英雄の証明のレビュー・感想・評価
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囚人に休暇?
借金で投獄、囚人なのに付き添いもなく休暇で外出、一度は売ろうとしたのに拾得物と言うのがなぜ英雄行為なのか、英雄の意味が違うでしょう、タイトルにも疑問。
彼は借金を何に使ったのかも明かされない。
訳の分からない設定で悩む主人公を描くだけのマッチポンプ映画。
余りにも日本とかけ離れたイランの文化や国状にとまどいが拭いきれず、ただ茫然と画面を眺めるだけ・・。
英雄世に好まれず
ある善行をした男が疑惑やSNSにより歯車が狂っていく…というのが大まかな話だが、まず驚いたのは、借金の罪で投獄。
日本には勿論無いが、アメリカやイギリスにはその昔あったという。債務者監獄というらしい。
初めて知った。改めて、日本に生まれて良かった…。しかし、主人公が置かれた状況はどの国でも、私たちのすぐ身近や自身にも起こりうるもの。
始まりはほんの些細な事。それがきっかけとなって、取り返しの付かない事態へと陥っていく。
『別離』『ある過去の行方』『セールスマン』…。
それらで見せた手腕を本作でも発揮。アスガー・ファルハディの語り口、見せ方は相変わらず巧い。
元妻の兄からの借金を返せず、収監の身のラヒム。
2日間の特別休暇が与えられ、借金を返そうとする。
当てがあった。婚約者がバッグを拾い、その中に17枚の金貨が。
これを換金し、借金返済に当てる。…が、思ってたより値が付かず。
ラヒムは罪悪感も感じていた。拾ったものをクスねるなんて、盗っ人と同じ。落とし主は困っているに違いない。
悩みに悩んで、落とし主に返す事にした。
僅かな手掛かりを頼りに落とし主を探し、見つけ出した。その女性は、夫が浪費癖故なかなか名乗り出る事が出来なかったという。
この事がニュースやSNSで取り上げられ、ラヒムは“正直者の囚人”と喝采を浴びる。
刑務所上層部や慈善団体の耳にも入り、寄付金が募られ、借金も返せそう。
…と、ここまでは上り坂。突然訪れた好機。
だが、危機も突然訪れる。
あっという間に下り坂へ…。
事実確認やバッグを拾った時の説明。
そもそも、バッグを拾ったのはラヒム本人じゃない。
が、バッグを拾った事になっている。その状況を実際にあったかのように説明。
ラヒムはちょいちょい小さな嘘を付く。婚約者を妻と言ったり。
小さな嘘かもしれないが、それが徐々に誤解を招く。
バッグを拾った時の再現なんて、もはや嘘ではなく、でっち上げ。
彼の善行は人々の喝采を呼び、彼の吃音症の息子のスピーチも感動を。
まさに時の人。誰もが彼を称える。
そんな時必ず現れる“アンチ派”。
ラヒムの借金相手である義兄。
いくら寄付金を募っても、返済の半分にも満たない。皆、彼の行いをもてはやしているだけ。どんなに称賛を浴びようが、罪人は罪人。
辛辣だが、この義兄の言い分も一理ある。
SNS上でも悪意あるコメントがちらつき始める。
身から出た錆。ラヒムの“嘘”でボロが出始めたのもこの頃。
実際ラヒム自身はバックを拾っていない。あたかも全て自分の功績のように。
事実確認取れたらどれもすぐ分かる事。なのに何故、“嘘”を付いたのか…?
これが問題視され、内定していた就職も取り消し。寄付金も保留。
団体は信用の問題になると激昂。
家族からも厳しい声。
ラヒムは婚約者を落とし主に仕立てて裏付けしようとまでする。
もうここまで来ると、醜態。悪あがき。
本当は詐欺師ではないのか…?
本当に落とし主にバックを返したのか…?
