「「唯一不可分な個人」と「自分探し」からの解放」ある男 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
「唯一不可分な個人」と「自分探し」からの解放
本作「ある男」の評論を当サイトに寄稿したので、このレビュー枠では補足的なトピックについて書いてみたい。
評では原作小説を著した作家・平野啓一郎が提唱する“分人主義”に触れ、「対人関係ごとに分化した異なる人格を“分人”と呼び、それら複数の人格すべてを『本当の自分』として肯定的に捉える」と紹介した。この分人主義と対照的なのが、従来の「個人の自我が唯一無二でそれ以上分けることができない最小単位である」という考え方。この考え方に基づいて、現状の自分に何かしら不満を持っている人が、「本当の自分はこんなはずじゃない」「いつか真の自分に出会えるはず」と思い込み、“自分探し”の旅に出たりしたのだろうと想像される。だが分人主義の考え方に立てば、どんな相手といる時でも、どんな状況でも、どんな気分でも、いろんな自分があっていいのだし、それらもすべて自分として受け入れられる。映画に寄せて考えるなら、出自や戸籍にとらわれず、さまざまな人生を生きていいじゃないかという、ある意味ラディカルでアナーキーな思想ととらえることができる。
自分の中の多様性を認めることは、他の人たちの多様性も認める寛容な社会につながるはず。小説にしろ映画にしろ、「ある男」に触れてそんな理念に近づく人が増えるといいなと願う。
もう一つ触れておきたいトピックが、評の冒頭でも言及したルネ・マグリットの絵画『複製禁止』に関すること。映画の中に登場するのは原作小説の冒頭に書かれていたのを踏襲したからだが、それとは別に、映画オリジナルのマグリット絵画への目配せがある。美術好きならきっと気づいただろうが、それは妻夫木聡が演じる弁護士の城戸が死刑囚の絵画展で目を留めた、顔の中心が潰されたように消された肖像のスケッチ(小説では肖像画は登場せず、風景画の画風が似ていることで、城戸は“X”とその父の関係に気づく)。マグリットは、顔の位置に照明の光があって顔がまったく見えない絵や、顔の中央にリンゴが配されている絵などを描き、「描かれた顔=個人のアイデンティティー」という肖像画の約束事の脱構築に挑んだ画家でもあった。映画の製作陣がマグリット風に顔が消された絵を登場させたのは、分人主義に基づく物語で『複製禁止』に言及した平野の秀逸なアイデアへのリスペクトであり、映像としてインパクトのある実に映画らしい脚色と言えるだろう。