ベネデッタのレビュー・感想・評価
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今やる必要が
こうやって見ると聖書に書かれているようなこともかなり嘘臭くて、それでも自分でそれが真実だと信じているかのようなベネデッタからは、キリスト教もやっぱりカルト宗教だったんだな、とは思わせられる。
じんわりとしかし容赦なく女性を追い詰め、有無を言わせず裁くところなども、統一教会に浸食された自民党やそのものズバリのキリスト教原理主義のやり口そっくり。
そういう意味でバーホーベンらしい意地悪さでキリスト教というものの胡散臭さを描いている。今やる必要があったのだろうな。流石といえば流石の判断。
みんな大好きヴァーホーベン♥
全編ヴァーホーベンだった!!
齢八十を超えてもセックス、バイオレンスを描くヴァーホーベン
ベネデッタ役の彼女もいいのだが(この女優さん40過ぎてるのねワカイ!)、バルトロメア役の彼女が登場から最高!!
(とにかく自分の欲望に正直、カワイー♥)
連れションならぬ連れ〇〇シーン、よかったね〜(変態発言)
ヴァーホーベン監督は死ぬまで撮ってほしい!
宗教なんて
同じ信仰をもつものを集団化し組織化しただけの存在でしかなく。特別なものでもなんでもない。
むしろ、人類の歴史において巨大化していった宗教なんてなおのこと。全てがすべからく新興宗教だと言っても良い。と僕は思っている。
そんな宗教組織の中でも人類史中最も新興と言えそうな。イエズス起源のキリスト教が、内部崩壊しつつある兆候を感じた映画だった。
恐らく、ベネデッタそのものの事実は修道女にいながらレズビアンで随分阿婆擦れていたため隔離に及んで処罰された方。と言うのが大方の筋で、本作で描かれた筋は大半がポールバーフォーベンの創作だろうが、表現として発表できた時点で内部崩壊暗示ものだと言う理解である。
昨年秋に観たlambしかり、往々にして新興ゆえの離脱者発生は傍観者として見ていて面白い◎
人間、信仰は持てば良いしもつものも自由だが、集団化組織化は必要のない話。それが本作の問題提起w
最後に、いちいち冒涜を叫ぶ時のあの声がホラーで最高のコメディだったよ(^^)
奇跡と狂言
奇蹟を起こすと言われる修道女のベネデッタと若き女性バルトロメアの秘密の関係と、彼女を取りまく修道院と教会の複雑な物語を描いた作品。
初っ端から悪党と小鳥のフンの展開で、只者じゃない雰囲気を漂わす少女のベネデッタ。大人になり、ついにはキリストと会話したと言い出す彼女の体には、聖痕と呼ばれる傷跡が発生し、彼女に対する畏敬や疑念が渦巻く物語が始まっていく。
なかなか難しい作品ですね。ワタクシ自身は信仰とかは無いのですが、序盤はすっかりベネデッタの話は全て本当のように感じたが・・・バルトロメアとのやり取りから、徐々にその心の内に疑いを持ち始め・・・。
勿論、純粋な信仰心などを持つ人達も描かれる一方で、やはりここでも影響力が強いのは「権力」なのか。クリスティーナと、彼女を守り切れない元院長の所とかモロにね。そして、それすらも利用する強かさよ…。
果てして、聖女とされるベネデッタの事を本当に信じた人はどれだけいたのか?民衆はともかく、お偉方たちの中には果たして一人でもいたのかな?そして何より、本当に信仰心を持っていた者は・・・?
