シネマ歌舞伎 桜姫東文章 下の巻のレビュー・感想・評価
全4件を表示
二度とない奇跡の舞台の記録
冒頭のインタビューで玉三郎が釣鐘権助と清玄の二役を演じる仁左衛門の大変さに言及していた。二枚目の高僧である清玄は白粉で顔一面を均一に塗る白塗りの化粧。悪党の権助は顔の色が茶色に近い肌色の人物は侍や町人や悪人であることをあらわす砥の粉の化粧。早替りのたびに顔だけでなく胸や腕に塗った化粧を落として新たに化粧をするを繰り返すのだから想像以上に大変だったに違いない。上の巻と下の巻を続けて約4時間半で上演するのが本来の形式。70歳を超える二人には体力的な負担が大きすぎて長い間上演されなかったのだと思う。コロナ禍で上演時間が2時間半程度に制限され、4月と6月に分け36年ぶりに二人の共演が観られたことは幸いだった。
同じく仁左衛門は桜姫は玉三郎のためにある役とまで言い切った。高貴な姫から最下層の身分まで落とされ、女郎として春をひさぐまでを完璧に演じきれるのは確かに玉三郎だけだと思う。「山の宿町権助住居の場」でお姫様の台詞で時代に張って、安女郎の伝法な台詞で世話にくだけるのが似合うのは確かに玉三郎だけだと思う。玉三郎の衣裳のセンスには毎回脱帽させられるけれど、この場の衣裳は見事としか言いようがない。姫の衣裳のエッセンスを残しつつも花街で生きる女の意地を衣裳でみせ帯でとどめをさした。日本の「粋」とはこれなのだと目にしっかりと焼き付けておくべきだと思う。
清玄を毒殺した権助が父や弟の仇と知って、桜姫が権助の血を引くわが子と権助を殺してしまうのが下の巻のあらすじ。現代の感覚では何の葛藤もなく最後に元の姫姿に戻ってしまうのは到底理解できないだろうけれど、それが生の舞台のマジックで観客はなんとなく納得してしまうのである。それが仁左衛門と玉三郎の芸の力というところだが、当然のことながら、その記録に過ぎないシネマ歌舞伎では劇場ほどには感じることができなかった。昨年の上演記録なので大向こうの掛け声もなく。映画では拍手するのも憚れるので芝居見物の楽しみは半減してしまったのが残念だった。
六月大歌舞伎『桜姫東文章・下の巻』「序幕」長襦袢だけの桜姫が着物を着て髪飾りを付け姫姿に戻り蘇生した清玄との争いの後に権助に女郎に売られる覚悟を決めるという展開を玉三郎が説得力を持って演じる。仁左衛門の権助と清玄は桜姫と白菊丸の褥を其々想像させて艶めかしい。二人の役者の歳月を思った。
六月大歌舞伎『桜姫東文章・下の巻』「二幕目・大詰」姫君と女郎の言葉が混在して面白い場面という記憶も敵討ちの為とはいえ一度は情けを交わした男と我が子を殺す悲劇に比重が移ったように思えた。うたかたの恋は消え去り最後は元の姫と捌き役の美しい姿の玉三郎と仁左衛門に戻ったのが見物には嬉しい。
記録
桜姫、深窓の御令嬢から遊女へ、180度転身。それでも心に決めたツレを恨まないし、落ちた身の上を嘆くこともなく、現状を受け入れる。この順応力の高さ、あっぱれである。
ただし、やはり彼女にも許せない一線はあった。それが判明した時の、変わり身は早かった。ここで、現代劇なら、もう少し葛藤する心情を細かく描くかもしれないが、たぶん歌舞伎は約束事があるんだろう。仇は討つべし、家は復興すべし、江戸時代ではそれが常識だから、個人の感情は問題ではないのかも。
鶴屋南北の脚本は、きっと当時は沸いたのかもしれないが、今だと冗長に感じてしまう。残月と長浦のくだりもちと長い。通しで上演した記録を、後世に残すという意味では良いが、現代人が見るにはもう少し編集して、テンポアップした方が面白く見られると思う。桜姫のキャラは魅力があるので。若手を配役して、ハチャメチャに暴れても、別の味わいが出るかも。新春浅草歌舞伎とかで、超短縮版でやってくれないかな。
日本のフィルム・ノワールだ。逆ピカレスクロマンだ
この話はいつもの歌舞伎と違う。華やかな所が無い。だから、最後に華やかに大団円を迎えるって事か?
女殺し油地獄も見ようと思う。
怨念、恨み、呪い やっぱり日本の演劇はこうでなくては。立派なホラー。
追伸
玉三郎さんは凄い演者だと僕は思う。
全4件を表示