「物語自体は説明が少なく、分かりにくいけど、圧倒的な映像がそんな不満を帳消しに。大人の心にこそ響くダークファンタジー。」グリーン・ナイト 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
物語自体は説明が少なく、分かりにくいけど、圧倒的な映像がそんな不満を帳消しに。大人の心にこそ響くダークファンタジー。
本作の原作は、中世文学の最高傑作との呼び声も高い14世紀の作者不明の叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」。「指輪物語」の作家J・R・R・トールキンが現代英語に翻訳し、広く読まれてきました。この魅惑的な原典を、自分の内面と向き合って成長してゆく若者の幻想的で奇妙な冒険物語へと大胆に脚色したのは、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』で知られるデヴィッド・ロウリー監督です。
本作のバックボーンには騎士道精神があり、冒険の旅をする若き主人公に 「人間としての品格をいかにして、自分自身の中に見いだすか」というテーマを託したそうなのです。
根本は「スター・ウォーズ」に通じる英雄譚ですが、波瀾万丈の活劇よりも独特の世界観と映像美に圧倒されました。
物語の主人公であるサー・ガウェイン(デヴ・パテル)は、アーサー王(ショーン・ハリス)の甥であるというのに、まだ正式な騎士ではありませんでした。彼は人々に語られる英雄譚もなく、ただ空虚で怠惰な日々を送っていたのです。
クリスマスの日。アーサー王の宮殿では、円卓の騎士たちが集う宴が開かれていました。その最中、まるで全身が草木に包まれたような異様な風貌の緑の騎士(ラルフ・アイネソン)が現れ、“クリスマスの遊び事”と称した、恐ろしい首切りゲームを提案します。
それは勇気ある者に、見事騎士の首をはねることできたら、騎士の持つ斧を与えるというものの、その代わり「1年後のクリスマスに、私を捜し出し、私からの一撃を受けるのだ。顔への傷、喉の切り裂き…やられたままやり返し、信頼と友情と共に別れよう。」というのです。居並ぶ騎士たちが尻込みする中、その挑発に乗ったガウェインは、彼の首を一振りで斬り落とします。 それでも騎士は悠々と首を拾い上げ、1年後に待っていると馬で立ち去るのでした。
。それは、ガウェインにとって、呪いと厳しい試練の始まりでした。1年後、ガウェインは約束を果たすべく、未知なる世界へと旅立ってゆきます。気が触れた盗賊、彷徨う巨人、言葉を話すキツネ…生きている者、死んでいる者、そして人間ですらない者たちが次々に現れ、彼を緑の騎士のもとへと導いてゆくのでした。
物語は不可解。まずゲームの意味が分かりません。勝ってもなんの見返りもないのです。なんでわざわざ相手を捜し出して、首を切られに行かねばならないのか。見ている方の疑問をよそに、1年後にガウェインは約束通り旅立つのです。
ものものしい緑の騎士をはじめ、登場人物はことごとく謎めいています。冒頭からの30分。アーサー王や女王(ケイト・ディッキー)は重々しく、舞台となる円卓のある大広間は薄暗く、光が闇に沈んでいた邪悪な魂、不気味な気配を浮かび上がらせるのです。
加えて、振る舞いが普通ではなく魔女のようなガウェインの母親(サリタ・チョウドリー)や、旅の途中で出くわす盗賊(バリー・コーガン)、そして裸の巨人との遭遇。さらには、たどり着く城とその主人。そんな異形の者たちが、説明なしに次々と登場し、通り過ぎていくのです。
登場人物も彼らとの挿話も、神話的で寓意に満ち、さまざまな解釈ができそうです。
緑の騎士を自然の象徴として、1年の間に死と再生を繰り返す緑の循環と、人間との相克を読み取るというような解釈もできることでしょう。でもそんな解釈は、後からゆっくり考えればいいのだと思います。本作は怪奇でありながら映像美に溢れた独特の雰囲気にどっぷり浸るべき作品なのです。
ガウェインも、原作の立派な騎士から、まだ騎士にさえなれない、未熟な若者に改変されていました。アーサー王にまつわる壮大なストーリーと思って見始めると、ガウェインが言い訳ばかりのなかなか怠惰な人間として描かれていて、神話や英雄を捉え直すような試みに監督の独創性を感じることができます。
まだ語るべき物語を持たない主人公だからこそ、冒険を通して自分と向き合っていく過程に引き込まれることでしょう。緑の騎士からのゲームの提案も、ガウェインが次の王に相応しい人物としての試練を与えるものだったと解釈すれば、スッキリ腑に落ちるのではないでしょうか。
そんなガウェイン役のパテルが見せる情けなさが漂う表情も、この旅に説得力を与えていると思います。最後までガウェインの冒険は続きます。言葉を話すキツネやさまよう巨人などのキャラクターや、幽霊のような少女に泉に導かれるエピソードや、たどり着いた城で城主の妻に誘惑されるエピソードなども、光と闇が印象に残ります。
一方、盗賊と出会う荒れ野の場面や世話になった城主と別れる森の場面などはロケ撮影が素晴らしかったです。荒涼とした原野と広い空、うっそうとした森に人物を配した映像は一見すると絵画的だが、実は映画的だと思います。
盗賊と馬上のガウェインのやりとりを捉えるカメラは、後退しながら2人の歩行に延々付き添います。森の風景をじっと静止画のように見せ続けることはせず、短くカットすることもちゅうちょしない。デヴィッド・ロウリー監督の独創的な映像は、美しいだけではない。あくまで映画的であることにこだわった成果といえるでしょう。
本作でガウェインの物語自体は説明が少なく、分かりにくいことでしょう。ちりばめられた象徴を読み解くのも容易ではありませんが、圧倒的な映像がそんな不満を帳消しにしてしまいました。大人の心にこそ響く映像美あふれるダークファンタジー。傑作ではあります。
最後に原作の最後のシーンを紹介しておきます。本作の結末とは全く異なりますが、緑の騎士のゲームが意図したものは何だったのか、ヒントにはなるのではないでしょうか。
●『ガウェイン卿と緑の騎士』第四部より抜粋(WIKIより)
実は、緑の騎士はガウェインが逗留した城の城主、ベルシラック(Bercilak)だったのだ。城に泊めたのも、后に誘惑させたのも、すべてガウェインの度量を試すために仕組んだ罠だったことを打ち明ける。寸止めを二度したのは、ガウェインが約束通り、物品の交換に応じたことと、后の誘惑を礼儀正しく固辞したからであると述べ、傷を負わせたのは、今ガウェインが身につけている緑の帯がベルシラックのもので后から譲られたものという過ちを戒めるためだと説明する。さらに、自分が緑の騎士に姿を変えられているのは城に住む魔法使い「モルガン」(Morgan)の術によるものであると打ち明ける。二人は互いの度量と礼節、武勇をたたえ合い、ベルシラックはその功を称えるためそのまま帯を交換することを提案する。ガウェインは快諾し、ベルシラックは今一度、城でもてなすことを申し出るが、ガウェインは固辞し、アーサー王宮殿に帰る。緑の騎士の帯を身につけたガウェインは、王をはじめ宮中の者から溢れんばかりの賞賛を受けて物語は終わる。
●追伸
それにしてもエンドロール中に現れる、主を失った王冠と、それを弄ぶ女の子が登場するシーンはどんな意味があったのでしょうか?女の子は何者?