「英雄にはなるもんじゃないですね」英雄の証明 正山小種さんの映画レビュー(感想・評価)
英雄にはなるもんじゃないですね
セールスマンのアスガル・ファルハーディー監督(Asgharのrを発音せずに、引く音にする、原音を無視した愚かな英語至上主義はそろそろ止めてほしいものです。また、別れた妻の兄のBahrāmはバーラムですか。勘弁してほしいです。まあ、世界共通語の英語様の発音なのだから、アメリカの敵であるイランでの発音通りになんて表記する必要などないということなのでしょう。悲しいことです)の最新作ということで、予告編を見てから楽しみにしていました。
借金を返せなかったために刑務所に入っていたラヒームが休暇で刑務所を出るところから物語は始まりますが、「借金で刑務所行き?」、「受刑者が休暇?」という感じで我々日本人には馴染みのない制度のために、物語の中に入り込むよりも先に頭が混乱してしまいます。
パンフレットでは、懲役刑とあたかもこれが刑罰であるかのように書いていますが、これは純粋な意味での刑罰ではなくて、あくまでも借金を支払わせるための圧力であり、手続きも、民事執行法的な経済的事案の判決の執行に関する法律にあるものですから、懲役刑という説明はどうかと思いました。もっとも、普通の市民感覚としては、あいつムショで臭い飯(ペルシア語風なら冷や水か?)食わされてるみたいだぜってことで刑罰と変わらない感覚でしょうが……。また、刑務所に入りたくなければ借金を返せという脅しは、ある程度までは効果があるでしょうが、実際に刑務所に入ってしまえば、結局借金も返せず、誰が得するんだか……。不思議な制度です。
休暇という用語についても、確かにmorakhkhasīの意味は休暇なのですが、これだけ聞くと刑務所で働いてるんでしたっけ?とやはり思ってしまいます。日本では、例えば受刑者の病気などを理由に刑の執行を停止する事ができると法律で定められていますが、イランでも同様に、と言うか刑事施設並びに保安及び矯正処分に関する規則の213条から229条にかけて、さらに広い範囲で刑の執行の停止を認めているので、日本語訳としては刑の執行停止の方が意味的には近いかもと思うのですが、物語的にはやはり休暇のほうがしっくり来るのでしょうか。悩ましいところです。
この刑務所から出てきた我らがラヒームが最初に向かうのが、姉の夫のホセインが働く、古都シーラーズのナクシェ・ロスタムの修復現場ということになります。アケメネス朝の王墓やサーサーン朝のレリーフがイランという国の歴史の長さと豊かさを雄弁に物語っています。そして、ホセインに会うために足場を上へ上へと最上部まで登ったかと思うと、また下へ下へと下っていくという、まさに彼のこの物語内でのジェットコースターのような運命を予兆してくれています。
ホセインとの会話の中で、債権者であるバハラームへの借金返済のメドが立ったような話し方をするラヒームに、心の中で「あんた、受刑中の身でどうやって返済のメドが立つんだよ?」と突っ込んでいると、シーンが変わって、ラヒームの愛しい人ファルホンデがチャードルを纏って登場し、拾ったバッグと在中物の金貨をラヒームに見せてくれます。なるほど、そういうことだったのね、と。
その後、様々な紆余曲折を経て、拾ったカバンと金貨を持ち主に返そうとするわけですが、我々日本人なら警察に届けたら済むものが、イランではそうではないようで、見ていて何だか迂遠に感じました。試みに、遺失物をキーワードにググってみると、例えば民法162条によると、1ディルハム(2.5グラムの重さの銀に相当)未満の拾得物は自分のものにしてもよいとなっていて、163条では、拾得物が1ディルハム以上の価値のとき、拾得者は1年間その旨を告知し~等と書かれており、ラヒームが様々な場所に張り紙をしていた理由が分かりました。なんとも面倒なことです。イランでは、何か落ちているのを見つけても拾わない方がいいかもと思いました。