ワタクシには感想を文字起こしするのは中々できませんな。ただ、信仰と権力と・・・はこの時代でもなかなか切れないものなのか。そのあたりをリアルに、生々しく描かれていて非常に見応えがあった。ラストに向けての流れはまさに圧巻でしたね。
ちょっと長すぎるなぁ~というのと、ワタクシに何かしらの信仰心があればより高評価、あるいは低評価だったのか、とか考えちゃったり、ちょっと過激な描写がしつこかったかな~という印象でこの評価だが、それでも終始引き込まれたし、☆4.5にも最も迫ったとも言える、なかなかの傑作だった。
信じる者は救われる
マリア像から削り出した衝撃の道具は出てくるものの、期待していたよりは毒気が少なく、「信仰」をテーマにした「まっとう」な映画に思えてしまった。
ベネデッタの聖痕は、間違いなく自作自演なのだろうが、そのことを、権力を手に入れるためのペテンではなく、神から啓示を受けた結果として描いているところが、まず、興味深い。
彼女は、上昇志向の強い詐欺師ではなく、思い込みの激しい狂信者なのである。
それ故に、すべての出来事を「神様の思し召し」として受け入れる強さを持っているのだろうし、愛や自由よりも神を選ぶラストにも納得することができるのである。
同性愛を糾弾する審判の場では、なぜか、彼女を尋問する場面がなかったが、仮に彼女に証言の機会が与えられていたならば、真実を洗いざらい打ち明けていたのではないだろうか?実際、審判の直前に、そのようなことを言っていたし、そうしていれば、バルトロメアが拷問を受けることもなかったかもしれない。
その一方で、彼女を糾弾するために教皇大使を連れてきた前修道院長が、ベネデッタの処刑の場で心変わりをした理由が、今一つよく分からない。
自分が町にペストを持ち込んだことに罪悪感を覚えたからなのか、ベネデッタの存在によって神を信じる心を取り戻したからなのか。
いずれにしても、最期の瞬間、彼女の魂は救われたのだろうが・・・
これは本年最高のアクション映画だ。
幼いベネデッタを父母が修道院へと送る途上に襲い掛かる野盗連中が、
ベネデッタの見せた奇跡の片鱗に何を納得したのかあっさり引き揚げてしまうというファーストシークエンスは、本作が並みの新作から隔絶した位置にあることを早くも予感させる。
この嘘のような呆気なさ。
本作はまさしく、本年最高のアクション映画であるのだ。
それは、17世紀フランスのルネサンス式教会の中で、修道女たちを前にした司教を被写体として、フォード張りの“同軸上のアクションつなぎ”が用いられているだとか、
或いは、ベネデッタが院長となり、その広い院長室にて初めて肉体を交わす機会を得た時にバルトロメアが見せる、前院長を外に締め出し、鍵をかけてからベッド脇のベネデッタに飛びかかるまでの驚異的な素早さだとかいった露骨なアクションを見るまでもなく、
バルトロメアが初めて修道院で過ごす夜、薄いレースの仕切りの向こうで身体を洗う彼女へ向かって、その仕切り越しにベネデッタが石鹸を投げ渡す仕草が1カットの中に収められているのを目撃するだけで確証できてしまうことなのだ。
アクション映画を撮ることしか考えていないヴァーホーヴェンにとって、
ベネデッタが神の啓示を受けた聖人なのか、或いは恐るべき知力と演技力を兼ね備えた策略家なのかなどという問いは心底どうでもいいらしく、
教皇大使を出し抜き刑罰から逃げおおせるクライマックスで、ベネデッタの振舞いを作中唯一明らかな作為によるものとして描いて説話を持続させつつ、
その後のベネデッタとバルトロメアの別れのシーンでは、設定の一貫性への考慮など一切なく、「そう決まっているから」とでもいうようなぶっきらぼうさで二人を離別させてしまうその姿勢は、
やはりアクション映画の素振りでしかあり得ない荒唐無稽な単純さを志向している。
であるから、二人が騒然とした広場から脱出する瞬間、画面の左から右へ向かって駆ける二人をフォローパンした別々のショットが3つ、パパパッといささか足早につなげられるのをみて無償の感動を覚えない人は、よもやいまいと思う。
