英雄の証明のレビュー・感想・評価
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警察が悪いのでは
スマホやPCの画面を一切映さずに、炎上によって信用を失っていく男の悲哀を描いていて、上手いの一言。
後味の悪い脚本だが、それは狙ってのこととよくわかる。
イスラムの教えや、イスラム教圏の治安状況が下敷きだと、キリスト教圏や仏教圏より倫理感や常識が遠く感じます。
『白い牛のバラッド』とかでも思いました。
そもそもイランの公共サービス・行政が機能してないというのが罪深く、
「遺失物を警察に届けたら、警察官はガメることができない」
「持ち主が自分のものだと証明できないと警察が返さない」
「引き取り主の連絡先を証明書控えつきで記録する」
という日本のような警察システムがない事が問題だよな、とか観てて思いました。
救いようのない疑いの連鎖
小さな嘘が大きな嘘を証明する根拠とされてしまう。言い訳すればするほど疑いが深まる。組織は自己保身を優先する。SNSの影響は絶大で、組織はビクビクしている。
人や組織の言い分は、その立場に立ってしまうとそれぞれ全うに聞こえるから不思議だ。人は立場でものを考えると言われるが、確かにそう思える部分が経験上思い当たる。
このようなことを感じさせる場面がこれでもかこれでもかと繰り返される。この監督は天才だ。これだけ普通の社会、そして人間を絶望的に描いた監督がいただろうか。救いが見えない。最後の場面は、身近な愛する人は信じることができることを示唆しているとも取れるが、これだけたたきのめされると、それも怪しくなってくる。
“人間の業”という名の解決不能なテーマ
この監督作品はまだ数本しか観ていないが、毎回そのストーリーテラーぶりに脅かされ感心させられ、本作もその巧みさに唸らされました。
数本観た結果、この監督の描きたいテーマは簡単に言ってしまうと“人間の業”の様なものだと思うのですが、その描き方が実に巧妙で面白く私好みなので、完全にファンになってしまいました。
何を書いてもネタバレになり感想が書き難い作品なので、少し本作から脱線した内容になると思います。
まず簡単に本作の解説を引用すると「SNSやメディアの歪んだ正義と不条理によって、人生を根底から揺るがす事態に巻き込まれていく男の姿を描く」とあり、ポスターのキャッチコピーは「英雄か、詐欺(ペテン)師か」とあり、ミスリードではありますが、大雑把に本作のエッセンスを伝えていますが、今回はこの辺りの日頃思う事を綴って行く予定です。
この大袈裟な“歪んだ正義と不条理”とか“英雄か詐欺師か”とか、人間という生き物は(個ではなくマスとして)とかく物事や他者に対してのレッテル貼りやマーキングをして識別したがる傾向にあり、それらの対象となる人間個人の悲喜劇が後を絶たない。という、人間は何時でも加害者の立場にも被害者立場にもなる可能性があるという、人間の業を描いた作品になっていました。
例えば、人はよく“頭の良い人(賢者)”“頭の悪い人(愚者)”といった識別をしたがりますが、個人というよりもネット全体、メディア全体、社会全体が“頭の悪い”象徴やメタファーになりつつあり、それに振り回されてしまう人間の悲しさと愚かさが本作ては描かれていて、自分自身を反省させられる構造が彼の作品にはいつも感じられます。
どんなに「人間は機械ではないので、何事も1か0で割り切れるものではない」と言われ頭では分かっていても、上記の識別という意味で、人間って単純に“善悪”“正誤”“白黒”を付けたがる習性があるのは間違いなく、映画でも大衆向けとなると勧善懲悪がハッキリしないと支持されないし嫌悪されます。
今まさに世界の果てで戦争が行われ、様々なメディアの情報から様々な善悪のジャッジが行われていることでしょう。
