「私は一体、何を見たのだろうか?」TITANE チタン 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
私は一体、何を見たのだろうか?
“怪作”とは正にこのこと!
スクリーンに映し出させる衝撃の数々に、最後まで目が釘付けだった。そういう意味では、圧巻の一作であると言える。
しかし、あまりにも常軌を逸した一作である為、一般的な観客とシネフィルとでは賛否が極端に分かれるだろう(実際、エンドロールと同時にまるで早くこの空間から立ち去りたいかの如く、そそくさと席を立つ観客がチラホラ居たし、上映後言葉を失い無言で俯いて劇場を後にする人も居た)。
正直、私にもキャパオーバーな作品だった。
観終わった後も、作中に登場する様々な要素は、一体何についてのメタファーなのかと思考を巡らし続け、自分には合わなかった作品であるにも関わらず、少しでもこの作品を理解したい一心でパンフレットも購入してしまった。見方によれば、もしかしたら私は非常に幸福な映画体験をしたのかもしれない。
先ず、タイトルの『TITANE』とは、神話に登場する巨神タイタンの事なのかと考えた(事実、パンフレットの解説でも筆者が同様の考察を披露している)。何故なら、主人公アレクシアの頭に埋め込まれたチタンプレートに、“設定”以上の特別な意味を、鑑賞中見出せなかったからだ。
だから、頭に埋め込まれたチタンプレートによって、彼女は鉄と自動車に異常な執着心を示すように変貌するが、この様子が彼女が人間を超越した所謂“神”と呼ばれる存在へと昇華した事を指しているのかと考えることにしたのだ。鑑賞し終えた今、改めて考えを整理してみると、この推察は強ち間違いでは無かったのかもしれないと思う。
こういった具合に、作中で描かれた出来事についてパンフレットで示されたヒントを頼りに、順を追って考察していこうと思う。
序盤、炎が描かれたキャデラックとアレクシアが交わるシーン。鑑賞後もずっと、「車は男性を象徴しており、アレクシアはレイプされたという比喩なのではないか?直前に殺害したストーカー紛いの男性に、実際はあの後レイプされていて、その後の妊娠は彼が原因なのではないか?」と勘繰った。だが、パンフレットを読んだことで、あれは作中で実際に起こった出来事なのだと知り驚いた。そして、自分が如何に自らの常識の範疇にこの作品を収めようと必死だったのかを痛感させられもした。
もう一度言うが、この作品は常軌を逸している。“普通”や“リアリティ”なんて価値観は、この作品の前では悉く瓦解するのだ。
イベントで知り合ったダンサーのシェアハウスでの一連の殺戮シーンは、引き金となったのがセックスであることから「彼女は他者から求められる事に対して酷い嫌悪感を抱いており、その怒りの発露が殺人なのか?」と考えた。イベントでサインを求められた際も、ストーカー紛いのファンに言い寄られた際も、彼女からは気怠げな印象を受けた。“アンタ達が私を求めても、私はそれに答えるつもりはない。”という拒絶の意志の現れが、すなわち殺人なのだと思った。
実際、彼女は愛を知らない孤独な女性なのだろう。冒頭の自動車事故直前の車内での父親とのやり取りからも、親子間のコミュニケーション不全を疑った。
自宅のガレージにて殺戮の証拠を隠滅する為に火をつけた際、偶然家ごと燃えることを確信した彼女は、両親の寝室の鍵を閉めて彼らも葬り去る。指名手配され、空港で失踪者になりすます事を画策し、自らの顔を作り変えるシーンは実に痛々しい。あれだけの大虐殺を繰り広げておきながら、捕まることに対する恐怖心はあるというのが人間の身勝手なエゴを感じさせる。
見事、失踪した息子になりすます事に成功し、消防士のヴィンセントに保護されるアレクシア。しかし、喜びも束の間、彼女の身体は妊娠という確実な変容を遂げつつあり、それをひた隠して生活しなければならない。映像を見るだけでは、殺人者が逃亡の為に正体を隠すことに必死な哀れな姿にしか映らない。だが、アレクシアが女性である事を隠さなければならない姿は、現実で女性が女性としての役割を押し付けられる事に対する抵抗の姿勢にも映る。
後日、ヴィンセントに連れられ新米消防隊員として現場に入ることになるアレクシア。隊長とはいえ、一個人の決定で消防隊員という過酷な職業にアッサリと就けてしまう事は疑問だが、常識は通じないのだと無理矢理言い聞かせて進めることにする(笑)
案の定、部下達の中にはアレクシアの存在に疑問を抱く者も居る。しかし、部下からの進言に、ヴィンセントは頑なに耳を貸そうとしない。後述するが、ヴィンセントは既にアレクシアが息子ではないと気付いていたのではないか?そう感じずにはいられない。
