「テーマ性とエンタメ性のバランス」キャンディマン maruさんの映画レビュー(感想・評価)
テーマ性とエンタメ性のバランス
オープニングでいきなり配給会社のロゴが反転して出てきたのは期待できた。こういう遊び心でエンタメ性を匂わせ(おもしろそう)と思わせつつ、映画のテーマが黒人に対する差別や迫害されてきたシリアスな歴史なので、映画として鑑賞者への負担は重くなりすぎないようにしつつ、発信するメッセージがぼやけないようにバランスを保っている。
キャンディマンという存在は、鏡の世界から現世(?)へ「キャンディマン×5回」を現世の人間が唱えると現れる。唱える=殺されるのだが、好奇心で言っただけで殺されてしまう。劇中では黒人以外。
キャンディマンは、迫害を受けてきた黒人の象徴であり、個人ではなく「迫害されてきた歴史そのもの」であるということ。黒人が味わわされた人間の所業とは思えない酷い仕打ちに対して復讐を…ではなく、これからも続くであろう繰り返されるだろうと踏んで、キャンディマンという存在を作り上げ、迫害に対抗する手段として「呼んだだけで殺される」という理不尽で対抗する。
果たして、キャンディマンを生んだのは黒人なのか。迫害をした連中なのか。
「生贄」として赤ん坊のころ差し出されそうになったが、ある女性に助けてもらった主人公。しかし結局その末路は、「生贄」という形になってしまい、キャンディマンになってしまった。「〇〇マン」というのは、ヒーロー色が感じられるのだが、ダークヒーローとも言い難い理不尽さは、例えば肌の色だけで迫害されてきた理不尽さとのバランスをとっている気もする。
テーマ性が強いにもかかわらず、映画としてエンタメも盛り込まれていることは、すごいと感心します。勉強になります。