愛する人に先立たれた経験則から、自分のような気持にさせたくないという優しさ故かもしれない 毎日寝る前に、「皆さん、さようなら」と、念仏のように唱えて入眠するという、哲学的思考も、毎日、酒の力を借りなければ眠りの尻尾が見えない自分には、なんて穏やかで羨ましい習慣だろうと羨望する
世俗の中でも、主人公の様に芯を持った人は、その生活態度を凛として軽やかに過ごしているだろうし、自分のような惰性で生きてる人間は欲を貪りながらも、死を闇雲に怖がり、自らピリオドを打つことに躊躇する
修行は辛い、でも死にたくないなぞ、なんて恥ずかしい人間なのかと、自らの浅ましさに反吐が出る、そんな自分への説教映画であった(泣
最愛の妻を13年前に喪い、長野の古民家で一匹の犬一匹と暮らす作家の...
最愛の妻を13年前に喪い、長野の古民家で一匹の犬一匹と暮らす作家のツトム(沢田研二)。
ツトムのもとを訪れるのは、ひとり暮らしの師匠である年上の大工(火野正平)と女性編集者の真知子(松たか子)ぐらいだ。
ここのところ筆の進まないツトムに対して、何か書いてくださいと迫る真知子に気おされて決めた随筆のタイトルは『土を喰らう十二ヵ月』。
幼い時分に修行に出された禅寺での出来事を交え、山深い村でのひとり暮らし、特に食べることに焦点を当てて、思いつくままに綴ろうというものであった・・・
といったところからはじまる物語で、立春をはじめ短い文章とともに二十四節季のいくつかが、そのときどきの暮らしとともに映し出されます。
丁寧に撮られた映画、というのが鑑賞後の感想で、これほど丁寧な映像は近頃珍しい。
ツトム演じる沢田研二は年を経て、かつてのスリムな印象は霧消したが、独特なユーモアセンスがにじみ出ていて好演。
ちょっと色悪的な雰囲気もあって、料理する様などに独特の色気を感じます。
料理を担当したのは、料理研究家の土井善晴。
手間暇かけて素朴な材料の良さを活かした素朴な料理が素晴らしい。
(「料理は簡単でいいんです」といつも話してるが、映画に登場する料理の数々、手間暇かかってますよ)
映画に独特のユーモアを与えているのは、沢田研二のほかにも、亡妻の老母チエ(奈良岡朋子)や義理の弟夫婦(尾美としのり、西田尚美)などがいて、特にチエを演じる奈良岡が素晴らしい。
(遺影の写真の表情がまたいいんです)
チエの葬式で村人たちが、大きな数珠を回しながら念仏を唱えるのも興味深い。
(キリスト教のロザリオを思い出しました)
監督・脚本は『ナビイの恋』の中江裕司。
監督らしい映画です。
(巻頭、ビートとリズムの効いたジャズではじまるあたりも、ちょっと人を食った感じで、独特のユーモアを感じますね)
土と植物と生と死が食によって繋がっている。 季節ごとの主人公のモノ...
土と植物と生と死が食によって繋がっている。
季節ごとの主人公のモノローグ(台詞が原作からの引用なのかは分からないが、すごく胸に響く言葉)と、折々の山の幸を収穫し調理する姿だけでずっと見ていられる。冒頭の山菜(ヤマゼリだったか)を炊きたてのごはんに和えるカットで思わずおいしそうと声が出てしまった。沢田研二の語りの声がまたいい。
ストーリーは義母の通夜ぶるまいを承に、主人公自身の行く末の話となり転結が描かれる。映画の展開上必要だとは思うが、食の主題とのつながりは若干ぼやけたように感じた。死を意識しつつ「生きるために食べる」というところに最後は戻ってくるのだが、せつない。
五感で感じる映画
四季の移ろい、食を含めて自然の豊かさを五感で感じる映画でした。しいんとした田舎の古民家で登場人物が食べる「音」がやたら響きます。耳で味わうことができるのです。そして、ツトムが雪からほうれん草を取り出すシーンや、 蛇口の水で野菜を洗うシーンは、本当に冷たい気分になるんです。ほくほくした小芋を味わうときは、自分もアチチ、と思いながら見てる。村の人たちに評判のいいゴマ豆腐も、無意識に想像しながら自分も味わっている。いつのまにか、自分も体験している、そんな映画でした。
