名もなき歌のレビュー・感想・評価
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この映画は二回目だった。また、消された?
南米の『千●千尋●神隠●』
日本でもこういった事はある。
果たして今はどうなのか?
『この国で生活しているよりも、海外へ行ったほうが良いね』立法の議員はそう吐く。この時点で民主主義は消えて無くなった。
この議員も司法の判事とグルになっている。三権分立が完全に崩壊している。映画ではそこをもっと強調してもらいたかった。
勿論、不法な養子縁組がどんなものであるかは誰でも知っている事。
また、国は違法と言って犯罪を犯した者だけを捕まえるが、間接的に国体の資金源は確保している。
SFと称した出鱈目な話で、登場する悪の組織は架空の国体か民間会社である。しかし、必ず国はそれに国家レベルで関与している。貨幣(キャピタリズム)(コミュニスト?)とはそう言ったものである。国との契約の上で発行された物が貨幣だからね。
そして、税収とかで国体は利益を取りこぼす事はない。従って、戦争に於ける悪事を国体は逃れる事は出来ない。それが、世界的な常識である。
【1988年、政情不安定で、ハイパーインフレに見舞われたペルーで行われた恐ろしい出来事を、モノクローム画像で哀切なトーンを基調に、淡々と描いた作品。それ故に、恐ろしさ、哀しさが増幅する作品でもある。】
- 序盤は、淡々としたトーンで哀しき出来事が描かれる。だが、懸命に産んだ我が娘と一度も会えずに引き離されたヘオが、執念で新聞記者ペドロの協力の中、我が子を探す姿と共に、当時のペルーの諸問題が明らかになって行く過程に引き込まれていく・・。-
◆感想
・当時のペルーの政情不安から発した、ハイパーインフレ、先住民蔑視(ヘオとレオ夫婦には、有権者番号がない。それ故に、役所や警察で相手にされない。)、テロ、同性愛者でもある新聞記者ペドロへの脅迫状に書かれていた言葉に暗澹とした気持ちになる。
ー 現在、世界各地で行われている事と、余り変わっていない・・・。ー
・暗澹たる気持ちを増幅させる、権力者、小役人達のヘオを含めた貧しき人々に対する愚かしき姿。
ー これも、又、現在と余り変わっていない・・。ー
・そして、レオは、金のためにテロ活動に参画していく・・。
ー これも、テロが頻繁に起きている地域の現状と同じである。ー
<哀しく、恐ろしい物語であるが、少しづつ、少しづつ引き込まれていく。それは、モノクローム画面に映し出される、ヘオやレオを始めとする貧しき人々や、彼女を助ける新聞記者ペドロの姿から発せられる怒りが鮮明だからである。ラスト、未だ見ぬ娘を思いヘオが歌う哀切なメロディと表情が印象的だった作品である。>
内容も灰色
舞台は1988年で、日本で良く知られたフジモリ大統領の当選の少し前のようだ。
主テーマは3つあると思う。国際的な乳児売買、極左ゲリラによるテロ、そして“有権者登録証”をもたない先住民に対する冷酷な扱いである。
そこへ伝統の「ハサミ踊り」、政界や法曹界の腐敗、経済危機と“ハイパーインフレ”、そして“同性愛”が絡んでくる。
記者カンポスは、ジャーナリストとして、タブーに切り込んでいく。
(なお、“インディオ”という言葉は、侮蔑的な響きがあるため使われなくなっているらしい。)
こう書くと、“社会派映画”のようだが、しかし実際は、“シネポエム”と言っても良いアート系作品の側面を併せ持つ、中途半端な作品である。
なんと言っても、暗いシーンが目立つ。
白黒映画なので、よく映画「ローマ」と比較されるようだが、本作は「ローマ」のような明るくてシャープな映像美とは、全く異なると言って良い。(映画館の大スクリーンで「ローマ」を観ない限り、分からないと思う。)
暗さによる沈んだ色調を意図的に使って、静止画のような構図と、ゆったりしたカメラワークで映像を紡いでいく。
色がないので、背景が海や湖や川なのか、砂漠なのかよく分からないことがある。
関係する舞台は、さまざまだ。
主な舞台は、ペルー中部の海に面した首都「リマ」。ヘオとレオの小屋は山の斜面にあり、街の市場には、長い距離を歩いて通っているにちがいない。レオは「ハサミ踊り」の名手だが、そんなことは全く収入にはつながらない。
ヘオとレオのルーツは、「アヤクーチョ」という南部の県にあるようで(「アヤクチョ共同体」という横断幕が出る)、そこは「センデロ・ルミノソ」という極左武装組織が、当時、勢力を誇っていた地域だ。
そして、リマに次ぐ乳児誘拐の舞台は、北部の「イキトス」というアマゾン川最上流の、ラグーンや小さな湖に囲まれた堆積地である(「陸路では行けない世界最大の町」で、現在は観光地らしい)。水上の建物が目を引くが、ストーリーとは全く関係ないので、それらを映したいだけかもしれない。
このように、“社会派映画”とは言い難い側面をもつ映画である。
実際、乳児売買問題は、あっさりと明るみに出て、それでお終いだ。
貧窮したレオが、ゲリラ組織に仕事をもらってテロ行為を働くが、映像は暗示的で何が起きたかよく分からない。実際の武装ゲリラは、この映画どころではないはずだ。
“同性愛”に至っては、なぜストーリーに組み込まれたのか、自分は全く理解できない。当時の社会問題だったのかもしれないが、本筋と無関係なのに、無意味に尺を割いていると言わざるを得ない。
ラストは、赤ん坊を失い、夫をテロ容疑者として失い、住む家までも失った、ヘオの歌で終わる。
自分は最後まで観ても、邦題の「名もなき歌」の意味が分からなかった。
ヘオのような、社会的に“有って無きがごとき存在”による歌という意味だろうか? もし「nombre」が”曲名”ではなく、”人名”の意味だとすれば、邦題はひどいミスリードを犯していることになる。
議員は、記者カンポスに吐き捨てる。「何も与えられない母親と一緒にいて、子供は幸せか?」と。
だが、そういうヘオの境遇だけにフォーカスした作品ではない。
心にしみる良い作品だが、色調だけでなく内容もはっきりしない、グレー(灰色)で中途半端な映画だった。
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