「いろいろとれべち」声もなく 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
いろいろとれべち
軽トラで卵を売っている父子らしきふたりの男。
組織の屍体処理を副業にしている。
主収入はそっちだが、つましく生きている。
反社と田舎と底辺と暗愚。
韓国映画が得意とする描写だと思う。
在方とそこにいる教養のない人、かれらが依拠する闇の世界──を描かせたら韓国映画の右にでるものはない。
主人公はユ・アイン。
田舎の青年の雰囲気がじょうず。
投げやりで、短絡的で、ふてぶてしい──そんな人物像がバーニング(2018)にもこの映画にもあった。
アメリカ映画で障がい者が描かれるとき、それは多様性をあらわすために使われる。
韓国映画で障がい者が描かれるとき、それは何らかのいびつさをあらわすために使われる。
ユ・アインの役は唖者の設定で台詞がない。
さながら復讐者に憐れみのシン・ハギュンのようでもあり、映画のはじまりのノワール感はわくわくさせた。
が、身の代にあずかった少女を仮住まいさせている間に情がわいてくる──という話。
悪くないが筋を盛りすぎで、正直なところ主題はぼやけていた。と個人的には思う。
ストックホルム症候群のテーマを生かすにしては、込み入った話だった。
ただし監督ホン・ウィジョンにとってこれが初めての長編映画。女性である。
いうまでもないが基本的な映画技術もさることながら作家性が日本とはレベち。比べるひつようはないことだが、いつもながら愕然とさせられた。
日本に作家性をもった新人映画監督っているんだろうか?
(作家性の有無とは「どうしてもこれを作りたいという宿望」の有無、です)
ところで、日本映画だと、たとえばひとをコロすシーンで眉一つ動かさずに処置すると「おれはこんなに冷酷無比なんだぜ」というドヤりがあらわれる。
これは演者のドヤりでもあるが作り手のドヤりでもある。
もっと分かり易く言うと、たとえば、風呂場でためらいもなく屍体をバラバラにすると「(この描写)すげえだろ」という監督自身の承認欲求が入り混じったなんともいえないドヤりがあらわれる。
それらのドヤりは観衆からすると稚気だが、ぜったいにそれがあらわれてしまう。
ようするに日本映画は悪い奴を描写するのが絶望的にへたくそ。
反して韓国映画は悪い奴/事を描写するのがうまい。
雨合羽をきて、ビニールを布いて、道具をならべる、父子の日常性。とうてい拷問用の吊るしを設営しているとは思えない。
日本映画では韓国ノワールの模倣が潮流化しているが、やはり血は競えない──という話。