そんな悪い噂のメールを流したのは義兄に違いないと詰め寄る。
カッとなってしまい、暴行。さらにこの様を、義兄の娘が動画に録画し…。
嘘、疑惑、暴行…。“正直者の囚人”から“ペテン師”呼ばわり。
刑務所上層部からの名誉挽回の提案。本当の事を打ち明け、息子のコメントも撮って世間の感動と同情を買おうとする。
が、緊張で上手く喋れない息子がさらし者になると、これを拒否。
口論となり、またしてもラヒムは暴力を振るってしまう…。
ラストシーンは残りの刑期を終える為、再び刑務所に戻っていくラヒム。
人生に希望を見出だせたかと思いきや、瞬く間に閉ざされた。
元々の借金罪や嘘で自業自得とは言え、物悲しい。
特別休暇でシャバに出ず、刑務所にずっと居た方が何も荒事起きなかったのでは…?
皮肉的にもそう感じた。
彼一人が悪い訳じゃない。
持ち上げる者、利用しようとする者、食い物にしようとする者…。
SNSでの悪質コメントも質が悪いが、表立って何か思惑持って近付く方も同罪。
そんな思惑と、SNSの誹謗中傷という“現代の魔女狩り”が、一人の人間の全てをいとも簡単に狂わす。
彼は、善人か、詐欺師か。
…だけではなく、
ラヒム本人や関わった者全員に問いたい。
これは、善意か、偽善か。悪意か、悲劇か。
アスガー・ファルハディはまたしても見る者の倫理観を揺さぶる。
日本でも1980年に一億円の入った風呂敷包みを拾った男性がいた。
時の人となり、TVにも引っ張りだこ。落とし主が現れなかった為、一億円はその男性に…。
棚からぼた餅どころか棚から高級スイーツなくらいの有名逸話だが、やはり色々あったという…。
嫌がらせ、脅迫…。
80年当時でもこれ。SNS社会の今だったら…? 考えただけでもゾッとする。
人の善行が癪に触るのか、妬ましいのか、大金に目が眩むのか。
人のやる事は昔からそう変わっていない。
何だか虚しく、情けない。
その男は英雄か、ペテン師か。
映画好きの方々の中で評価が高かった作品。内容については全く事前知識がない状態で鑑賞しました。
結論ですが、面白かった!!!
人間の裏表が描かれたシーンが多く、人物描写がかなり上手い印象ですね。本作の監督であるアスガー・ファルハディー監督の作品を鑑賞したのは初めてでしたが、評判に違わぬ面白さでした。イランが舞台ということで日本と違う文化が最初違和感ありましたね。借金で逮捕されたり落とし物届けただけで英雄扱いされたり金払えば死刑が免除されるって日本じゃあり得ないですし。後半はあまりそういう違和感のあるシーンは少なくてすんなり観ることができました。
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金貨の入った鞄を拾い、それを持ち主へと届けたラヒム(アミール・ジャディディ)。彼は借金が原因で逮捕された仮釈放中の囚人であったことから「私利私欲に負けなかった模範的な人間だ」と話題になり、テレビ取材なども受けて広く顔を知られる有名人になった。しかし、彼の性格を知る人の中にはその美談を疑問視する者もおり、ネット上ではその美談が自分の借金返済費用を寄付で集めるための作り話だという書き込みも目立ち始めた。ラヒムは再就職や寄付金のために、美談が真実であることを証明するために奔走する。
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まずはイランの法制度や文化風習が日本とあまりに違い過ぎることに驚きます。
借金が原因で逮捕されたとか、カバンを届けただけで英雄扱いされるとか、犯罪を犯しても金さえ払えば刑が減免されるとか。本作のレビューで低評価をしている人の中には、そういう法律的な背景に対して違和感や引っ掛かりを感じている方が少なからずいるようなので、そういう部分は「国が違えば価値観も法律も違うよね」という感じで難しいこと考えないで観ないと、鑑賞の際のノイズになってしまうような気がします。
前半はそういう文化の違いに驚かされるんですけど、後半は日本でも起こりそうなネットでの批判であったり掌を返したような対応であったり障がい者を使って美談を捏造したりという展開になりますので、映画後半ではそういう違和感は無くなってくると思います。
展開が非常に早いので、観ていて飽きないし息つく暇もない。会話シーンばかりなのに中だるみがほとんど無いのは素晴らしいですね。
素晴らしい映画でした。アスガー監督は過去作も非常に評価が高いので、他の作品も鑑賞してみたいと思います。
心が苦しくなる
主人公がずっとニヤついた表情で、そんなだから疑われるんだぞと思う。ネコババをするかしないかで心が揺れるのは当然で、結果的に返したのだからいいと思う。宗教的なことや刑務所など司法制度が物事を複雑にする。
審査官みたいな人が「それでは証拠が足りない」と追及する姿勢は重要なポイントだ。
息子をさらし者にしたくないという主人公はいい。スマホやSNSで社会が変質している様子が端的にわかる。恐ろしい。
描写が“省略”された部分の解釈次第で、ラヒムの人間像が変わってくる。同情すべき人間なのか些か軽率な人間なのか。“社会”の不条理ではなく“人間”の不条理を描いた映画では?
