「※長文です 評価としては素晴らしい映画の一言につきるのでネタバレ考察」アリスとテレスのまぼろし工場 夜月さんの映画レビュー(感想・評価)
※長文です 評価としては素晴らしい映画の一言につきるのでネタバレ考察
私は監督の前作にして初監督作品からのファンで、前作についても何度も視聴した身である為、岡田麿里監督の作品に共通するテーマはズバリ「変化」だと考えている。
前作は不老の種族イオルフの少女と人間の赤子の出会いをきっかけに、イオルフの不変への安心感、人間の不変への憧れに対する、変わってしまうことへの苦しみ、その後に訪れる幸福を描くもの。
それに対して今回は変わることが出来なくなってしまった見伏の人々の苦しみ、変化への憧れに対して、咲希というただ一人の異物である少女との出会いをきっかけに、変化によって齎される不幸、終わりを描きながら、最後にはそれでも変化することでしか得られない未来を描いている。
どちらにしても同じことだが、変化するということは必ずしも良いことばかりではない。
しかし、変化の先にしかないものも必ずある。
それが二つの作品を通して、私が受け取った岡田麿里監督が伝えたかったテーマだと思っている。
それを踏まえての細かい考察。
■見伏という街とそこに生きる人々について
製鉄所の事故の際に作り出された世界、という認識は作中人物含め視聴者の多くが共感しているはず。
では、実際にどういう世界であるのか。
作中では神の与えた罰によって生み出された世界であると言われ続けるが、それを否定するかのように次々と真相が明らかになっていく。
この世界の外には現実があり、さらにそこにはこの世界で過ごした時間と同じだけの時間を経て変化した本当の人々が暮らしていること。
つまり、この世界の見伏の人々は偽物であり、罰を与えられて閉じ込められたという話に矛盾する。
ではこの世界と人々は何なのか。
これは作中にて登場人物の一人の言葉が鍵になるのだが、見伏の事を愛している神が製鉄所の事故で命を落とした人々、主要産業が衰退して死にゆく街を哀れに思い、生存者を含め街の今をコピーして作り出した幻という答えになるのではないだろうか。
創作としてのメタ視点で話せば、あのタイミングで颯爽と登場して主人公たちを助け、意味深に語ったお祖父ちゃんの考えが、ただの妄想であるわけがなくズバリ制作者の解答であるとする方が理に適う。
その為、この世界と現実の世界には例外を除き繋がりはなく、この世界で消えた人々がどうなったのかは、作中で描写がない現実での生死によるところなので視聴者が推察することは難しい。
製鉄所の事故だけに限れば、関係者は死に、他は生きているだろうが、その後生き続けているかは定かではない。
■では何故人々が消えてしまうのか
神機狼が現実との境界に入った罅を修復する存在であることは間違いないだろう。
しかし、人々に入った罅は一体何なのか、それによって罅が修復されるのではなく世界から消えてしまった理由は何なのか、作中で言われていたように変化によるものなのか。
まず、これが変化によるものという回答は作中から否定出来る。
正宗に至ってはズバリ指摘されているが、他の登場人物に関しても彼らは作中で成長し、変化している。
しかし、彼らに罅は入らず、消えてもいない。
では何故かといえば、これもまた見伏の神の優しさなのだろうと私は考えている。
例えば、作中初めて消えることになった友人の少女の心中を察すれば、彼女はともかくあの場から消えてしまいたい程の羞恥を覚えていたはずだ。
そして、その場をただ逃げ出したからといって、逃げ場のない世界で明日から変わらない生活を彼女は送れたはずもない。
次にDJを夢見ていた友人の少年。
彼は明確な夢を持っていた。
しかし、この世界が現実でないと知ってしまったことで、夢を叶えることは不可能だと思ってしまった。
その上、この世界がいずれ消えると知らされていたのなら、心が折れてしまっても不思議ではない。
そして、主人公の父親。
彼はこの世界の真実を知っていた。
幻であることも、自分が死者であることも。
だからこの世界が存続するようにと咲希を現実に戻そうとし、それを否定された後も世界の存続に努めたが、彼は息子である正宗を見て、この世界の人間であっても変わっていけることを知った。
そして、自分はそれが出来ないと知った時、身体だけでなく、心も死んでしまった。
このように考えると、変わってしまうことでなく、この世界で生きていけなくなることがトリガーになっているように思え、これも神の優しさと考えることが一番しっくり来ると思う。
■咲希とこの世界の今後について
基本的には繋がりのないこの世界と現実において例外的な繋がりを持つ少女、咲希。
繋がりと言っても、本質的には現実の少女である咲希はこの世界にとって単なる異物である。
ただただ何の因果かこの世界に迷い込み、異物であることから罅を生み出していただけで、咲希個人がこの世界に対して影響を与える因果を持っているわけではない。
現実の主人公、ヒロインの娘であるということから登場人物に対する因果があるということで彼らが行動を起こし、彼らの変化とその自覚を促す役割だったことは間違いないが、この世界の存続という意味では主人公の父親が提案していた時点で咲希を現実に帰していれば現時点で問題にはならなかっただろう。
実際には年々この世界も限界を迎えていたようなので、今回の騒ぎで消えてしまった人々は可哀想ではあるが、今回の騒ぎをきっかけにこの世界でも変化し、成長出来ることが分かったこと、そしてそれを知った色ボケ叔父により製鉄所を稼働させることでこの世界を存続することが分かったことは意義のあることである。
そして、咲希がこの世界への因果を持たない以上、この世界は咲希が現実に戻った後も当然存続していくことだろう。
今までとは違い、変化し、成長していきながら。
■最後に
纏めになるが、最後にこの世界は結局何なのだろうと考えると死者の世界とするのが妥当ではないだろうか。
まず肉体が成長しないという点。
特に印象的なことは妊娠中の子どもが生まれないという描写で、この世界が精神的には変化し、成長していける世界であると優しい神様が作り出す世界としてはどうにもしっくり来ない。
その点でいえば死者の世界であるから新しい生命が生まれないと考えるとしっかり来る。
世界的に死者の国は神話などでよく描かれ、日本神話にも黄泉の国として描かれている。
また、現実の生死に関わらず、同じようにコピーとして作り出された街の人々だが、生者と死者のどちらにとってこの世界が重要かといえば死者だ。
勿論、現実の自分とは別人格であるのだからどちらにとっても大切ではあるが、死者には現実の未来がない。
そしてタイトルについて。
まずアリスは分かりやすい。
不思議の国のアリスであり、咲希の事。
そしてテレスに関しては私の中で該当するものがないので、単にアリストテレスの言い換えだと思う。この映画でいえば登場人物たちが生きている主観の世界を現実、その上位世界とも言える現実をイデア界とし、イデア界こそ真の存在であるプラトンに対し、自分たちが生きている現実こそが真実であると捉えたのがアリストテレスである為、この映画に相応しいタイトルではないかと思う。
長くなったが、私の中ではここに書かなかった細かい描写含めこの考察で概ね納得できているので、この後2回目の視聴をして答え合わせをしたいと思う。
勿論、本当の解答は岡田麿里監督の中にしかないので、いずれ知る機会があれば嬉しい。