沢田研二さんも松たか子さんも、ほかの共演者さんたちも自然な演技で素晴らしかったし、映像的にもとても美しかったし、最高、といいたいところですが、ストーリー的に疑問を感じてしまったのは否めません。死生観に浸って「みなさん、さようなら」って死ぬ覚悟はいいけれど、このまま死んであとに残ったサンショのことは考えていないのかしら?とか思ってしまいました。
でも、最後の沢田研二さんの歌が素晴らしすぎて、疑問なんて吹き飛んでしまうくらい、観終わったあとすがすがしくなります。こんなに心にしみる歌を歌う人だったんですね。子どものころの流行歌手といったイメージだけでしたが、歌い方も声も伝わってくるものが素晴らしい。歌を聞いていてここまでじいんとしたのは初めてです。すごい歌手だと思いました。(今さらですみません)ぜひまたTVでも歌っていただきたいです。
美味しそうなお料理と日々の移ろいを眺める時間。
作家をしながら山中の家で身の回りで採ったものをいまだく、自給自足に近い生活を送るツトムさん。
冷蔵庫はないみたいだからお野菜は漬けるし、ご飯は釜で焚き火で炊くし、季節ごとに収穫できるものをシンプルに調理して食べる。
幼いときに修行したという京都のお寺での経験やお父様の教えを実践するツトムさんが素敵だった。
土井善晴さんが監修されているという、シンプルながらとても美味しそうな料理(釜炊きごはん、お芋のいろり焼き、山菜、たけのこ、梅干し、ゆず味噌大根など)も素敵だったなあ。
しかし通夜振る舞いをある食材のみでメニューから組み立て、ほぼ自分で作るツトムさんがすごすぎる…(参列した地元のおば様方のウケもばっちり)。
食材はほとんどスーパーマーケットで購入する私たちは忘れがちな気がするけど、食べ物はすべて元々生きていたものたちで、植物には旬がある。
自分で収穫したものを、丁寧に向き合いながら調理し、いただくこと。
料理に限らず、例えばお掃除だって、自分の手で床を掃き清めたり、雑巾がけしたりすることは、その対象に向き合う、ということだ。
そしてそのように食べるものや暮らしの上で接するものに時間をかけて向き合いながら生きることが、いわゆる「丁寧に生きる(暮らす)」ということなんだろうなあと、本作を観ながら思っていた。
(とりあえずほうれん草の根っこはこれまでのように切り落とさないで調理してみようと思う…)
「効率的」とか「便利」はそれも確かに豊かな暮らしに不可欠だし、正直今さら文明の利器は手放せない。
ただそうだとしても、「目の前のものに向き合おうとすること、知ろうとすること」は放棄はしないでいたいなあ、としみじみ思いながらスクリーンの中でゆっくり進んでいくツトムさんの生活や山の景色を眺めていた。
良い時間だった。
少し残念だったのがストーリー。
特にこの作品においての真知子さんという存在はいったい何だったのだろうと個人的には腑に落ちてない(松たか子さんは素敵だったのだけど)。
あとツトムさんの義弟夫婦の感じの悪さと残念っぷり(最初から最後まで良いところ一個もなかったぞ…)もこの作品に果たして必要だったのか…?と少し疑問。
個人的な感想としては、本作に関しては起伏のドラマなんていらないから、ツトムさんの訥々と語られるモノローグや、日々の心のゆらぎ、地元の人たち(ツトムさんの師匠の火野正平さん、素敵だ…)とのやり取り、山の風景やお料理の様子のみに焦点を当てて走り抜けて欲しかった気がしなくもない(原作?原案は未読なので原作に沿ったものなのかもしれないけど)。
ふたりの関係が料理を共に喰らうだけでなく、具体的にどんな愛し合う関係だったのか、突っ込みが足りない気がしました。
「雁の寺」「飢餓海峡」「はなれ瞽女おりん」など生前、小説の映画化が多かった水上勉が1978年に女性誌に連載した随筆「土を喰う日々 わが精進十二ヵ月」が本作の原案となりました。水上は映画会社にいた時期があるそうです。自分が書き残した小説ではなくエッセイを元に、自身を模した主人公を、年を重ねても色香を漂わす沢田研二が演じたと知ったら驚いたかもしれませんね。
生きることは食べること。誰かと一緒に食卓を囲めたら、なおさらいいですね。四季の移ろいとともに暮らし、自然の恵みをいただくこと。そんなふうに生きられたら、最高でしょう。