①『英雄の証明』というから戦争映画だと思いました。②私は殆んど法律の知識はないけれども、イランでは求償権を基に告訴出来て敗訴になったら刑務所行き(?)、服役中に休暇が取れて外出できるの?、床にご飯とおかずを並べて家族で座りながらご飯食べるのもなかなか良いなあ、イランの商店街も日本とあまり変わんないじゃん、イランは落とし物は警察に届けないの?と映画自体より先ずはイランの社会・風俗の方に興味を惹かれました。③ラヒムは休暇で刑務所から出られてホントに嬉しそう。顔が始終にやけてます。本当に刑務所イヤなんだな(当たり前か?)。(或いは休暇中に告訴を取り消してもらえると期待をしていたのか)本人は刑務所から出たくて出たくて堪らない。ファルコンデがアパートの最上階から階段をかけ下りてくるカット。ファルコンデの早くラヒムに早く逢いたいという想いがひしひしと伝わってくる。ファルコンデもラヒムに早く刑務所から出てもらって結婚したい。ラヒムのお姉さんもその旦那も勿論早くラヒムに刑務所を出まてもらいたい。それは自然な感情で勿論共感出来るのだけれども、その強すぎる思いが後に逆に彼らを不利な状況を陥れてしまいます。④刑務所を出てすぐ遺跡発掘をしている義兄を尋ね、「借金の半分は返せる目処が付いたから、残りは働いて返す」と原告(元妻の兄)に取りついで欲しいと頼む。後になって原告から「刑務所からメールで「借金の半分の目処が付いたから休暇中に話がしたい」と連絡してきたとの証言が出てくる(刑務所からメールしてはいけないのに)。既にこの時点でファルコンデから金貨(借金の半分相当?)を拾ったと聞いていたのだろう(ここも省略)。“英雄”と呼ばれるに値する人ならこの時点で「警察に届けよう」とか「落とし主を探そう」とかなるんだけど、刑務所から早く出たい(出したい)二人はその金貨を借金の返済に当てようと考えてしまう。二人の切羽詰まった心境を考慮したり(後であんなことになるとは予想も出来なかっただろうし)、自分が同じ立場だったらどうしたかキッパリ言える自信がないので二人をjudge出来ないけれども“筋を通す”という観点からするとこの時点で間違っている。⑤一旦は金貨をお金に換えようとする二人だが、代わりにラヒムは銀行に行きバッグを落としたと言って来た人はいないかと訊く(くどいがイランでは警察に行かないの?)⑥何故一転してバッグの落とし主を探すことにしたのか。ラヒムとファルコンデとの話し合いの様子が“省略”されている。何故したか後で二人から証言が出てくるが何処まで本当かわからない。何故拾い主を実際に拾ったファルコンデてはなくラヒムにしたのか?(事実隠蔽してるよね?)何故張り紙という方法で落とし主を探すことにしたのか?連絡先を姉の家ではなく刑務所にしたのか(刑務所の番号は教えないでと言われていたのに…ここでも約束違反をしている)。美談を捏造したと後で疑われても仕方がなく倫理的に言っても正しくない行動をしている。⑦
名誉と世間体の為に…
〝最善の策が有りそうなのに常に誤った選択をしてしまう映画〟の新たなマスターピース。
「原案」とかでクレジットしてちょっとお金も払っとけば、本人もファルハディ作品に名前が!と喜んだだろうしお互いに名誉も保たれただろうに、なんで変な念書なんか書かせるかね………あれ?