そういえば、いまひとつの本年最高のアクション映画たるロウ・イエ「シャドウプレイ」にも共通する、説話的必然をいささか欠いた過剰さとして現れる“燃え上がる女”というモチーフは、
映画史に敏感な監督であれば身に着けておくべき時空を超えた映画的主題とでもいえるのだろうか。
剥き出し
感情も何もかもが映像として剥き出しになっているところがこの映画は凄いなと感じます。
凝った映画を撮る監督やテクニカルな映画を撮る監督、心情表現が上手い監督は結構いますが、凄いなぁ〜これって思わせる監督は個人的にはラース・フォン・トリアーと彼ぐらい。
毒キノコ
17世紀に実在した同性愛に目覚めて糾弾された実在の修道女ベネデッタ・カルリーニを題材にした話。
幼い頃テアティノ修道院の修道女になるところから始まって行くけれど、修道院も院長も何ともまあ生臭い。
そして18年後、父親に殺されると修道院に逃げ込んで来た少女バルトロメアを、ベネデッタと居合わせた両親の口添えで修道院に招き入れたことで動き始めて行くけれど…。
聖なる幻視に聖痕に、タイミングの良すぎる冠に、17世紀だから、とも思ったけれど、現代においてもオカルトを本気で信じる人もいるし、そもそも前例で挙げられた人達だって…ねぇ。
それに声の変化は頻発すると悪魔にもみえるw
自分は信仰心はないし、ベネデッタも知らないし、ましてやキリスト教の何たるかも良くわからないけれど、敬虔な方がこれを観賞したらどうなんでしょう。
色々な方面に配慮している感じはあるものの、ベネデッタだけでなく修道院長に出席司祭に教皇大使にと、兎に角権力のある人がことごとく生臭くて、まあそういうものだよね…と思わせるところまで画かれていてなかなか面白かった。
ただ、ラストのその後の説明のテロップを読んで、何だか急に冷めた。大したこと書かれていないんだけどなんでだろ。
ビジョンは、 神からではなく、 個人的なエゴによる幻想の肯定。
信仰の巨大さと奇跡は、
信者個人の自己愛への没入度と全信者信仰心の総和より幻視されるようだ。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
信者の中では、
多くのことは同胞愛として愛も嘘も方便として赦され、
信じる者だけが救われ、
そして教会が信者から儲けるのだろう。
そこには信者限定の法皇世界が広がっているのだろう。
信仰心が希薄な俺良には分からない。
でも、前修道院長が救われたのは花道だね。
信じないことだって、神の御業かもしれません
存在しないということが証明できない、されていないという意味では、神様も、幽霊や宇宙人やUFOと一緒です。
信心深い方であっても、人間の心のあり方を律する存在としての神、哲学的な対象としての神、奇蹟や罰のような現世に物理的な作用を及ぼすことのできる神、というように捉え方はさまざまだと思います。
信じる人にとって、神は存在します。
どんな形態であろうと、その人にとって神は存在しているのですから、その呼びかける言葉が聞こえること、姿が見えることに違和感はありません。
聖痕もまた、神様が命じたのなら、自分で傷つけたのだとしても、神の御業なのだと思います。
キリストの女
キリストの幻影、幻視から奇跡のように聖痕やら自作自演と疑わしくも、神と崇められる存在に全てが自らの茶番にはならず、同性愛として肉体で感じる性の悦びを、ペストの流行を今更ながら現代のコロナと引き合いに出す必要性は蛇足かと、これ位の時代設定が苦手ながらポール・バーホーベンの新作だからこそ、キリストを神と慕いながら生きる運命は様々な欲を誤魔化しながら、無神論者としては生きづらい、皆が人間は愚かで汚い、愛を貫くためか、神なのか、もう少し難解に描ける要素がありながらも単純に思える物語展開にセンセーショナルな題材が霞んでしまう。
お下品なトイレの場面はジュリアン・ムーアの『マップ・トゥ・ザ・スターズ』には敵わない、Byデヴィッド・クローネンバーグ!!
