「ダメ映画だが、青春の残滓としては」アリスとテレスのまぼろし工場 加藤プリンさんの映画レビュー(感想・評価)
ダメ映画だが、青春の残滓としては
中島みゆきの歌謡曲の流れるなか、スタッフロールのラストですべてが腑に落ちました。
「脚本 監督 〇〇〇〇」
OK,これですべて説明がつきます。同一人物でしたか。
私はこの作家さんを存じ上げません。過去作を見ないでの鑑賞でしたが、ああなるほど。
作家と演出家が同一人物でしたか。成程合点。
ずっと苦笑しながら、首を捻りながら、鑑賞した120分の長かったこと長かったこと。
設定も緻密に見えて雑、そして登場人物の演技も台詞も謎だらけ
絵のカットもあまり良くなく、音楽もそれほど心に残りません。
SFの文脈でいえば、「フリクリ」や「ママは小学四年生」の匂いを残しつつ、
新海監督のような、極めて自己中心的な、(こういうのをセカイ系と呼ぶのでしたっけ?)
思春期の男女の恋愛感情(ですらない、未熟な性衝動=リビドー)ですべてが解決するように出来ている、
刺さる人には刺さるが、まともに映画を評じられる人には最低点という、とんでもない仕上がりに仕上がっています。
かといって、駄作凡作とも思えない、とても尖った魅力のあるダメ映画だと感じました。
この作品は、とても頭でっかちな、理屈くさい脚本の上に成り立っていて、
設定もキャラクターも脚本(というか、脚本家の頭の中)のご都合主義のためにあるのですね。
だから、説明不足でも気にならないし、作者の頭の中では破綻していないのですが、
通常の表現作品としては、世界設定も、人物もまったく血の通っていない
(例えば、その人物の血縁や設定が細かくされているということは、イコール、その人物が深く描かれている、という事ではないのですね。
その背景があるからこそ、この人物はこういった行動をする、発言をする、こういった考え方をして、それに沿った感情の動きがある。
文字にすると、そのままそれは実行されているように見えるのですが、肝心の演技が
声優と作画任せになってしまっていて、これは良い言い方をすれば、脚本家が声優や作画を信頼して委ねているという事なのですが
悪い言い方をすれば、脚本家はともかく、演出家(監督)が仕事をしていないという事になります、
結果、まったく、バラバラな物語の筋に、バラバラな人間が描かれ、乗っかっているように見えてしまいますね
声優、作画の力量はそれなりかと思いましたが、これでは劇作としての順番が違います)
そういったデティールだけの存在が右往左往する、しかし商業主義的にこうすれば感動的に見える、という
感動ポルノに近い強引なまとめ方をされている、謎の怪作に仕上がっています。
いやいや、私は褒めているのですよ。
いやいや、なかなか、こうはならなくて。出来なくて。
作家としての個性が強ければ強いほど、そして、商業主義に迎合すればするほど
こういった謎の仕上がりになるのですね。普通は、そのどちらかに傾向するものなのです。
しかし今作は、その両立が(ものすごい力技で)融合されている。
その熱量たるや、凄いものがあるのです。
ふつう、タイトルからしてもう、これはタイトル詐欺と言われてもおかしくない。
アリスとテレスなのですから、アリスもテレスも出てないじゃないか! というレビューは極めて正しい。
しかし、母アリス(=娘アリス)も父テレスも主人公枠で登場しているのですから、これは(少なくとも作者にとっては)理解できない方がおかしい。
或いは、理解できない者が大多数で、理解できる人だけ理解してくれれば良い。
この映画が、脚本家と、監督が別の方が作った作品なら、こうはならなかったでしょう。
しかし、幸か不幸か、同一人物による狂気的な一本の背骨の通った作品になってしまったからこそ、
この作品が、単なる駄作や感動ポルノではなく、不思議な魅力と力を秘めた怪作となった理由かと思います。
一昔前なら、これが実写や特撮で、カルト映画と呼ばれかねない作品だったはず。
(土俵は違いますが、某「帰ってきたウルトラマン」「ガンヘッド」的な事ですよね、あ、異論は認めます)
映像の進歩とアニメーションの力、様々なものが折り重なって、この映画を謎の改作に仕立て上げているのです。
芸術には時に、こういう面白さもあるのが、とても良いですよね。
まぁ2回も観たいとも思わないですし、40代のおじさんですが、今さら14歳(という設定の中身はオトナ)の
パンチラやブルマ姿やキスシーンを見返したいとも思いませんね。気持ち悪い。
私はとっくに卒業してしまいましたから、まだ卒業する前の、この作品がザクザク刺さる人にはお勧めです。
あのパンチラひとつとっても、「むつみ」というキャラクターの行動とはとても思えないのですね。
冒頭で、ヒロインは主人公をパンチラで釣るのですよね。(台本上は、退屈な繰り返される日常を打破する危険な遊びの延長線上だった…のだが! という)