そんな料理エッセーの装いの中で、生や死、人間としての欲や業に向き合う登場人物たちの姿が端正に描かれます。穏やかに過ぎる日々、それがこんなにドラマチックに感じられました。
同様の作品で思いつくのは、橋本愛主演の『リトル・フォレスト 夏・秋』(2014年) 、『リトル・フォレスト 冬・春』(2015年)が挙げられますが、やはり本作の方が圧倒的に味わい深かったです。
加えて、本作はとても贅沢な作品です。
信州は白馬の集落で、1年半もかけて美しく移ろう四季の風景をカメラに収めるなんて今の邦画製作では考えられないほどの予算無視した長期ロケに取り組んだことになります。何しろ立冬から立ち上げ、再び立冬に至るまでの二十四節気(今でも立春、春分、夏至など、季節を表す言葉として用いられています。1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けたもの)をその都度ロケしていますから、主演の沢田研二はおそらく撮影期間中は白馬の現場に貼り付けになっていたものと思われます。
また主人公のツトムが暮らす山荘は、水上が晩年を過ごした長野県東御市と近い、白馬の廃集落の茅葺屋根の古民家を撮影用に再生したもの。畑も開墾したというから、DASH村を作り上げたといってもいいでしょう。かまどや囲炉裏があり、2人が食事をする居間は大きな窓から季節で移り変わる外の景色が見え、その居心地の良さに、自然と役に成りきれたと出演した松たか子も絶賛していました。
もう一つの主役が、料理研究家の土井善晴が作る数々の精進料理です。スタッフが現場の畑で実際に育てた旬の野菜を使った煮ものや胡麻豆腐など、特に湯気の立つタケノコを大きな皿にドンと盛った若竹煮のド迫力には、たまりませんでした。俳優たちの気持ちがそのまま、画面に滲み出ていていたのです。
「土井さんの料理は、味が濃すぎず薄すぎず、出汁が勝ちすぎてもいない。塩梅がちょうどいい。演技じゃなく、誰でもああいう顔になりますよ。おいしいものを食べたい欲求と、ツトムさんに触れたい欲求はきっと同じなんでしょうね」。松たか子でも思わず素になって味わってしまったのでした。
とても良い塩梅の映画だったのです
作家のツトム(沢田研二)は、人里離れた信州の山荘で愛犬と暮らしていました。少年時代を過ごした禅寺で精進料理を学び、それを日々の暮らしに活かしていたのです。
冬は雪を掘り、菰で守られたホウレン草を掘り出し、茹でます。春、夏、秋と土の中から畑で育てた野菜が掘り出され、土を洗う場面が繰り返されます。さらに周囲の山々で採った木の実、キノコ、山菜で料理を作る日々でした。毎日、食材を収穫するツトムの行動が次第に当たり前に思えてきます。タイトル通り、人の営みと大地が近い暮らしぶりでした。
楽しみは、時折、担当編集者で恋人の真知子(松たか子)が東京から訪ねてきて一緒に食べる特別な時間を過ごすこと。
一方で、13年前に亡くなった妻八重子の遺骨を墓に納めることができずにいました。八重子の母のチエ(奈良岡朋子)のもとを訪ねたツトムは、八重子の墓をまだ作っていないことを咎められます。のちにチエは亡くなります。チエの葬儀はツトムの山荘で営まれました。
葬儀が終わり、ツトムは真知子に山荘に住むことを提案します。真知子は考えさせてと応じましたが、この後二人の心境が変化する大きな出来事が起こったのでした。
圧巻はチエの通夜のシーン。予想よりも多くの人が集まり、真知子も東京から駆けつけ葬儀の準備に追われたのです。大勢の参列者に振る舞う料理を2人で捌かなくてはいけませんでした。しかも大雪で仕入れが出来ず、材料は畑の野菜や買い置きのもので凌ぐしかありません。
台所に、ツトムの指示に応える「ハイヨ」という真知子のリズミカルなかけ声が響きます。胡麻豆腐にはじまり、ツトムの手際の良さに圧倒されました。誰かのために生き生きと料理を作るツトムの姿はに思わず見惚れてしまう真知子の表情が印象的でした。
掘り起こした芋の土を丁寧に落とし、皮をむき、包丁で切っていく。ツトムが食材を扱う手つきは、器用ではないけれど丁寧でゆったりしていて、そこはかとなく色気が感じられます。さすが沢田研二!