いやしかし実際の所、観ている間じゅうファルハディの例の盗作問題に対する対応のマズさばかり考えてしまって、現実が映画を侵食しているなぁと思わずには居られなかった。
なぜ作品で指摘している事を、自分も現実にやってしまうのだろうか?それも含めて非常に興味深い味わいに成っている。
全員の行動に一理有り(〝今まで悪い事ばかりやってた奴が一つだけ善行を行っただけで何故評価されるのか、それなら取り立てて善行はやらなくても悪い事を全くしない自分の方が偉い〟と言ってた元義理の父親の意見とか至極真っ当)、また同時に全員の行動に悪手も有って観ていて非常に混乱する。常に「この子の為に」とか「お前の為に」と言われ、実際利用されている吃音症の息子がただただ可哀想。
休暇で刑務所を出た主人公が、階段をズーーーーーーーーっと登って義理の兄に会いに行ったり、主人公の恋人が階段を降りて主人公に会いに来たりといった気の利いた演出や、最後の、釈放されて出て行きパートナーと一緒にバスに乗って去っていく男の姿を、建物の入り口で切り取ってずっと見せる所など良い画も多くて、ファルハディの作品の中では、個人的に今作が一番好きだし面白かったな。
運が悪いというより、脇の甘さが問題ではないか???
久しぶりのイラン映画。刑期中に休暇が取れるとは不思議なシステムもあるものだ。運が悪いこともあるかもしれないが、とにかく主人公は脇が甘い。なのでこんなに色々な試練に出会うのではないか?中東の人達はとにかく面子を重んじるとは聞いていたが、この映画でもそれは良く理解できる。しかし設定を弄れば西側社会でもこういうことは起こりうることかもしれない。
作られた善意
遠慮がちに人の良さそうな笑みを浮かべるラヒム。恋人のファルコンデも姉のマリも義兄のホセインも彼を笑顔で迎え入れるが、実は彼はある罪に問われ投獄されている身で、一時的に保釈され彼らに会いに来たのだった。
彼は友人と商売を始めるために融資を受けたのだが、友人が金を持ち逃げしてしまい、その借金をラヒムの元妻の父親であるバーラムが肩代わりする羽目になってしまった。
バーラムはラヒムが借金を完済するまでは訴えを取り消さないと頑なに主張している。
そんな折り、ファルコンデは道で金貨の入った鞄を拾う。この金貨を換金すれば借金を返せるのではないかと彼女はラヒムに相談する。
これは神がラヒムに与えた救いなのか。
しかし金貨を換金しても借金の金額には届かない。
罪の意識からか、ラヒムは鞄と金貨を持ち主に返すことをファルコンデに提案する。
ラヒムは刑務所にいるため、鞄はマリに預けられるのだが、程なくして持ち主の女性が現れ、無事に金貨は彼女の元に戻る。
するとこれが美談としてメディアにも大きく取り上げられることになる。
服役中で借金がありながら金貨に手をつけることなく持ち主に返したラヒムの行為は多くの人から支持され、やがて囚人を救うためのチャリティ協会まで動かすことになる。
ラヒムの元に多額の寄付が集まってくるのだが、それでも借金完済には足りない。
チャリティ協会のメンバーもバーラムに訴えを取り下げるように説得するのだが、彼はやはり頑なに完済が条件であることを譲らない。
バーラムはラヒムは当然のことをしただけだと主張し、彼を英雄視する声に疑問を投げ掛ける。さらに彼はラヒムをペテン師呼ばわりし、自分が悪徳債権者であるかのような印象を持たれていることへの不満も口にする。
確かにバーラムの言葉にも一理あると感じる部分はあった。
アスガー・ファルハディ監督の映画は分かり合えない人間同士の痛ましい姿を描いたものがとても多い。
そして観客が感情移入するのを意図的に阻害しているようにも感じる。
断片的な情報しか入って来ないために、バーラムが頑なにラヒムを拒否し続ける理由も分からないし、ラヒムに対しても彼が本当に潔白なのかどうか疑念を抱いてしまう。
これは作られた美談なのではないかと。
SNSではラヒムを称える意見がある一方で、これは刑務所側がイメージアップを謀るための陰謀だと誹謗する意見もある。
そしてSNSの書き込みの影響で、ラヒムは仕事探しにも難航してしまう。
審議会は彼が本当に持ち主に鞄を返したのか、その証拠の提出を求める。