個人的な意見ですが、基本的に“頭の悪い”というは物事を一面的にしか捉えられず(浅慮)“頭の良い”というのは多面的に捉えて思考出来る(深慮)という風に思っているのですが、野次馬(マス)ってのは“頭の悪い”善悪や白黒のマーキングが大好きですし、個はマスに流されるのも大好きだから、どんな問題に対しても人間(人類?)っていうのは改善出来ない生き物なのでしょう。
更に本作では、必ずしも“頭の悪い”が悪で“頭の良い”が善ばかりでもないという含みも描かれていました。
よぉ~く観察すると“頭の悪い”と思える中にも許せる・許せないの差はあるし、“頭の良い”中にも快・不快の差が出てきます。
本作の主人公は上記で言う“頭の悪い”行動ばかり行いますが、私は決して彼が根っからの悪い人間だとは思えず、それは主人公だけではなく彼の恋人も家族も役人も慈善団体も登場人物全てに対して同様でした。
本作は、登場人物の大半は普通に社会に居る特別に賢くも偉くもなく、その場での言動や行動に流されてしまう凡人の右往左往を描いた作品であって、結局本作の様に“人間の業”(あるいは、人間の愚かさ)を描いて行くと、問題に対する(夢の様な)解決策は決して得られないので(浅慮な)大衆(マス)からは敬遠されるのでしょうね。
単なるイランのグダグダ話…。
最初に金貨を拾ったことを、“幸運“や“神からの施し“のように思うこと自体から間違いが生じているが、その後は、嘘に嘘を重ねたグダグダの展開が繰り返される。
この映画で展開されている内容が、イランの人達にとって納得のいくものなのかどうかは、まったくわからないが、お互いに騙されないように、用心して生きていることだけは、よくわかる。
しかし、借金を返せない場合、訴えられると刑務所に入らなければならないとは、なかなか厳しい社会だ。
職を失わせるより、働かせて借金を返済させた方がいいのではないかと思うが、それよりも、罰を与え、社会的制裁をくわえることの方が重要なのだろう。
カンヌでグランプリ…、その評価はよくわからない。
画の撮り方は素晴らしい。ストーリーに人間の本質を突くものがあるかどうか…、嘘の上塗りの弁解に、それほどのものがあるとは思えない。
少し期待していただけに、ちょっと残念な内容だが、監督のアスガー・ファルハディの世界的評価は高い。
皆さんの目で確かめてみてほしい。
後味が悪い作品
予告編が面白そうだったので見てきました。しかし後味は悪くお勧めはしにくい。
借金を返せず刑務所にいる主人公が休暇中に街で金貨を拾い落とし主?に返したことにより英雄に祭り上げられる。
その後の紆余曲折があり最後は・・・。
何処の国でもお金にまつわる悪事は尽きないし女性はしたたかに生き抜いているという事らしい。
主人公の短気な気性とウソにウソを重ねてやり過ごそうとした行動が裏目に出るのも自業自得の様な気がしました。
とにかく後味の悪い作品でした。
英雄にはなるもんじゃないですね
セールスマンのアスガル・ファルハーディー監督(Asgharのrを発音せずに、引く音にする、原音を無視した愚かな英語至上主義はそろそろ止めてほしいものです。また、別れた妻の兄のBahrāmはバーラムですか。勘弁してほしいです。まあ、世界共通語の英語様の発音なのだから、アメリカの敵であるイランでの発音通りになんて表記する必要などないということなのでしょう。悲しいことです)の最新作ということで、予告編を見てから楽しみにしていました。
借金を返せなかったために刑務所に入っていたラヒームが休暇で刑務所を出るところから物語は始まりますが、「借金で刑務所行き?」、「受刑者が休暇?」という感じで我々日本人には馴染みのない制度のために、物語の中に入り込むよりも先に頭が混乱してしまいます。
パンフレットでは、懲役刑とあたかもこれが刑罰であるかのように書いていますが、これは純粋な意味での刑罰ではなくて、あくまでも借金を支払わせるための圧力であり、手続きも、民事執行法的な経済的事案の判決の執行に関する法律にあるものですから、懲役刑という説明はどうかと思いました。もっとも、普通の市民感覚としては、あいつムショで臭い飯(ペルシア語風なら冷や水か?)食わされてるみたいだぜってことで刑罰と変わらない感覚でしょうが……。また、刑務所に入りたくなければ借金を返せという脅しは、ある程度までは効果があるでしょうが、実際に刑務所に入ってしまえば、結局借金も返せず、誰が得するんだか……。不思議な制度です。
