「「希望とは、目覚めている人間が見る夢である」」アリスとテレスのまぼろし工場 さぶろー@アニメ映画好きさんの映画レビュー(感想・評価)
「希望とは、目覚めている人間が見る夢である」
このレビューのタイトルにした「希望とは、目覚めている人間の見る夢である」という言葉は、アリストテレスの有名な言葉であり、作中にも登場する。他にも主人公・正宗の発した言葉「すべてを知りたい」は、アリストテレスの著した「形而上学」内の「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」から来ていると考えられる。さらに、アリストテレス哲学の概念である「エネルゲイア」という単語も登場しており、アリストテレス哲学が、この作品の基盤の多くを占めていると感じた。それゆえに「アリスとテレスのまぼろし工場」というタイトルなのだろう。
この作品は、いわゆる「セカイ系」に分類される物である。しかし、その「世界」についての説明がとても少ない。例えば、作中の世界は時が止まった世界なのだが、どの時代で止まったのか。これは丁寧に映画を見ていると、正宗の持つ漫画雑誌に1991と書いてあるので、「1991年で時が止まっている」と分かるのだが、気づかない人も一定数いるだろう。このように、世界の設定が細かい描写に散りばめられているので、気を抜いて見られるシーンは一切なかったといっても過言ではない。
なぜ、世界の説明が少ないのか。それは、その世界で生きる人々の人間ドラマに焦点を当てているからである。ここでアリストテレス哲学が生きてくる。変わることが悪とされる世界で、それでも人々は変わろうとする。これが「目覚めた」状態であり、個々人の決めた「エネルゲイア」に向かおうとするのである。例えば「まぼろしの世界を守る」や「五実を現実世界に返す」というエネルゲイアだったり、陽菜の持つ「幸せを守る」というエネルゲイアなどに人々は向かっていく。それらのエネルゲイアは人の数だけ存在するので、結果的に物語の厚みを増すことにつながっているように感じた。
しかし自身のエネルゲイアに向かわない者もいる。例えば仙波は「DJになる」というエネルゲイアを持っていたが、確認票への記述を変えることはなく、DJになるための努力も一切していなかった。他にも園部は「想いを伝える」ことがエネルゲイアだったが、直接的な言葉で伝えることはしなかった。そして両者は神機狼に飲み込まれている。このことから、エネルゲイアを設定しながら、そこへ向かおうとしなかった者を世界は許さないのだと推測できる。正宗は「イラストレーター」というエネルゲイアを持ち、絵を描き続けていた(そこへ向かっていた)ので、仙波と異なり、神機狼に飲まれることがなかったのだろう。
生きるということは、何かを感じ、変化することだ。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、そして痛み、これらは行動の原動力になる。作中では特に「痛み」にフォーカスを当てており、中学生という多感な時期を見事に描き切っていた。丁寧で繊細な心理描写と美麗なアニメーションが相乗効果を生み、心情の重厚感が半端なものではなかった。心の奥底に刺さって抜けないような感動が、そこには存在していたように感じる。中島みゆきの「心音」も、映画をそのまま歌にしたような、とても素晴らしい曲だった。
我々は、昨日と異なる今日、今日と異なる明日を生きていく。連続的な変化が永続的に続く世界では、人々は否が応でも変わっていくしかない。その道中にある喜怒哀楽や痛みを大切にして生きていこう、と思わせてくれるような、素晴らしい映画だった。