彼は持ち主の女性にコンタクトを取ろうとするが、彼女は意図的に自分の痕跡を残さないようにしていたらしく、どれだけ探しても彼女を見つけることが出来ない。
そこでラヒムはひとつ嘘をついてしまうのだが、これが後々に彼の立場を危うくする。
ラヒムはファルコンデに持ち主役を演じてもらうように依頼する。
ファルコンデは言われた通りに持ち主役として証言するが、審議会は証拠不十分としてラヒムの正当性を認めない。
審議会の元にはラヒムが不利になるようなデータが送られていたのだ。
ラヒムは全てバーラムが自分を陥れようとしているのだと短気を起こして、彼の元に押し掛け暴力を振るってしまう。
その様子は彼の元妻によって録画されていた。
ファルコンデが間に入って取りなそうとするのだが、それによってラヒムが嘘をついていたこともばれてしまう。
彼はチャリティ協会からの信用も失ってしまう。
手の平を返したように彼を責める刑務所所長の姿もおぞましかった。
刑務所側もチャリティ協会も、自分たちの信用を回復するためにラヒムにバーラムに謝罪するように強く求める。
しかし名誉を傷つけられたラヒムは謝罪することが出来ない。
彼にも非はあるはずなのに、おそらく彼は自分が何故このような目に合わなければならないのかという被害者意識が強くなってしまっている。
そうなるとプライドが邪魔をして、彼は決して謝ろうとはしない。
大人になれない愚かな男の姿もファルハディ監督の作品では良く目にする。
結果的に動画は拡散され、ラヒムはさらに逆境に立たされる。
彼を待ち受ける運命は悲劇的なものでしかないのだが、この映画はどこで落としどころをつけるのだろうかと気になった。
チャリティ協会は寄付金をラヒムのために使うことを断念する。
ファルコンデは必死に協会を説得するが、チャリティ協会が寄付金をある死刑囚を救うために使うことを話すと、ラヒムはすんなりとそれを受け入れる。
やはり彼には良心があったのだ。
ファルコンデはラヒムには内緒で、彼が死刑囚を救うために寄付金を譲ったことにして欲しいと協会の会長に頼む。
するとまたしてもそれが美談として取り上げられてしまう。
刑務所側も今度こそ信用を回復するために、ラヒムの行為を大々的に世間にアピールしようとする。
ラヒムを無条件に支え続けたのはファルコンデと、彼の息子であるシアヴァシュだ。
シアヴァシュは吃音症でうまく自分の考えを伝えられない。
刑務所側はそこに目を付け、たどたどしくも父親の正当性を訴えるシアヴァシュの映像を公開すれば、きっと世間の同情を買うことが出来ると主張する。
しかしラヒムは息子が晒し者になることを許さなかった。
自分のプライドのためにバーラムを殴ったラヒムの行為は到底許されるものではないと思ったが、息子の名誉を守るために食い下がる彼の姿には心を打たれるものがあった。
このあたりの観客の心を揺さぶる展開は見事だと思った。
結果的にラヒムにとっては刑務所から抜け出せない悲劇的な結末になってしまうのだが、彼が最後に下した決断には救われる部分があった。
刑務所から仮出所するラヒムの姿で始まり、刑務所に戻るラヒムの姿で終わる映画の構図も巧みだと思った。
情報に踊らされる人々の愚かさと、SNSを使えば簡単に印象操作が出来てしまうという現代的な恐ろしさを感じさせる映画でもあった。
主人公側に過度に肩入れせず公平な描写
いつもの映画館で
たまったポイントでロハ
開始時刻に合わせて仕事を1時間早退した
楽しみにしていたのだが
当日の仕事での出来事も影響してヘビーな気分で終始
とにかく前に進むために何でもやる主人公も好感がもてる
やり方は間違っていたが
主人公だけでなく
登場人物それぞれの行動規準が理解・想像できる秀作
・無条件に弟を信じる姉とその家族
・弱者の目線で金を集める慈善団体の代表
・吃音の子どもを利用する刑務所の幹部
債権者の目線が一番冷静で常識的な感じだ
孫の訴えの声を直接聞いて心を動かすところなどに共感
主人公側に過度に肩入れせず公平な描写
主人公が刑務所の幹部に最後にたてついたところが
この映画の救いなのかと思う
ラストシーンの捉え方は人それぞれだろう
別離 セールスマン
監督の過去作も観てみようと思えた
ちょっと嘘を言っただけで!