休暇という用語についても、確かにmorakhkhasīの意味は休暇なのですが、これだけ聞くと刑務所で働いてるんでしたっけ?とやはり思ってしまいます。日本では、例えば受刑者の病気などを理由に刑の執行を停止する事ができると法律で定められていますが、イランでも同様に、と言うか刑事施設並びに保安及び矯正処分に関する規則の213条から229条にかけて、さらに広い範囲で刑の執行の停止を認めているので、日本語訳としては刑の執行停止の方が意味的には近いかもと思うのですが、物語的にはやはり休暇のほうがしっくり来るのでしょうか。悩ましいところです。
この刑務所から出てきた我らがラヒームが最初に向かうのが、姉の夫のホセインが働く、古都シーラーズのナクシェ・ロスタムの修復現場ということになります。アケメネス朝の王墓やサーサーン朝のレリーフがイランという国の歴史の長さと豊かさを雄弁に物語っています。そして、ホセインに会うために足場を上へ上へと最上部まで登ったかと思うと、また下へ下へと下っていくという、まさに彼のこの物語内でのジェットコースターのような運命を予兆してくれています。
ホセインとの会話の中で、債権者であるバハラームへの借金返済のメドが立ったような話し方をするラヒームに、心の中で「あんた、受刑中の身でどうやって返済のメドが立つんだよ?」と突っ込んでいると、シーンが変わって、ラヒームの愛しい人ファルホンデがチャードルを纏って登場し、拾ったバッグと在中物の金貨をラヒームに見せてくれます。なるほど、そういうことだったのね、と。
その後、様々な紆余曲折を経て、拾ったカバンと金貨を持ち主に返そうとするわけですが、我々日本人なら警察に届けたら済むものが、イランではそうではないようで、見ていて何だか迂遠に感じました。試みに、遺失物をキーワードにググってみると、例えば民法162条によると、1ディルハム(2.5グラムの重さの銀に相当)未満の拾得物は自分のものにしてもよいとなっていて、163条では、拾得物が1ディルハム以上の価値のとき、拾得者は1年間その旨を告知し~等と書かれており、ラヒームが様々な場所に張り紙をしていた理由が分かりました。なんとも面倒なことです。イランでは、何か落ちているのを見つけても拾わない方がいいかもと思いました。
このラヒームの善行により、金貨の持ち主が現れて、刑務所がそのことを知り、更にテレビでラヒームの善行が放送され、彼が英雄へと祭り上げられていくわけですが、日本人的感覚からすると、拾ったものは持ち主に返すのが当然のことでしょう、またお宅の国でも同様の法律があるじゃないの等と思ってしまいます。そういえば、チャリティー後の主催者等の集まりでも、バハラームも同様のことを言ってた気がします。返して当然の拾得物を持ち主に返しただけで英雄となるのに、娘の花嫁道具すら処分してまで協力してやった自分が悪徳債権者扱いなのか、と。娘のナーザニーンも怒って当然かもしれません。自分は花嫁道具まで売り飛ばされたのに、ラヒーム、お前はのほほんと誰かと結婚するつもりなのか!って。
その後、ラヒームのちょっとした複数の嘘が原因で、彼の運命がどんどんと下っていくわけですが、ラヒームを始め、刑務所の職員やチャリティーの主催者等、誰もが浅はかと言うか、自己中心的と言うか、それぞれ守りたいものがあるのは分かりますが、もうちょっと何とかできないものかと思ってしまい、誰にも感情移入できなくなってしまいました。プライドや面子ってそんなに大切なものなんでしょうかね? 挙句の果てにはラヒームはバハラームの店舗内でバハラームに襲い掛かり、店舗に閉じ込められてしまうという体たらく。この全面ガラス張りで、どこからでも中を覗き込める店舗に閉じ込められたラヒームは、まさにプライバシーもへったくれもない、ネットでのさらし者のメタファーといったところでしょうか。大衆によって英雄に祭り上げられた彼は、大衆によって今度は地面へと叩き付けられるわけです。
