「監督もいけちゃう」ロスト・ドーター 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
監督もいけちゃう
この映画が何を言っているのか、わたしなりの感想を書いておきたい。
海辺の町にバカンスにやってきたレダ。48歳女性。比較文学教授。知的労働者の休暇らしい、なごやかなふんいきではじまる。
が、静かなビーチを満喫できると思いきや大家族の団体がやってくる。派手で堅気らしくない。そのなかに幼娘をあやす美しく若い母親ニーナがいた。
最初のうちは明かされないが、レダはかつて育児放棄をしたことがある。じぶんを認めてくれた教授と情人の仲になり、ふたりの娘を夫にあずけたまま、性欲と向学へ奔走する。
利かん気な娘をあやすニーナを見ているうちに、かつてのじぶんが重なり、はげしい悔悟の情がフラッシュバックとなって繰り返しレダの脳裏をよぎる。
──との構図はよくわかる。が、①トラウマが激しいこと、②子供が暴君すぎることの2点が過剰に描かれる。
①レダは四六時中過去のフラッシュバック=トラウマにさいなまれている。結果バカンスになっていないばかりか、慚愧に支配された彼女は情緒不安定。一種のメンヘラ。対人バランスが常におかしい。
②子育ては大変なこと。異論ありません。ただし、映画内の子供たちは、つねに駄々をこねて母親を困らせている。その強調表現によって、レダの浮気からの奔走に、正当性とまではいかないが、一定の妥当性を与えようとしている。
映画はすこしづつ、やがてはげしく、違和感に呑まれていく。
さいしょのビーチでのできごと。ニーナたちの団体の妊婦が、かぞくでまとまるため、場所(ビーチチェア)を移動してほしいとレダにたのむ。が、レダは動きたくないと言ってことわる。映画内の人も映画外のわたしもびっくり。以降、レダはawkward=気まずさ・ぎこちなさの発生装置のような人になり、トラウマも肥大していく。
ビーチでのできごと2。ニーナのむすめエレーナが一時行方知れずになったのを、レダが見つけ引き渡す。──それがきっかけで、ややニーナとお近づきになる。が、そのあと(なぜか)レダはエレーナのお気に入りの人形を盗む。
人様の娘が大切にしている人形を盗んだことに対して、レダ自身としても、他者に対しても納得がいく理由はない。彼女にしてみれば、トラウマにゆえんする、たわいない出来心だった。
この映画は一見、かつて娘を捨て、心に傷/慚愧をかかえたレダが、バカンスでの出来事をつうじて再生と快復する映画──のように見える。
が、ちがう。
原作は知らないが、映画The Lost Daughterは、世間知らずな教授のメンヘラな窃盗に対して、いわゆるDQN女がキレるという話。
ニーナたちの団体はギリシャの与太者一家。観光業で生計をたてて、わりと裕福な暮らしをしている。
ビーチボーイのウィルがレダに(ビーチチェア移動をことわった一件を)「あなたは勇気がある」と言い、つづけて「でも次は従って、かれらは悪いひとたちだから」と忠告する。
すなわち人を見る目がない知的労働者レダは、じぶんの若い頃と重なるニーナならば、人形を盗んだことを正直に白状すれば、察してもらえると踏んだわけ。
ところがニーナは夫におびえながら浮気を愉しむチョリースな女。あんたのトラウマなんか知るもんかFuckin' Bad Bitch!ブスッとひと刺ししか返ってこなかった。そりゃそうだ。だいたい何にも知らん人だし。
で、映画が言っているのは、わたし/あなたが、なにか悲しい過去の体験にゆらいする強迫観念/不安/トラウマに囚われているからといって、世間としちゃ、だからなんなの──にしかなんないよ、ってこと。
なんか犯罪やらかしたひとが、つい出来心でとかストレス貯まってとか言うのよく聞くけど、わたしたちの内的感情は、現実世界でエクスキューズにはなりませんよ──と映画は言っている。
エクスキューズ(弁解がましさ・弱者/被害者の泣訴)やかわいそうを多用する日本映画の極北(正反対)。監督マギージレンホール!!!。現実を見据えた厳しい映画だったと思う。
『本作は第78回ヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映され、4分間のスタンディングオベーションを受けた。』(ウィキペディア、ロスト・ドーターより)