このラヒームの善行により、金貨の持ち主が現れて、刑務所がそのことを知り、更にテレビでラヒームの善行が放送され、彼が英雄へと祭り上げられていくわけですが、日本人的感覚からすると、拾ったものは持ち主に返すのが当然のことでしょう、またお宅の国でも同様の法律があるじゃないの等と思ってしまいます。そういえば、チャリティー後の主催者等の集まりでも、バハラームも同様のことを言ってた気がします。返して当然の拾得物を持ち主に返しただけで英雄となるのに、娘の花嫁道具すら処分してまで協力してやった自分が悪徳債権者扱いなのか、と。娘のナーザニーンも怒って当然かもしれません。自分は花嫁道具まで売り飛ばされたのに、ラヒーム、お前はのほほんと誰かと結婚するつもりなのか!って。
その後、ラヒームのちょっとした複数の嘘が原因で、彼の運命がどんどんと下っていくわけですが、ラヒームを始め、刑務所の職員やチャリティーの主催者等、誰もが浅はかと言うか、自己中心的と言うか、それぞれ守りたいものがあるのは分かりますが、もうちょっと何とかできないものかと思ってしまい、誰にも感情移入できなくなってしまいました。プライドや面子ってそんなに大切なものなんでしょうかね? 挙句の果てにはラヒームはバハラームの店舗内でバハラームに襲い掛かり、店舗に閉じ込められてしまうという体たらく。この全面ガラス張りで、どこからでも中を覗き込める店舗に閉じ込められたラヒームは、まさにプライバシーもへったくれもない、ネットでのさらし者のメタファーといったところでしょうか。大衆によって英雄に祭り上げられた彼は、大衆によって今度は地面へと叩き付けられるわけです。
さて、英雄ということで、ファルハーディー監督の今回の作品について触れるときは、アーザーデ・マスィーフザーデという女性について触れない訳にはいかないと思います。
彼女は2014年頃から2015年頃に参加した映像制作のワークショップで、高価な落とし物を拾い、それを持ち主に返した人についてのドキュメンタリーを作るよう、ファルハーディー監督から課題を出され、他の参加者らと共に次のような作品を作ったと訴えています。
別れた妻への慰謝料が払えずにシーラーズの刑務所で受刑中だったモハンマドレザー・ショクリーが、刑務作業での壁の塗装に必要なペンキを買いに、刑務所から外に出たところ、この刑の執行停止中に大金の入ったカバンを発見し、その旨を書いた広告を銀行等に張り出した。間もなく、落とし主を名乗る人物から連絡があり、このザハラー・ヤアグービーという女性にカバンとお金を返したところ、彼は新聞やテレビで取材を受け、報道されることになる。しかし、アーザーデがそのザハラー・ヤアグービーを探しにシーラーズから離れた集落まで出かけてみるも、そのような女性はどこにも見つからないのであった。
All winners, all losersと題する彼女の映像を見て、どこかで見たような……等と思ってしまいますが、この騒動にはまだ続きがあり、ワークショップで作られた作品は、このネットにアップされた45分ほどの映像ではなく、29分ほどのモハンマドレザー・ショクリー氏に対するインタビューがメインの映像のようで、この45分のものは追加の映像等を加えて、英雄の証明に寄せた形で最近作られたものであるという話もあるようです。
イラン国内では、ファルハーディー監督と彼女の間での訴訟合戦があるようですが、このままファルハーディー監督が英雄のままでいられるのか、映画だけではなくて、現実における今後の成り行きにも注目してしまいます。ラヒームは、他人のものを盗んで自分のものにするわけにはいかないと言っていますが、アイデアの盗用があったのかどうか気になるろころがあります。ただ、ショクリー氏がお金を持ち主に返し、ニュースになったのは、アーザーデさんの創作ではなく、社会的な事実であるということや、ラヒームが再度刑務所に戻るまでのいきさつを含む物語全体に、ファルハーディー監督の解釈や創作がふんだんに盛り込まれているわけですから、権利関係的にも問題ないような気がしますし、作品自体、非常に見ごたえのある映画になっていたと思います。
最後に、役者さんに関してですが、テレビシリーズのPāytakht(capital)でコミカルなナギーを演じているモフセン・タナーバンデ氏はコメディアンというイメージが強かったのですが、今回はシリアスな演技をされていて、ますますファンになってしまいました。