さて、英雄ということで、ファルハーディー監督の今回の作品について触れるときは、アーザーデ・マスィーフザーデという女性について触れない訳にはいかないと思います。
彼女は2014年頃から2015年頃に参加した映像制作のワークショップで、高価な落とし物を拾い、それを持ち主に返した人についてのドキュメンタリーを作るよう、ファルハーディー監督から課題を出され、他の参加者らと共に次のような作品を作ったと訴えています。
別れた妻への慰謝料が払えずにシーラーズの刑務所で受刑中だったモハンマドレザー・ショクリーが、刑務作業での壁の塗装に必要なペンキを買いに、刑務所から外に出たところ、この刑の執行停止中に大金の入ったカバンを発見し、その旨を書いた広告を銀行等に張り出した。間もなく、落とし主を名乗る人物から連絡があり、このザハラー・ヤアグービーという女性にカバンとお金を返したところ、彼は新聞やテレビで取材を受け、報道されることになる。しかし、アーザーデがそのザハラー・ヤアグービーを探しにシーラーズから離れた集落まで出かけてみるも、そのような女性はどこにも見つからないのであった。
All winners, all losersと題する彼女の映像を見て、どこかで見たような……等と思ってしまいますが、この騒動にはまだ続きがあり、ワークショップで作られた作品は、このネットにアップされた45分ほどの映像ではなく、29分ほどのモハンマドレザー・ショクリー氏に対するインタビューがメインの映像のようで、この45分のものは追加の映像等を加えて、英雄の証明に寄せた形で最近作られたものであるという話もあるようです。
イラン国内では、ファルハーディー監督と彼女の間での訴訟合戦があるようですが、このままファルハーディー監督が英雄のままでいられるのか、映画だけではなくて、現実における今後の成り行きにも注目してしまいます。ラヒームは、他人のものを盗んで自分のものにするわけにはいかないと言っていますが、アイデアの盗用があったのかどうか気になるろころがあります。ただ、ショクリー氏がお金を持ち主に返し、ニュースになったのは、アーザーデさんの創作ではなく、社会的な事実であるということや、ラヒームが再度刑務所に戻るまでのいきさつを含む物語全体に、ファルハーディー監督の解釈や創作がふんだんに盛り込まれているわけですから、権利関係的にも問題ないような気がしますし、作品自体、非常に見ごたえのある映画になっていたと思います。
最後に、役者さんに関してですが、テレビシリーズのPāytakht(capital)でコミカルなナギーを演じているモフセン・タナーバンデ氏はコメディアンというイメージが強かったのですが、今回はシリアスな演技をされていて、ますますファンになってしまいました。
悲しくて怖い
善行を行った男がメディアに取り上げられた際に、簡略化する為の些細な嘘と多少の演出を行い、その後英雄に祭り上げられる(本人の意向に関係なく)。がしかし、ネット上で虚偽を突っ込まれ炎上、詐欺師呼ばわりされ修復を図ろうとするもドンドン裏目裏目へと転がり落ちてゆく。
100%善意の人間が周りの人の都合で嘘をつかされ、それにツッコミを入れ反応する人達も決して悪人ではない。コレはいつでもどこでもあり得る話である事がとても怖い。極々自然に状況が悪化していく様がとても悲しく、終始眉をひそめての鑑賞でした。
一見の価値は有ります。
前提としてある程度の知識が必要だけど、キラリと光る良い作品(補足入れてます)。
今年97本目(合計370本目/今月(2022年4月度)7本目)。
ということで、イランの映画です。今年では「白い牛のバラッド」以来でしょうか?