イランの映画
主人公は、借金を返せなくなり服役。
休暇があるんだね。
彼女が拾ったバッグに金貨があり
借金返済を、やっぱり返そうとなり
波乱が巻き起こる。
では
貰っといたら良かった?
人間の心理がよくわかる
なかなか
うーんと考える作品です。
英雄(not)pay
イランというと、マスコミの報道に接していると“イラン核合意”とか“親イラン武装組織”など剣呑なイメージしか入って来ないのだが、このファルハディ監督やアッバス・キアロスタミの映画を見ていると、市井の人々の生活や喜怒哀楽はぐっと近しいものに感じられる。そういう意味で映画や文学などの効用は計り知れない。
それにしても、この監督の映画はスカッとしない展開が多い。おそらくそれこそが評価されている点なのだとは思うが。ミステリー要素が加味されているのでつい惹かれて見てしまうが、快刀乱麻を断つ解決には導いてくれない。主人公を巡って毀誉褒貶が揺れ動く中、観客は第三者として画面越しにずっとその行動を見ているので、どうにも不誠実で信頼できない人物なのは明らかに思える。この主人公にどう寄り添えばいいのかわからないのだ。
イスラム圏の人は、男性は皆髭を生やしているし、女性はチャドルやニカブを着ているので、識別が難しい。私は当初、金貨を取りに来たのは主人公の恋人かと思っていた。
英雄にはなるもんじゃないですね
セールスマンのアスガル・ファルハーディー監督(Asgharのrを発音せずに、引く音にする、原音を無視した愚かな英語至上主義はそろそろ止めてほしいものです。また、別れた妻の兄のBahrāmはバーラムですか。勘弁してほしいです。まあ、世界共通語の英語様の発音なのだから、アメリカの敵であるイランでの発音通りになんて表記する必要などないということなのでしょう。悲しいことです)の最新作ということで、予告編を見てから楽しみにしていました。
借金を返せなかったために刑務所に入っていたラヒームが休暇で刑務所を出るところから物語は始まりますが、「借金で刑務所行き?」、「受刑者が休暇?」という感じで我々日本人には馴染みのない制度のために、物語の中に入り込むよりも先に頭が混乱してしまいます。
パンフレットでは、懲役刑とあたかもこれが刑罰であるかのように書いていますが、これは純粋な意味での刑罰ではなくて、あくまでも借金を支払わせるための圧力であり、手続きも、民事執行法的な経済的事案の判決の執行に関する法律にあるものですから、懲役刑という説明はどうかと思いました。もっとも、普通の市民感覚としては、あいつムショで臭い飯(ペルシア語風なら冷や水か?)食わされてるみたいだぜってことで刑罰と変わらない感覚でしょうが……。また、刑務所に入りたくなければ借金を返せという脅しは、ある程度までは効果があるでしょうが、実際に刑務所に入ってしまえば、結局借金も返せず、誰が得するんだか……。不思議な制度です。
休暇という用語についても、確かにmorakhkhasīの意味は休暇なのですが、これだけ聞くと刑務所で働いてるんでしたっけ?とやはり思ってしまいます。日本では、例えば受刑者の病気などを理由に刑の執行を停止する事ができると法律で定められていますが、イランでも同様に、と言うか刑事施設並びに保安及び矯正処分に関する規則の213条から229条にかけて、さらに広い範囲で刑の執行の停止を認めているので、日本語訳としては刑の執行停止の方が意味的には近いかもと思うのですが、物語的にはやはり休暇のほうがしっくり来るのでしょうか。悩ましいところです。
この刑務所から出てきた我らがラヒームが最初に向かうのが、姉の夫のホセインが働く、古都シーラーズのナクシェ・ロスタムの修復現場ということになります。アケメネス朝の王墓やサーサーン朝のレリーフがイランという国の歴史の長さと豊かさを雄弁に物語っています。そして、ホセインに会うために足場を上へ上へと最上部まで登ったかと思うと、また下へ下へと下っていくという、まさに彼のこの物語内でのジェットコースターのような運命を予兆してくれています。