それでいて、男子としての腕力は期待しているという言い方で、女子を求めてこない都合の良い相手として、
主人公の隠れた好意を意図的に利用しつつ、気を引こうとする彼女の根底には、本人にも本音ともいえない好意があって…
しかしその好意はこの特殊な世界線ゆえに素直に認められておらず…
屈折した結果が彼女をこのようなツン風にしてしまっているのである…(あとはこのツンをどこまでどう引っ張って、どうデレさせるかが山場の一歩手前となるのである…)
ほらね。
作者のなかでこれは矛盾していないのですよ。
しかし一般的に、これは難しすぎて、映像作品のなかで、時系列や演技のなかでこれを説明することはとても難しいですよね。
それに果敢に挑んでいると言えば良い言い方ですが、普通は矛盾し、破綻していると思いますね。
(この矛盾性を、「深く、単純でない人間性を描いている」と捉えられる方は幸福です。そしてある意味貴方は正しい)
そしてそのクッソ面倒くさいヒロインに、なぜ主人公が心惹かれる事になるのか。その気持ちを自認するに至ったのか。
そこがちゃんと描かれてる前に、「現実世界で本来結ばれる相手だから」という文脈を先に見せてしまいますよね。
これもおそらく、作者のなかで破綻していないのですね。しかし客観的に、これでは破綻しているようにしか見えない。
(これが破綻していないと言い張れるのは、もはや昭和の少女漫画の文法ですよね)
じゃあ、もうひとりのヒロイン「いつみ」はと言えば、登場シーンも設定加減も謎で、
ネグレクトの具合も、それによる被害の内容や心の傷も、知能レベルも、年齢設定も良くわからないまま、物語が進みます。
それに伴い、悪役の存在定義も曖昧で、ただの変人狂人という描かれ方をしていますが、
極めて閉じたコミュニティにおける狂信的な指導者先導者として描くには、パンチが足りないというか、
ただの道化になってしまっていますよね。彼の存在自体が良くわからないし、残虐性や専制性を描くには物足りない。
(まさかあれで天〇か総〇を描いたつもりでしょうか? だとすれば畏れ多い)
この物語に必要なのは設定なのであって、人間ではないのですね。
ラストシーンなんてもう完全に謎ですよね。
しかし、作者の頭の中ではちゃんと、「いつみは現実に戻った時点で時空を超える前の年齢に戻っているが、あの世界の記憶もちゃんと残っていて、あの世界はパラレルワールドであると同時に時系列的に破綻のない集約をされていて、それが証拠に工場跡にはその名残のメッセージが残されていて、だから、いつみはこの年齢だが、失恋したというモノローグを発している…ほら、ぜんぶ破綻なく説明されているじゃない!」 となっていますよね。
普通はこれは破綻していて、謎なんですよ。(謎を残して含ませる手法はありますが)作者の頭の中でだけ成立している。(多少マリンエクスプレス的な捻りを利かせたのだと思うのですが)
いやあ、言い出したらキリがないので、このあたりで止めますが、
映画としてのメソッドをちゃんと踏んでいないため、様々な設定や人物や感情が伝わらないのですね。
だがしかし、作者の表現したいことはなぜか伝わってくるのです。理解できますよ。
それはかつて私も中学二年生だったからのでしょうね。卒業してしまった身からしたら、気恥ずかしい、卒業文集のようなものなのですね。
(この作者、ちゃんとしてくれたら化けるのかしら? それとも、ダメになってしまうのかしら??)
これは、作者が渾身の選りすぐりでもって、自分のなかのもっとも良い要素を練り上げて、「名作」を作り上げようとした結果、商業主義の洗礼もあり、「怪作」となってしまったように見受けられます。
ううん、久々に、評価に困る問題作と出会いました。
最後にひとつ。
この映画がいわゆる「失われた30年」を重ねて製作された作品なのであれば、
虚構の世界は消滅して、本来の時間が流れ始めることがトゥルーエンドになる筈ですよね。
しかしこの物語は、虚構の停滞した世界「も」残す事を選択しました。
現代日本にとって、バッドエンドとなる選択肢を残した訳ですよね。
でも、本当、わかりませんよね。
私はこの戦後バブル後の数十年の停滞し安定した日本は、全世界史に残るレベルでの桃源郷だと思っています。
しかし、時間は流れ始めたのですね。
その流れの行き着く果てが正しい選択なのか、それとも、桃源郷に残り続けることが正しい歴史なのか
それは未来の歴史が証明してくれる事なのでしょう。
もちろん、過去も事実もなかったことにはならないし、なのですけれど、やっぱり、作家として
この世界の主人公や生きている人々を、最後に消滅させることはできなかったのでしょう。
その青臭い甘さも含めて、青春の残滓と呼ばせてもらいましょうか。
いやあ、ホント、評価に困る問題作だ。困ったもんだな。