日本からみて、お隣韓国や台湾(便宜上の国扱い)や、メジャーなアメリカ等とは全然違うイランのお話なので、法律ワードはそこそことんでくるし、本質論的にはそれらが見え隠れしているのですが、日本からでは(行政書士など資格を持っていても)まぁ理解ができないところです。法律ワードなどとんでくるのも、固有名詞で見たほうが良いくらいです。
他の方も書かれている通り、日本や韓国などと違い、債権債務の問題でトラブルになると、民事の問題になりますが、ここで刑務所に入れられる(ただ、描写的にはいわゆる刑務所というより、日本でいうところの「社会復帰センター」というような軽い扱いにも見える)ところがそもそも違います(よって、刑務所からの社会復帰デーか何か、定期的に外に出ている描写があるのも、いわゆる純粋たる刑務所ではない、ということなのでしょう)。
主人公は善意で(ここでは、通常の意味)金貨の入ったバッグを拾得してしまうのですが、それを公的機関に預けたところよからぬトラブルに巻き込まれる…というお話。
そして、意外なことに「善意」(ここでは法律用語。「知らないこと」を意味する)の証明って難しいんですよね。「悪意」(ここも法律用語。「知っている」こと)の証明は簡単なのですが、「善意」や「善意無過失」(知らず、過失もないこと)の証明って日本でもイランでもどこでも難しいんです。
意外だったのが、スマホやSNSといった語が出るあたりからすると、少なくとも2015年~くらいからの作成と考えられるところ、規制が比較的厳しいと思われるイランにもSNS(まぁ、ツイッターのような公的なものから、それこそ「イラン製・イランの「大本営」が作った」SNSかは知りませんが…)ってあるんですね…。アラビア・イスラム系の国の中では比較的規制が厳しいほうなので(逆に宗教と文化を切り離しているのが、トルコ等)、ここは驚きです。
そして、誰のものかもわからない金貨をめぐって、自分が所有者だのこっちの借金を返せだの、金貨の存在自体がウソの話だの何だのという面倒くさい話に巻き込まれるのですが…。おっと、ここはネタバレですね。4月1週の中では本命以上に推せると思います。
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(減点0.2) 上記の通りイランの映画という事情もあって、大半(ごくごく一部、フランス語が出てくる)、アラビア語か何かの看板やらが出てくるのですが、まるで翻訳なし…。まぁ、上記にも書いている通り、主人公の「移動範囲」が結構広いので(刑務所といっても、そんなに拘束度が高くない模様)、どこか街の中やらタクシーやら移動しますが、まるで看板がない状況…。もっとも、何も書いていないということは、どうせ「肉屋」だの「魚屋」だのなのだろうと思いますが(あるいは、壁の落書きなどは、どうせ「イスラム教を信仰しましょう!」とかのいたずら書き?)、もう少し字幕に工夫が欲しかったです。
※ エンディングロールも同じで、延々とアラビア語(読みようがない…)が出たあと、フランス語でちらっと権利関係が出てきておしまいという、「英語からの推測が大半何もきかない」という珍しい映画です。
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▼ 主人公は何をすべきだったのか(ひとつの考察。日本の法律基準で)
・ このようなことは日本でも起きえますから、行政書士資格持ちとして気になった点書いておきます。
・ 金貨の袋を拾う
→ 映画内では、警察(日本では、遺失物法では警察か管理施設に届け出るのがルール)でもない「変な場所」(まぁ、公共施設とは言えますが)に届けていますが、日本では「その変な場所」に行ってもダメです(届け出るだけ無駄)。
・ 借金取りが何とかどうとか
→ 借りたお金は返さないとまずいですが、債権者が特定できない、行方不明など「返したくでも返せない」場合、「供託」という制度があります(民法の「弁済」のところで習います)。本映画はここがポイントで、正直「どっかの供託所に供託してあるんだから取りに来い」で一瞬で終わりなのですが、イランに供託所(に相当する公的機関。日本では法務省が管轄)があるかどうかは怪しいです。