ホセインとの会話の中で、債権者であるバハラームへの借金返済のメドが立ったような話し方をするラヒームに、心の中で「あんた、受刑中の身でどうやって返済のメドが立つんだよ?」と突っ込んでいると、シーンが変わって、ラヒームの愛しい人ファルホンデがチャードルを纏って登場し、拾ったバッグと在中物の金貨をラヒームに見せてくれます。なるほど、そういうことだったのね、と。
その後、様々な紆余曲折を経て、拾ったカバンと金貨を持ち主に返そうとするわけですが、我々日本人なら警察に届けたら済むものが、イランではそうではないようで、見ていて何だか迂遠に感じました。試みに、遺失物をキーワードにググってみると、例えば民法162条によると、1ディルハム(2.5グラムの重さの銀に相当)未満の拾得物は自分のものにしてもよいとなっていて、163条では、拾得物が1ディルハム以上の価値のとき、拾得者は1年間その旨を告知し~等と書かれており、ラヒームが様々な場所に張り紙をしていた理由が分かりました。なんとも面倒なことです。イランでは、何か落ちているのを見つけても拾わない方がいいかもと思いました。
このラヒームの善行により、金貨の持ち主が現れて、刑務所がそのことを知り、更にテレビでラヒームの善行が放送され、彼が英雄へと祭り上げられていくわけですが、日本人的感覚からすると、拾ったものは持ち主に返すのが当然のことでしょう、またお宅の国でも同様の法律があるじゃないの等と思ってしまいます。そういえば、チャリティー後の主催者等の集まりでも、バハラームも同様のことを言ってた気がします。返して当然の拾得物を持ち主に返しただけで英雄となるのに、娘の花嫁道具すら処分してまで協力してやった自分が悪徳債権者扱いなのか、と。娘のナーザニーンも怒って当然かもしれません。自分は花嫁道具まで売り飛ばされたのに、ラヒーム、お前はのほほんと誰かと結婚するつもりなのか!って。
その後、ラヒームのちょっとした複数の嘘が原因で、彼の運命がどんどんと下っていくわけですが、ラヒームを始め、刑務所の職員やチャリティーの主催者等、誰もが浅はかと言うか、自己中心的と言うか、それぞれ守りたいものがあるのは分かりますが、もうちょっと何とかできないものかと思ってしまい、誰にも感情移入できなくなってしまいました。プライドや面子ってそんなに大切なものなんでしょうかね? 挙句の果てにはラヒームはバハラームの店舗内でバハラームに襲い掛かり、店舗に閉じ込められてしまうという体たらく。この全面ガラス張りで、どこからでも中を覗き込める店舗に閉じ込められたラヒームは、まさにプライバシーもへったくれもない、ネットでのさらし者のメタファーといったところでしょうか。大衆によって英雄に祭り上げられた彼は、大衆によって今度は地面へと叩き付けられるわけです。
さて、英雄ということで、ファルハーディー監督の今回の作品について触れるときは、アーザーデ・マスィーフザーデという女性について触れない訳にはいかないと思います。
彼女は2014年頃から2015年頃に参加した映像制作のワークショップで、高価な落とし物を拾い、それを持ち主に返した人についてのドキュメンタリーを作るよう、ファルハーディー監督から課題を出され、他の参加者らと共に次のような作品を作ったと訴えています。
別れた妻への慰謝料が払えずにシーラーズの刑務所で受刑中だったモハンマドレザー・ショクリーが、刑務作業での壁の塗装に必要なペンキを買いに、刑務所から外に出たところ、この刑の執行停止中に大金の入ったカバンを発見し、その旨を書いた広告を銀行等に張り出した。間もなく、落とし主を名乗る人物から連絡があり、このザハラー・ヤアグービーという女性にカバンとお金を返したところ、彼は新聞やテレビで取材を受け、報道されることになる。しかし、アーザーデがそのザハラー・ヤアグービーを探しにシーラーズから離れた集落まで出かけてみるも、そのような女性はどこにも見つからないのであった。
All winners, all losersと題する彼女の映像を見て、どこかで見たような……等と思ってしまいますが、この騒動にはまだ続きがあり、ワークショップで作られた作品は、このネットにアップされた45分ほどの映像ではなく、29分ほどのモハンマドレザー・ショクリー氏に対するインタビューがメインの映像のようで、この45分のものは追加の映像等を加えて、英雄の証明に寄せた形で最近作られたものであるという話もあるようです。
