「言葉が変われば現実が変わる」人と仕事 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
言葉が変われば現実が変わる
コロナ禍は世界大戦と同じくらいのインパクトを与えたと思う。コロナ禍の前と後とでは、世界がまったく異なる。コロナ禍の後の世界を如何に生き延びるか。もはやコロナ前の生き方は通用しなくなっている。市場は縮小し、仕事はなくなって、税収も乏しいから福祉も行き渡らない。これが世界中で起きている。
しかしすべての人が困っているわけではない。経済が縮小するとき、最終的にしわ寄せが行くのは最も弱い人々のところだ。ある程度以上の収入がある人は、多少減少しても生きていけるが、ギリギリの生活だった人は、収入が減少したら生きていけない。子供の教育費にと爪に火を灯すようにして蓄えていた僅かな預貯金を取り崩して、その日暮らしをするしかない。蓄えが底をついたらどうなるのか。
「最後は生活保護がありますから」と総理大臣のスガは言い放った。生活保護を受けるのにどれだけハードルが高いか、実態も知らないはずだ。「働けるでしょう、選ばなければ仕事はありますよ」というのが役所の職員の口癖である。だったら役所で雇ってくれ。代わりにあんたが辞めて、生活保護を受けに来ればいい。言ってやりますよ「働けるでしょう、選ばなければ仕事はありますよ」
「三密」や「不要不急」という言葉を売り文句にして、映画館や飲食店を悪者にすることでコロナ無策の批判を逃れた都知事。コロナ禍にこの都知事でなければよかったのにと思っていたが、迎えた都知事選で、小池百合子はまたも圧勝した。テレビに出て「三密と不要不急の外出を避けてください」と、都民税を湯水のように使って働いてますよアピールのCMを打てば、他の候補者は手も足も出ない。
医療関係者は休みなしのハードワークで、欲しいのは休息と収入増だったが、政府がやったのはブルーインパルスの飛行を見せただけだ。典型的な「パンとサーカス」の「サーカス」の方である。安易に感動する人々が多かったのは驚いた。国民は政治を見抜く力を完全に失っているのだ。
本作品は志尊淳と有村架純という若手の俳優が人々の話を聞くスタイルで、謙虚な姿勢には好感が持てたが、もう少し踏み込んだ聞き方をしてもよかった。インタビューを受けた人々の話から本質が浮かび上がってこなかったのが残念である。志尊くんが着ていた胸に「DESPERATION(絶望)」の文字のあるシャツは何かの意図があったのだろうか。
それでもひとつ解ったことがある。言葉の問題である。福祉施設の保母さんが児童に自分のことを「先生」と呼ばせている。そして命令口調だ。この保母さんが一生懸命に仕事をしているのは分かるが、どこかで子供たちに言うことを聞かせたいという無意識の願望がある。だから自分のことを「先生」と呼ばせる。意識せずに上下関係と差別を生み出しているのだ。
日本国憲法第14条には「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と書かれてある。
学校の教師、弁護士、政治家などを「先生」と呼ぶことがそもそもおかしいのだ。ちなみに中国語で「先生(センション)」は英語の「ミスター」と同じで「~さん」程度の意味である。全員を「先生」と呼ぶなら問題はないが、一部の人だけを「先生」と呼ぶのは差別である。「先生」と呼ばれて嬉しがる低劣さこそが、日本人の精神性の本質なのだ。
当方は仕事でも「先生」は使わない。相手が弁護士でも税理士でも「先生」ではなく「~さん」と呼ぶ。社内でも肩書ではなく「~さん」だ。新入社員に対しても「~さん」と呼んでいる。小さな子供も「~さん」と呼ぶ。それに命令口調は絶対にしない。敬語は使うが、丁寧語だけだ。尊敬語と謙譲語は使わない。格差を重んじる言葉だからだ。言葉遣いの基準となる目上や目下という考え方自体が、すでに憲法違反である。現代文の授業から、尊敬語と謙譲語を削除していいと思う。不要不急の言葉であり、不自由で不平等の有害な言葉である。
たとえば誰に対しても「~さん」と呼び、誰に対しても丁寧語を貫く。これを家庭や学校や仕事場にまで押し広げたらどうか。親子も相手を「~さん」と呼ぶ。「おかあさん」や「おとうさん」はそのままでいい。しかし父も母も子供をさん付けで呼ぶのだ。教師も生徒も互いに「~さん」とよび、社長も社員も互いに「~さん」と呼ぶ。そして互いにですます調の丁寧語で話す。「先生」は廃止する。
コロナ禍で児童虐待が増えたのは、人と人とが近づきすぎると不快になるからである。自分のコンフォートゾーンに他者が長い間入りっぱなしになるのは、誰にとっても不愉快だ。距離を取るのに最も簡単なのが、言葉を変えることである。テレビドラマの「相棒」がずっと支持されて高い視聴率を取り続けている理由のひとつは、水谷豊演じる杉下右京が常に丁寧語で話しているからである。気づいている人もいるだろう。あの距離感が、杉下右京を孤高の存在にしている訳だ。
丁寧語は自動的に相手の人格を尊重する話し方である。そして犯罪の本質は他人の人格を軽んじることにある。児童虐待も同じだ。世の中の全員が杉下右京の距離感で話せば、犯罪や児童虐待が減るのではないか。もちろんそんなに簡単には行かないだろうとは思うが、少なくとも世の中から暴力や喧嘩、それにハラスメントは減るだろうという気がする。コロナ禍後は尊敬語と謙譲語と「先生」の廃止、それにですます調の丁寧語の普及が望まれる。言葉が変われば現実が変わる。「はじめに言葉ありき」(ヨハネ福音書第一章)なのだ。