・ (振り返って、再び)金貨の袋を拾う
→ (日本では)遺失物法の扱いですが、より広く一般法でいう民法では、「事務管理」の扱いです(義務なく、他人のために何かをする行為一般。落とし物や、よくある、突然倒れている人に声をかけて救急車を呼ぶなども、広くはこれです)。この「事務管理」は日本では「助け合いの精神」のもと定められているので、「義務は多い」(最も本人のためになるように対応しなきゃいけない、勝手に中断しちゃいけない)ものの「権利は少ない」(費用は本人に請求できるが、報酬は原則請求できない。遺失物法などは特則)という、まさに日本の「助け合いの精神」のもとで成り立っている、債権編の最後のほう(親族相続に入る直前のところ)で学習するお話です。
ここでも書いた通り、「一度着手するとやめられない」のであり、逆に言えば「自分に関係がなければ、着手しない限り放置するのも自由」なので(もちろん、自動車ではねちゃったというような場合は、これとは別に救護義務はあるので注意)、実は日本の事務管理のルールは「義務は多いが権利はほとんどない」ので、やらないほうがマシな部分もあったりします(もちろん、それと助け合いの精神の話とは別)。
※ 国によっては、日本の事務管理(助け合いの精神)が義務として定められているところもありうるので、一概に言えません。
イランの人! もうちょっとちゃんとしましょうよ
こねにこねました的なストーリー。
不条理な日常性のためなのか、ダークファンタジー映画なのか?
イランの映画は楽しくない。
刑務官が私服。
テレビ局のディレクターも汚い私服。
分かりにくい。
主役の罪人が一番イケメンで、いい服着てたような。
お金持ちの子供が主役になる前時代的な学芸会じゃあるまいし。
刑期の間に休暇があるのがわからない。警備ゆるゆるで、違和感。
NPO法人が寄付金を集めれば、減刑出来るのが理解不可。しかも、団体の代表者の気分でコロコロ変わる決定。
なのに、法人の雇用担当者だけがまるで検事のように事実確認に厳格なのよ。バランスが明らかにおかしいよね。
司法制度ないの?
ちゃんと制服着た警官はいないの?
交番はないの?
吃音症の子供はうんと哀れ。
言語リハビリ士の彼女に子供を託してまた刑務所に逆戻り。
マスコミ、SNSの身勝手さはたくさんの映画で取り上げられているから斬新さはない。
ヒーローっていう原題に???
やっぱり、服役中の男が刑期の休暇中に落とし物の金貨を自分の減刑費用に当てずにちゃんと落とし主に返しましたっていうことでヒーローになるって、正直者はまずいない社会ってことでしょう。だめだよね。イラン。
女優さんはいるにはいるが、みんな表情が硬い。ラヒムのお姉さんは友近似でまずまず良かったけど。
落とし物は拾ったら直ちに交番に届けましょうね。自分で落とし主を探すポスター貼ったりしちゃ、なりすましに持っていかれちゃうからね。
あー、疲れた。
銀座まで行って、損したわ。
善意がどうして…
善意で行った行動がどうしてこんなにまどろっこしくなってしまったのか。
ラヒム自身もちょっと嘘ついたりグレーな部分もあり、もどかしく感じる部分も多いが、英雄から一変、ペテン師と疑われてしまうのは辛い。
吃音の子供が父親のために行動する姿は苦い気持ちになった。
SNSやメディアの恐さ
証拠が無いと証明できず。祭り上げられるのも信用を下げるのも一瞬で。それを取り戻すのにはえらく時間の要する事なのを他人事では解っているのに、便利さを優先してそんな世の中にしてしまってるんだなぁと改めて感じます。
息子を守ったラストの展開は救いのある話で良かった😄
絶望しないラヒムに救いがある気がした
主人公は浅墓で優柔不断で弱気な割に、妙なところで依怙地になったりする。そのくせ人並みに欲望はある。要するにラヒムはつまらない男なのである。しかも頭もよくない。このあたりがなんともリアルだ。身につまされる。
