「韓僧、肉食えず」第8日の夜 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
韓僧、肉食えず
ホラーや時代もののリアリティには、さまざまな要素が必要だが、まず庶民らしさが前提になる。と思う。
中田秀夫や清水崇といったホラーの「巨匠」が、毎度、目も当てられないモノを積み重ねている(だけど仕事はひっきりなしの怪異)が、たとえばかれらの映画のばあい、そこには有名俳優がずらりと出演している。
映画中も、かれらは、有名俳優のままであって、その位置から動いてくれない。
たとえば犬鳴村の三吉彩花を見ていると、その画を見ながら、一方でインスタのセレブな彼女がちらつく──わけである。わたしたちは作品に入り込むことができず「有名な女優さんが、新境地開拓てな感じで恐怖に怯える演技をしているんだな」と思うだけ──である。これは彼女のせいじゃない。「巨匠」の怠慢のせいだ。
前に見た「サバハ」のレビューに、こう書いた。
『いちばん凄いのは市井の人のリアリティです。
着衣や小道具や住居や皮膚などの、底辺感や汚れ感や経過感が、自然でリアルです。
個人的には、日本の時代ものなどで、まっさらな衣装を見ると興醒めする質なので、韓国ノワールのリアルにはとても惹かれます。
むろん、映画では絢爛たるスターや佳景を見たい人もいるでしょうし、リアリティをよしとするか否かは人それぞれですが、より自然な禍々しさを見せるという意味では、ちょっと日本映画は敵わないのではないかと思いました。』
たとえば罪の声の宇野祥平は貧しく虐げられてきた人間のリアリティを持っていた。有名俳優ならば、なおさら市井を表現できていい。ふだん、どんだけセレブな生活をしていたとしても、役者ならば、そこへじぶんを落とし込むことができて、あたりまえなんじゃなかろうか。と思う。
ただし、韓国映画には、その皮相のリアリティにプラスして、俗気を払拭するテクニックがある。
うまく言えるかわからないが、日本映画は俳優から、俗気、俗臭を消し去るテクニックが韓国映画ほど巧くない。日本映画を見始めて、まず思うのは、役に馴染もうとしている俳優の、ふだんどおりの姿。明石家さんまが、そのままで、庶民の日常or貧困な時代人を演じようとしている──と思い浮かべてもらえばいい。物語に入り込めますか?
たぶん、解ってもらえると思うが、俗が取り払われていないと、そこに見えるセレブ俳優/タレント/アイドル/バラドルは、そのままの見え方をする。いわば借りてきた猫であり、かれらはぜんぜん庶民にはなっていない──わけである。そして、そんな俗臭を消すのは、役者ではなく監督のしごと──なのである。
しゃべらない修行をしている若い僧が出てくる。俗気を払拭して、純心や清貧を体現していた。
主役のソナ和尚役イソンミンはミセンなど、映画でもテレビでも、かなりよく見る中堅だが、かれもしっかり俗気を消していた。
SFXをほとんど使わず、伝承に由縁する、まがまがしい雰囲気を出している。といっても、演出はもっさり。よくなかった。また、韓国映画では、かならず所轄(刑事)が武闘派である。武闘派でないキャラクタライズを見たことがない。かならず、ちょっとしたことで、やいけせっきゃとか言って叩こうとする人物ばかり──で陳套を感じた。また主要人物にはそれぞれ負い目があり、物語の複雑さを消化しているとは思えなかった。
無慈悲な邪鬼が、人間感情内におさまるのは、鈍重だった。
ただし、韓国には優れたホラーorノワールが多いから、及第点が高いのであって、中田秀夫や清水崇ら「巨匠」と比べりゃずっといい。
ところで、若い僧が、コムタンやハンバーガーから肉を取ってもらうシーンがあった。概して、そうなのかは解らないが、僧侶は肉が食べられないことは、韓国では、常識なのかもしれない。