「1つのシーンがすべてを変える」わたしは最悪。 しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
1つのシーンがすべてを変える
主人公ユリヤはアラサー女子。
彼女は、映画の冒頭では外科医を目指す医大生だったが、「身体より心に興味がある」と言って、医学部をやめて心理学を学び始める。
もちろん、医学部に入る困難さは承知の上で。
ところが、ほどなくカメラを学びたいと言い出して心理学もやめてしまう。
その頃、ユリヤはマンガを描いている恋人アクセルと出会い、同棲を始める。年上のアクセルは子どもを持つことを願うが、ユリヤにその気はない。
あるときユリヤは偶然出会った若いアイヴィンに惹かれる。そして彼女はアクセルと別れ、今度はアイヴィンと暮らし始める。
本作はプロローグと12の章、そしてエピローグからなる。
終盤の第11章、ユリヤは、アクセルがガンに冒されていることを偶然知り、病院に見舞いに行く。
邦題「わたしは最悪。」は英題「The Worst Person in the World」(世界で最悪の人間)の、ほぼ直訳である。
ここまで見る限り、ユリヤは自分で選んだのに簡単に心変わりして、フラフラと生きているように見える。
でも、本人は絶対に自ら「わたしは最悪。」なんてことは言わないだろう。もちろん、「世界で最悪の人間」という自覚もない。
では、このタイトルの意味は、どう理解すべきか?
アクセルの見舞いに行ったとき、ユリヤは妊娠していた。だが、彼女には産む覚悟もなく、アイヴィンも、そのことを望んでいない。
そしてアクセルには死期が迫っている。皮肉なことにアクセルは、ユリヤとの子どもを持つことを望み、彼女と一緒に人生を歩みたいと思っていたのに。
病室でアクセルはユリヤに「君は最高だった」と言う。
病院の食堂のような部屋でテーブルに座り、2人は話している。ユリヤがアクセルに手を伸ばす。
そのときカメラのアングルが変わり、天井から見下ろすショットになった。こんなショットは、本作では、ここしか出てこない。
ユリヤとアクセルを俯瞰するカメラ。
このショットは、初めてユリヤが自分を(見下ろすように)客観視した、ということを表しているのではないか。
自分のお腹に宿った新しい命。
そして死にゆく元恋人。
命に関わる事態に直面して、このとき初めて彼女は悟ったのだ。
「わたしは最悪。」だ、と。
このとき、ようやくユリヤは自分自身を振り返った。
「君は最高だ」と言ってくれたアクセルに、ユリヤは応えない。
が、このとき心の中で呟いたであろうセリフがタイトルになっているのではないか。
例えば、アクセルと暮らしながら、ユリヤがアイヴィンのもとに走ったシーンでは、ユリヤとアイヴィン以外はすべてが静止していた。
それほど周りが見えておらず、それほど身勝手だった、ということだろう。
アイヴィンに出逢った日、同棲する恋人がいながら一緒にトイレに入り、「これは浮気じゃない」と言うのも同様だ。
終盤には、もう1つ気になる演出がある。
ユリヤの心情を説明するナレーションが入り、ユリヤが、その心情を表すセリフを言う場面がある。
ということは、この映画の中の時間はリアルタイムで流れているわけではない、ということだろう。
未来のどこかの時点から、過去を振り返って描いているのだ。
エピローグ、ユリヤは写真家の仕事をしている。
第12章とエピローグのあいだでユリヤはものすごく変わったはずだ。
第12章で初めて自分自身を振り返り、自分を見つめ、自分がほんとうに目指したいものは何かを本気で考えたはずだ。そしてユリヤは写真家になっていた。
だから、エピローグでのユリヤは、それまでの彼女とは全然違うということが分かる。
そして本作は、時系列としてはエピローグからの視点で作られているのではないか?
そのとき、映画としては、第12章とエピローグのあいだのユリヤを描くという選択肢もあったはずだ。
この間、ユリヤはアクセルの死に向き合い、そして真剣に悩み、やがて写真家こそが自分の生きる道だということを見い出した。そしてアイヴィンとは別れた。
だが、本作はそこを描くことは選択しなかった。
第11章までの“最悪”の期間を丁寧に描くことで、第12章のターニングポイントと、エピローグでの変化を鮮やかに際立たせて見せたのだ。
なかなかに巧緻な構成に唸る。
では、この「仕掛け」を用いて本作が訴えたかったメッセージは何か。
第10章までのユリヤはモラトリアムだったと言っていいだろう。でも、本作は第10章までの彼女を決してネガティブには描いておらず、むしろ肯定しているようにも見える。
自分で「わたしは最悪」とまで言っているにも関わらず、だ。
エピローグのユリヤは写真家を職業としているが、ここまでにくるには相当な苦労があったはずである。
(思えばアクセルと付き合う直前までは、彼女は写真を学んでいた。だが、アクセルと付き合っている間に写真からは離れたようだ。アクセルと参加したパーティで彼女は何をしているかを訊かれ、ためらいながら「本屋でバイト」と答えている。おそらく、せっかく始めた写真をやめてしまったことへの罪悪感からだろう。そしてユリヤは、死を間近にしたアクセルを撮影することで写真を再開する。ここまで彼女が写真を撮っているシーンはなかった)
他人は、「どうせ写真家を目指すのなら、もっと早く、その道を選べばよかったのに」とか言いがちだ。
でも、人は神様じゃないんだから、未来のことなんか分からない。だから、いつも人は迷いながら生きる。判断ミスをしたり、他人に流されたりして、選択を失敗することだってある(アクセルと別れ話をしているとき、彼女は雰囲気に流され彼とセックスしてしまうが、終盤の病院では、求めるアクセルの手を払いのけている。こうした対比も上手い)。
でも彼女はいつだって自分が信じる道を選んできた。彼女にとって選択してきたことは、すべてが、そのときどきで「必要なこと」だと言えるのだ。
だから彼女は、ラスト近く、偶然目撃したアイヴィンが結婚していて、子どもがいたとしても温かい眼差しで、その光景を見ることが出来る。
ラストでは、彼女は好きな写真を仕事にして生きている。だが、本作は、そこに至るプロセスは描かず、一見、遠回りしたようにも見える道筋を描く。
ということは、本作のメッセージは遠回りの肯定だろう。いや、人生に遠回りなんてない、とまでユリヤは言っているかも知れない。わたしを見て、そもそも、最短距離を行くなんてムリなんだから、と。
人生に失敗は付きもので、僕たちはとかく悔やんだり、悲しんだりしがちである。
でもユリヤは、そんな僕たちのことをどこまでも肯定し、背中を押してくれるようだ。