イラン国内では、ファルハーディー監督と彼女の間での訴訟合戦があるようですが、このままファルハーディー監督が英雄のままでいられるのか、映画だけではなくて、現実における今後の成り行きにも注目してしまいます。ラヒームは、他人のものを盗んで自分のものにするわけにはいかないと言っていますが、アイデアの盗用があったのかどうか気になるろころがあります。ただ、ショクリー氏がお金を持ち主に返し、ニュースになったのは、アーザーデさんの創作ではなく、社会的な事実であるということや、ラヒームが再度刑務所に戻るまでのいきさつを含む物語全体に、ファルハーディー監督の解釈や創作がふんだんに盛り込まれているわけですから、権利関係的にも問題ないような気がしますし、作品自体、非常に見ごたえのある映画になっていたと思います。
最後に、役者さんに関してですが、テレビシリーズのPāytakht(capital)でコミカルなナギーを演じているモフセン・タナーバンデ氏はコメディアンというイメージが強かったのですが、今回はシリアスな演技をされていて、ますますファンになってしまいました。
虚しい証明
最初に感じていた、イラン社会との違和感は次第に消えて、世間にありがちな、SNSの無責任さが露呈していく。そして、何よりも、空回りしていくラヒムと心無い投稿に振り回されてしまう人々の愚かさに苛立ちを覚えてしまう。彼らは、目の前にいるラヒムよりも、誰が投稿したかもハッキリしないネットの書き込みの方を盲目的に信じてしまう。イラン社会もさることながら、SNS社会の不条理さは、深い虚しさを感じないではいられない。SNSは、人に便利さを供する代わりに、何かを喪失させてしまうのだろうか。ファルハディ監督作品は、苛立ちを覚えることも多いが、それを楽しむのもコツ。
観ていて辛い映画だ。善意の人が不運に振り回される。
デシーカの「自転車泥棒」を思い出させた。悪人ではない、どちらかと言えば、善人が不運に振り回され、また刑務所に入所する。
主人公は善意の人間であるが、周囲の小賢しい人間に振り回わさせれ、人生がどんどん悪い状況に陥っていく。これは普通に生きる人間には起きうることだ。主人公が自分であるかのように感じられ、身にせまってくる。私は観ていて辛かった。救いようがなくて、気持ちが落ち込む。つまり、良い映画の証明だ。主人公に吃音症の息子を設定したことが効いている。また、入所前に坊主頭にする。長期入所の覚悟か、宗教的な意味があるかもしれないと。
二面性を描く天才
嘘をついちゃいけないと思う良心や倫理観も、利益を独り占めしたいと思う欲深さも、両方持っているのが人間だ。
主人公を讃えていた周りの人達も、自分の立場がまずくなれば保身に走る。
この人は良い人、この人は悪い人、ではない。
誰にでも表と裏がある。そんな複雑な人間というものをどうやったらこんなに上手に描けるんだろう。
あんなに探していた金貨の持ち主は、最後まで分からなかった。でもそんなことは気にならないほど周りの人間が裏返っていく様が面白い。
吃音の子ども凄く良かったな。
もっとスマートに動けばいいのに。
融資という名の借金を返せなくて刑務所に入り、その休暇の出来事。
バス停にあった紐の切れたバッグに入ってた金貨を見つけ、持ち主に返そうとする話。
それだけだったら美談だが、ハヒムが喧嘩っ早いし、持ち主見つけられないから代わりの人を立てたり、立ち振る舞いがスマートではないため、美談と思われたことが周りを巻き込んで騒ぎになり、最後には物別れに終わる。
拾った金貨やチャリティで目の前の借金が返せる。でもそれを放棄する姿は称賛に値するが、それ以外の立ち振る舞いは共感できないことばかり。
美談から結局はただの囚人として刑務所に帰るというエンディングも、振り回されて結局普通に収監されて終わり、だとなんだか解せない。常にグレーゾーンな話が続き、スッキリする内容ではないがこういう作品もまぁアリなのかもしれない。
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