起きてしまったこと、やってしまったことは仕方がない。開き直っていればいい。世の中の悪人は皆そうしている。
しかしラヒムは生来の浅はかさと気の弱さが祟って、うまく立ち回れない。やがて小さな嘘をつく。そして嘘を糊塗するために新たな嘘をつく。嘘が雪だるま式に膨らんで、取り返しがつかなくなってから、驚いたことに名誉を取り戻したいという。
日本なら、こんなことになったら名誉も何もないだろうと誰もが思う場面だ。しかしイランではそうではないらしい。名誉という言葉の重みが日本とは異なるのだろう。そもそも日本では名誉という言葉を使う機会がほとんどない。イスラム教は詳しくないが、少なくとも、利益のためには人格も尊厳もかなぐり捨てて誰にでもへーコラする日本とは、精神性の面でかなり違うと思う。どちらがいいという訳ではない。
日本との違いで言えば、遺失物法がある日本では、私有地で拾った物はその場所の所有者に、公有地では警察に届ける。警察官が横領することは滅多になく、貴重品が落し主に戻る確率は高い。中国人にその話をしたら、中国では拾った人が貰うか、警官が貰うかのどちらかで、落し主に戻ることは絶対にないと言っていた。
本作品でも最初はどうして警察に届けないのだろうと訝ったが、イランでは遺失物法などが整備されておらず、警察に届けると中国と同じことになるのかもしれない。
ストーリーは、弱気になったり強気になったりするラヒムのせいで、やたらと右往左往する。面白くないことはないが、ラヒムに振り回されている感じで、あまり愉快ではない。終盤では、死刑囚の夫を助けたい女性と、お人好しで間抜けなラヒムとの対比が際立つ。ラヒムよりよほどうまく立ち回り、ラヒムの金貨をだまし取り、ラヒムがもらった寄付金までもらい受けたのだ。
イランはイスラム教の国だが、タリバンみたいに原理主義で女性を抑圧するシーンはほとんどない。ネット環境も発達していて、SNSも絡んで、日本と同じようにネットの問題があることもわかる。宗教とは無関係に、個人同士の丁々発止のやり取りが延々と続く。宗教では個人間の紛争は解決されないのだ。同監督の「セールスマン」と同様に、人間はかくも愚かで滑稽な存在だということを描いているのだが、主人公ラヒムは絶望することなく笑顔を浮かべる。そこに救いがある気がした。
ファルハディは子どもの使い方が上手いと、本作でも改めて感じた。それは、
元妻の兄の娘や、自身の吃音の息子、姉の子どもたちの何気なく小さな仕草やセリフで、観客をハッとさせるのだ。
吃音を持つ息子は、言いたい事があるにもかかわらず上手く口にだせないこと、 元妻の兄の娘(『別離』にも出演していた)が父親を守る様子、 姪っ子の最後のセリフなどに表れている。
正義感や責任感、多勢に流される大人の世界を、子どもは実にしっかりと奥深くまで見つめていることを、大人は肝に銘じなくてはいけないというメッセージでもあると感じる。
小さなウソや行動が大きな問題となり収集がつかなくなり好転しないことを、ネット社会の即時性とからめて警笛を鳴らしているのだろう。
オープニングの、工事現場の足場を一段一段登っていくも結局すぐに降りる羽目になるシーンは、本作の結末の暗示なのかもしれない。
虚しい証明
最初に感じていた、イラン社会との違和感は次第に消えて、世間にありがちな、SNSの無責任さが露呈していく。そして、何よりも、空回りしていくラヒムと心無い投稿に振り回されてしまう人々の愚かさに苛立ちを覚えてしまう。彼らは、目の前にいるラヒムよりも、誰が投稿したかもハッキリしないネットの書き込みの方を盲目的に信じてしまう。イラン社会もさることながら、SNS社会の不条理さは、深い虚しさを感じないではいられない。SNSは、人に便利さを供する代わりに、何かを喪失させてしまうのだろうか。ファルハディ監督作品は、苛立ちを覚えることも多いが、それを楽しむのもコツ。
金と嘘で築ける名誉
膨大な借金を返済せず投獄された男が婚約者の拾った金貨を持ち主に返したことで英雄扱いされるも、綻びが生じる話。
まず、債権者が訴えると債務者を投獄出来てしまう法律に???