部下から疑いの目を向けられつつも、アレクシアは次第にヴィンセントとの親子関係や消防隊員としての業務に溶け込んでいく。しかし、そうしている中でも、彼女の子宮では確実に新しい命が育ち続けている。乳房から腹部に空いた穴から、シャワーの際に足下を流れる水に至るまで、彼女の身体から黒い油が流れ出るシーンはどれも印象的。本来ならそこには夥しい量の血液が流れるはずだが、真っ黒な油がそれに代わるというのは、生々しさやグロテスクさ、痛々しさを感じさせず、上手い手法だと思ったしアートだと感じた。
そうした日々を過ごす中で、遂にヴィンセントは、浴室でアレクシアの膨れ上がった腹部と女性の乳房を目にしてしまう。しかし、彼は「お前が何者であろうとも、俺の息子だ」と、それすらも受け入れ、彼女を受け止める。“無償の愛”と言えば聞こえがいいかもしれないが、私はそこに堪らない“人間の弱さ”を感じずにはいられなかった。これについてはまた別に後述する。
余談だが、偶然にも前日に鑑賞した『ベルファスト』のとある台詞が頭をよぎる。
“愛の奥底には、憐憫がある”
消防隊員達と音楽に合わせてモッシュピットに参加するアレクシア。波から弾き出され、消防車の上でかつての自分のように官能的なダンスを披露するが、不思議と以前イベント会場で踊っていた時より、生き生きとした印象を受ける。こちら側にこれまでのヴィンセントとの日々の積み重ねの記憶があるからだろうか。
呆気に取られる消防隊員達の前にヴィンセントもやって来て、遂に彼はあれだけ否定し続けたアレクシアの正体、女性であることを受け入れずにはいられなくなる。
堪らず自宅にて焼身自殺を図りそうになるが、間一髪の所で正気を取り戻す。
そんな中、アレクシアは遂に出産の時を迎え、苦しみながらヴィンセントの居る自宅へと這い戻る。ベッドに横たわる彼に向けて放たれた「愛してる」の一言に、男女の色恋ではなく純粋な相手への感謝と好意のみが感じられる。慌ててその場から立ち去ろうとするヴィンセントに、アレクシアは「見捨てないで」と縋り付く。彼女の様子を見て事態を理解した彼は、出産の手助けをし、背骨が鉄で出来た特異な赤子を取り出す。出産により息を引き取るアレクシアと、再び取り残されたヴィンセント。愛を知らず孤独だった女性と、愛する相手を失い愛する相手を求めた孤独な男性の奇妙な共同生活は、こうして幕を閉じる。しかし、彼の元には生まれたばかりの新しい命がある。ラスト、赤子を優しく抱き抱えながらヴィンセントが溢す「俺がついてる」という一言は、新たな物語の幕開けなのだ。どうか彼が救われていてほしいと願うばかりの締めだった。
全編通して、アレクシア役のアガト・ルセルの体当たりな熱演が光る。官能的なダンスシーンからヌード、殺人の狂気、逃亡中の泳ぐ視線、ヴィンセントとの奇妙な親子生活の中で次第に心開いていく過程と、これが映画初主演とはとても思えない。彼女の熱演があったからこそ、私は最後までスクリーンに釘付けにされたのだろう。
ヴィンセント役のヴァンサン・ランドンの、アレクシアを息子だと信じたいが故の話の通じない何処か狂気じみた印象を与える演技も印象的だ。
警察署の面通しで初めてアレクシアを見た瞬間、実は目の前に居る人物が息子ではないと気付いていたのではないか?と今でも思ってしまう。DNA鑑定を拒否し、「一目見れば分かる」と言い放つその姿に、早く長きに渡る孤独を終わらせたいという意志を感じた。それは、目の前に居る相手が誰であれ、信じたいものを盲目的に信じ安心しようとする、人間の弱さの発露に他ならないと感じられたからだ。実際は、共同生活の中で次第に違和感に気付きつつも、頑なにそれを受け入れようとしなかっただけなのかもしれない。しかし、私には彼がアレクシアという特異な存在を一目見た瞬間、一種の神に縋り付いたかのようにも思えた。
作中、彼は消防隊員たちに「私が神だ。ならば息子はイエス・キリストだ。」と語る。しかし、実際には彼こそが、神に縋りつく信者に他ならないのではないか。
ラストでアレクシアの子供を抱き抱えた瞬間の彼の姿は、優しき偉大なる父としての神というより、新しい命の誕生によって再び生きる目的を取り戻し救われたようにも見えた。
だからこそ、私はこの作品に温もりというものをあまり感じられなかった。監督曰く、これは「愛の誕生」の物語なのだそうだが、少なくとも私には、この作品からは「人は信じたいものを信じ、何かに縋り付かなければ生きていけない弱い生き物だ」というチタンプレートの如く冷たい鉄のような情感を感じた。アレクシアとヴィンセントの擬似親子関係は、互いに欠落した何かを求め、埋め合わせ続ける“依存”のように映ったのだ。
これだけの文章を書いたが、最初に書いたように、私にはキャパオーバーな作品なのは間違いない。今作を決して「面白い」だとか「素晴らしい」だとか言う言葉で形容するつもりは無いし、気軽に人には薦められない。作品としての点数も低めだ。しかし、鑑賞し終わった後もこれだけ思考を巡らせ、作品の本質について手を伸ばさずにはいられないということは、貴重な映画体験をした事には違いない。
何より、監督の次回作に対する興味関心の気持ちが芽生えている自分が居る。悔しいが、この監督を追わずにはいられそうにない。