「許されざる生き方」パワー・オブ・ザ・ドッグ つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
許されざる生き方
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」ほど、示唆に富んだシーンをこれでもか!と挿入しながら、観客に自分自身と向き合うことを強要する映画はないかもしれない。
かく言う私もこの映画から色々な感情と考察を受け取り、この映画を思い出す度に支離滅裂で混沌とした思考の波に飲み込まれて、自分は一体何を受け取ったのか、何を感じ何を考えたのか、どうにも整理できずにいる。
映画自体は映像表現と演者のきめ細やかな演技がマッチして、ものすごく満足感が高い。
この膨大な情報量を「物語」を軸に多方面へ展開しながらまとめられるのは、映画という媒体の強みであり魅力。映画の持つ力に感動する傑作と言える。
この映画には「許されざる生き方」の登場人物が3人出てくる。
1人目はレストランを経営しているローズだ。私が女だからなのか、どうしたってローズが気になる。
ローズは未亡人でレストランを経営しているが、多分未亡人じゃなくても家庭人より働くことの方が向いている。誰かに追従するんじゃなくて、自分で決断して自分が良いと思ったことをやれる人生のほうが幸せになれるタイプ。
登場した時のローズの溌溂さを思うと、ジョージとの結婚後、憔悴していく姿は忍びないものがある。
今だったら、ローズはレストラン経営をしながらでもジョージと結婚出来ただろうし、レストランと牧場の中間地点に新居を構えることだって可能だ。
フィルの死によって家での息苦しさから解放されたローズは、葬儀で義母から指輪を渡される。
家族代々受け継がれる指輪は、ローズが家族として認められた証であり、受け取るローズも微笑んでいる。が、私は少し苦々しく感じた。
ジョージと結婚した時点で、ローズはバーバング家の一員だったはずなのだ。しかし、義両親視点では頼りない次男の嫁、それも子連れの中年女である。
フィルが結婚すれば、指輪はフィルの伴侶に渡すのが筋だし、義両親がそう願っていたことは明白だ。
肝心のフィルが独身のまま亡くなったので、致し方なくローズの手に指輪は渡ったのである。
代々受け継がれる指輪。それは生き方が踏襲されることを意味し、ローズが新しいしがらみに囚われていくことを示唆しているようで、素直に彼女が幸せになれたと思えなかった。
2人目は主人公であるフィルだ。もう色んな人がレビューしているし、作品紹介でも必ず触れられるので省略してもいいと思う。
だって見ればわかるでしょ?
フィルを演じたベネディクト・カンバーバッチの繊細な演技が、彼の追い込まれた複雑な心理の表現に多大な貢献をしたのは明白だ。それだけ書いておしまいにしようと思う。
3人目はピーター。ピーターが一番興味深い。
ローズやフィルと違って、ピーターは自分の生き方に苦しんでいないからだ。
母に害なすものを排除すること、それがピーターの究極の目的であり、その為に手段は選ばない。自分の持てる知識やスキル、魅力を総動員して目的を為す。潔くも危ういピーターだけが、この映画の中で成果を上げている。
ローズやフィルとの違いのもう一つは、どんなに時代が進んで多様性に寛容な社会が訪れようと、ピーターの選んだ道だけは決して許されないであろうことだ。
女性が自立する?良いんじゃない。男が男を恋人に選ぶ?良いんじゃない。
自分と自分にとって大事な人を邪魔するヤツは殺す?いや、それはダメでしょ!
だが皮肉にもピーターは目的を達成し、今後も母を苦しめるものは自分の手で取り除いていく、という決意を語って物語は終わり、今は幸せそうなジョージとローズが今後どうなるのか、不気味な余韻を残している。
タイトルの「パワー・オブ・ザ・ドッグ」はピーターが牙を向ける相手であると同時に、ピーター自身のようにも思える。
聖書の該当部分は剣の力(暴力)と犬の力(無知な群衆)から救いを求める文章だ。つまり犬の力とは無知や偏見のことであり、「知ろうとしない態度」を意味していると考えられる。
ピーターにとってローズを苛むフィルの行いは「犬の力」に他ならないが、男らしさの呪縛に苦しむフィルを(その胸の内を薄々感じながらも)断罪し手にかけるピーターもまた、フィルを理解することより知らないフリをして排除する、という楽な方へと流れたように思えるのだ。
知り、理解し、寄り添うことは難しいし、体力と根気がいる。人はすぐに楽な方へと流れていってしまう。その「知ろうとしない態度」の果てに、苦しみが待ち受けていることを忘れて。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」がどことなく不穏なエンディングを迎えるのは、私たちの世界が犬の力の脅威に晒され続けているからかもしれない。