「ナビイの恋」などの中江裕司監督は、ツトムの手の動きを追いかけ、まるでドキュメンタリーのようにその工程を映し出したのです。
ところで、野菜は土の中で身を太らせ、山菜は降り注ぐ陽光に葉をいっぱいに広げます。旬をいただくということ、そして土を喰らうことは生命の絶頂を摘み取り、身に取り込むことなのです。業の深い行為なのです。そこから念仏ならば、ご恩報謝の感謝の心が自然と湧いてくるものですが、残念ながら幼い頃に禅寺で修行したツトムには、その観点が抜けていていたのでした。
なので人と関係を断てる山里に暮らし、自給自足の仙人のような暮らしから悟りの雰囲気を楽しんでいたのです。それはわたしから見れば、身勝手な野狐禅のように思えました。それが露呈するのが、ツトムが心筋梗塞を起こしてしまったことから。タイミングよく真知子が駆けつけていなかったらツトムは確実に死んでいたことでしょう。当然ツトムは妻の死、そして自分の死とも向き合うことになります。悟りの雰囲気だけ楽しんでいたツトムには、死を受け入れようともがきつつも、生に執着するのです。本来仏教は執着と迷いを立つ教えなのに、ツトムは迷いもがきます。中江監督が生み出した場面が秀逸です。
ここまでネタバレ無し!
【注意:ここから一部ネタバレあり】
そして出した結論は、一人で死ぬまで生きていくこと。その結果、倒れる前には真知子に一緒に住もうとプロポーズしたのに、ツトムの方から別れを切り出すのでした。
いくら真知子に負担を負わせたくないという愛情から出た言葉としても、これまでの真知子の献身に感謝が足りないと思えました。「身勝手ね」と怒りながら立ち去る真知子の悲しみにいたく同情してしまったのです。
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ここからネタバレ無し!
それにしても沢田のツトムは絶品です。老境の作家の枯れた雰囲気が、里山の風景となじんでいた。それでいて真知子と2人きりの場面はほのかに上気した空気を生み出し、心に生まれたさざなみも巧みに伝えてくれました。自身の人生が染み出すような名演たったといえるでしょう。脇を固める奈良岡朋子、火野正平も、人生の達人像を具現化していた演技でした。加えて大友良英のフリージャズが、軽やかに物語に重なりました。
最後に一つ気になることがあります。
前半、カメラは台所と居間を行き来して、寝所は映されません。締め切り間近にふらりと現れる真知子との雑味を抑えるためかと見ていたら、寝所は後半、ツトムの死を意識した棺のように2度、出てきます。これでは真知子はツトムの老いを強調する小道具の感が拭えず、松の生かし方がもったいないと思えました。ふたりの関係が料理を共に喰らうだけでなく、具体的にどんな愛し合う関係だったのか、突っ込みが足りない気がしたのです。
生きることは単純なことなのに、人は色々と考えて自分から難しくしているように思う
前半は明るいノリで年の離れた恋人ともうまくやっているように思える、この部分だけなら山奥で自給自足の生活、小説を書いて暮らしている、誰もが憧れる田舎暮らしと見えるけど、これは健康な体があって、勿論多少のお金もなければ続けるのは難しいかもしれないと思ってしまったわ。
主人公のツトムは小説家という設定なので、一人でいるのが苦にならない好きという人は良いかなと思ってしまったけど。
映画の中でもスマホや携帯を使っているシーンはないし、真知子との連絡は電話だけみたいだ。
一緒に暮らそうかとツトムから言い出したけど、後半ではやっぱり一人の生活を求めるのは現実が見えて死に対して考えを改めたせいだろうか。
勝手だと責める真知子もだけど、こういうとき、最初に話を持ちかけられたときに即決したほうがいいと思うのだ。
年の差は分かりきっているし、少しでも二人の時間を過ごしたいなら悩む時間の方が勿体ないと思うのよ。
食べて体を動かして生きて行くのは単純で死が怖いというのも人間なら当然、シンプルなことだけど人は難しく考えてしまうんだろう。
使い切れないほどの金があっても体が弱かったり病気で動けなければ人生は幸せとは言えないと思う、でも、その反対も有りなのだ。
奥さんの遺骨をどうするのと真知子は最期の別れ際聞くけど、それを伝えなかったのは男としてのプライドか見栄、優しさなのか、どうなんだう。
松さんの演じる真知子は力強くてしっかり者という感じがするので別れた後は前を向いて、ツトムの元を訪ねたり、電話をかけたりという事はしないだろう。
でも、他の女優さん、例えば井川遥さんだとツトムがご飯を食べているときに、いきなりやってきてお「お腹空いたー」と家の中に入ってきそうな気がする。
「結婚したんじゃないのか」と聞いても、んっ、なんのこと?ととぼけそうな気がするのだ。
起きる、食べる、寝る~ふと気づけば早一年……
土から山菜を摘み、よく洗い、調理する。
それを都会で暮らす年の離れた若い彼女に振る舞う。
彼女は豪快に美味しそうに、そして嬉しそうに平らげてくれる。
なんと幸せな日々でしょうか。
最後の別れもお互いにとってベストな選択だったのだと思います。
老後は田舎で暮らしたいと言う話を良く耳にしますが、本当の田舎で生活するのは何もかもが不便そうで大変だろうなと思っています。
普段は都会で暮らし、日常に疲れたら息抜きで田舎へ小旅行~みたいな老後を送れたら最高だと思います。
そんな資金も器量も持ち合わせていませんが(笑)
【11/16追加:参考情報にネタバレあり】日本で過ごしている外国人の方もぜひぜひ、くらい。
今年327本目(合計602本目/今月(2022年11月度)14本目)。
映画のジャンルとしては…何になるのかな?