帝愛じゃあるまいし、獄中からじゃ返せないだろうからあまり意味があるとは思えないけど。
家族に金貨の出所を詰められて、後ろめたさから返却したら英雄扱いされるところから、小さな偽りがという流れは、しっくり来ないところはあるものの理解出来るけれど…兎に角悪いことはみんな人のせい、自分を護る為なら嘘だって構わないという感じですかね。
そして名誉の為の決断は言わんとしていることは理解出来るけれど、この理屈だと金さえあれば殺人もOK?
感情論で言っても、被害者や遺族は救われないと思うが…そういうところに目を瞑れれば、現代の晒し上げ文化を揶揄したところもあり悪い話ではないのだろうけれど、文化も倫理感も法律も違い過ぎて腹に落ちて来なかった。
所変われば……
借金を返せず収監中の男が、拾った金貨を持ち主に返したことが美談として広まる。ところが、この行為を「詐欺だ」と糾弾するSNSへの投稿があり、男は一転窮地に立たされる……。
なかなかの秀作だったが、日本に住んでいると理解不能な部分も多々ある。なぜ警察に届けなかったのか? 刑務所に休暇制度があるの? 死刑囚でも金があれば減刑される?
イラン映画は割と観ているが、日常のちょっとしたことを巧みに映画に取り入れ、それがリアリティーにつながっていると思った。
観ていて辛い映画だ。善意の人が不運に振り回される。
デシーカの「自転車泥棒」を思い出させた。悪人ではない、どちらかと言えば、善人が不運に振り回され、また刑務所に入所する。
主人公は善意の人間であるが、周囲の小賢しい人間に振り回わさせれ、人生がどんどん悪い状況に陥っていく。これは普通に生きる人間には起きうることだ。主人公が自分であるかのように感じられ、身にせまってくる。私は観ていて辛かった。救いようがなくて、気持ちが落ち込む。つまり、良い映画の証明だ。主人公に吃音症の息子を設定したことが効いている。また、入所前に坊主頭にする。長期入所の覚悟か、宗教的な意味があるかもしれないと。
二面性を描く天才
嘘をついちゃいけないと思う良心や倫理観も、利益を独り占めしたいと思う欲深さも、両方持っているのが人間だ。
主人公を讃えていた周りの人達も、自分の立場がまずくなれば保身に走る。
この人は良い人、この人は悪い人、ではない。
誰にでも表と裏がある。そんな複雑な人間というものをどうやったらこんなに上手に描けるんだろう。
あんなに探していた金貨の持ち主は、最後まで分からなかった。でもそんなことは気にならないほど周りの人間が裏返っていく様が面白い。
吃音の子ども凄く良かったな。
なかなか鋭い突っ込みで、好意がペテン師に
英雄って、兎も角、自分の好意や善意に嫌疑を持たれることは良くあることだ。
本当にそれは善意なのか、好意なのか?
下心のある、受け狙い、モテ狙い、盛っているのではないか?
自分の受けた善意を気付かず、浮かれているのではないか?
良かれと思ってしたことは本当に良いことだったのか?
その裏は取れているのか?
証明はできるのか?
証拠はあるのか?
情けを掛けて、情報を操り、操られた結果、好意が善意でなくなり、下心の行為となっている。
更には、善行とは無関係な過去やその人のバックグランドや過去が炙り出され、その事ではなく、その人達までもか問われることに…。
本当の小さなダイレクトな親切を奉仕に留めたいと思った。
見事な良い作品だ。
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