二十四節季(すべては出ません)ごとに、その季節にとれるもので料理を作り、その中でいろいろな事件が起き…と進んでいくタイプです。
主人公は設定にあるように山奥で質素な生活をしています。そのため、この前提で食べられる料理はたけのこ等、いわゆる「野菜料理」というのでしょうか、そのようなものが多いというのはありますが、こうした料理は日本料理ではどうしても今では「どこでも」食べられるものではなくなったのが今の状況といえますから(逆に言えばどうしても食べたいなら、山奥などのホテルや民宿などにとまって注文するくらいしかない?)、「日本の文化の一つなんだよ」ということで外国の方で日本語もある程度わかる方がいかれる類型もありうるのかな…という感じです。
ストーリーというストーリーが存在しない(あることはありますが、書くとネタバレになってしまう)こと、さらに食に関するいろいろな古典漢文の引用なども紹介されていて、知らなかった、なるほど…というところも多いです。ある意味「知的な枠」というのがこの映画ということになりそうです。
積極的なストーリーを見出しにくいというタイプはあるにせよ、この映画の視聴者の層として、「高年齢層」が想定されていることは明らかで、あまりあれもこれもと詰め込まず、そうだよね、(戦後の混乱期などで食物が満足でなかったころは)こうだったんだよね、という感じで見る、そういう類型が主に想定されているのではないか…と思います。
この映画を通じて、日本の料理の中でも、特にこの映画が参照しているタイプの料理が見直されれば、と思っています。
特に採点要素として引くようなところは見当たらなかったので、満点にしています。
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▼ (11/16追加/参考/葬式費用は誰が負担するのか)
・ 見られた方はご存じの通り、この映画内では「お葬式」がひとつテーマに入ります。
そうすると、「葬式費用は誰が負担するのか」という論点が気になります(映画内では適当にごまかされている)。
しかし映画内は明らかにリアル日本ですので、日本の民法その他を見ると…。実はややこしい事案です。
日本の民法その他を見ても、「葬式費用を誰が負担するか」については何ら規定がありません。それどころか「葬式」という語すら表立って出てきません。これは、お葬式それ自体がどうしても宗教性を帯びるもので、日本は戦後の日本国憲法で政教分離をうたっているため、その下位法(実質、憲法以外のすべての法)でそれを個々具体的に「何とか式にしなさい」とか「何とか式はいけません」ということを法律で定めることができないからです。
一般的な考え方は、「相続財産からの控除説」「相続人均等負担説」、「喪主全額負担説」がありますが、裁判例(名古屋高裁、平成24年3月29日。日本の司法の頂点にたつ最高裁判所の「判例」に対して、高裁以下の判例を「裁判例」として分ける考え方が普通です)では「喪主全額負担説」を取ります。「喪主が葬式の様式、規模などを決める以上、その負担も喪主に帰するのが妥当」という考え方です(したがって、喪主が全額負担せよという以上、他の相続人に対して立替分の均等額負担額を(当然のようには)個々に請求することはできない)。
※ この論点のややこしいところは、この論点のみならず、「お葬式費用の税金関係(相続税からの控除)」という「税金の論点」が絡む、というところに大半つきます(正しく申告しないと税務署がうるさいのは、ご存じの通り)。
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