性なる自由✕信仰
私は見ました!キリストを見ました。"家政婦は見た"ならぬ修道女は見た。排泄からの痛み、そして昇天。痛みを感じることは罰ではなく、それは即ち神に近づくこと。神を身近に感じる、いや、目撃する。目の前に危険が迫ると、人は藁にもすがる思いで怪しいものでも信じてしまう…?そして、それは何もベネデッタに踊らされる周囲の人々だけでなく、何よりベネデッタ自身の女性に惹かれる後ろめたさから来るもの。足枷のように信仰心が後ろ髪を引く、どころか顕著に体を傷つける。
『グレート・ウォリアーズ/欲望の剣』を彷彿とさせた。少女時代のファーストシーンから主人公ベネデッタが、その信仰心故に、周囲/人の心を操ることに長けていることが描かれる"信頼できない語り手"のような二面性と力強さ。断食少女のようでもあり魔女のようでもあった。あなたの信仰心が試される、実話から着想を得たらしいキリスト教を揺さぶるスキャンダラスな歴史ドラマはなんともヴァーホーヴェンらしかった。女性性を感じさせながら、決して男どもの踏み台や単なる犠牲者になることなく、逞しく生きる。本人にとって都合悪いときですら、都合よく転がしてみせる。だから主人公がシャーリズ・セロン姐さんに見えてきそうなくらいだった。
神に仕える身でありながら、女性同士の許されざる関係。それも時代を考えると尚の事だろう。それを端的に象徴するような聖母像から衝撃の小道具(!)も出てくる。途中までシャーロット・ランプリング含むメインどころ3人がクワイガン、オビワン、アナキンに見えたけど、途中から「いや、アナキンとパルパティーン?」ともなったし、けど結局のところそれらとはまた違うような関係性がなんともエロチックかつスリリングに見る者を煙に巻き、当惑させるようだった。痛みがセックスの代替としてメタファーのように機能していて、例えば、考え過ぎかもしれないが、ベネデッタの傷が虫眼鏡でアップになっているところなど少し性的であったかもしれない。そして、本作の製作年の早さを考えると違うかもしれないが、ペストはコロナとも重なるやも…。
勝手に関連作品『グレート・ウォリアーズ欲望の剣』『セイントモード狂信』『クルーシブル』『聖なる証』
刺激的でなかなか狡猾です
人間が狡猾に生きていこうとしている姿が色々と見ることができて、なかなか興味深かったです。ことごとくうまくいっていないことばかりだったのですが、その描き方含め狡猾だったかと─。
見ようによってはひょっとしたらという表現にも見えたので、やっぱ巧みだなーと─。
思ったよりも重さがなく、さらりと楽しむことができましたが、それで果たしていいものかどうか微妙なところだと思うのですが・・・
キリストの代わり、男の代わり。
2021年。ポール・バーホーベン監督。フランス田舎町の修道院で暮らす若い女性はキリストに直接語り掛けられるビジョンを見る。ビジョンは次第にエスカレートしていき、実際に聖痕から血を流すまでに。「奇蹟」として持ち上げられ、修道院長にまでなるが、かつてからの同性愛行為や奇蹟の偽造を疑われ、という話。
同性愛については明確に描かれるが、奇蹟については真偽があやしい「謎」として描かれる。たしかに、幼いころから思い込みが激しかったり珍しいことが起きたり現実を「解釈」した夢を見たりしているわけなので、極度にナイーブで影響を受けやすい若い女性でもあり、また、野望を抱いた策略家でもあるのだろうが、どちらともいえない「謎」であることが重要。神がかった「謎」の主人公の周りに、現世的で自意識過剰な男たち女たちが配置されている。
「謎」であるから、どんなことでも「神の思し召し」として受けとめ、立ち向かってしまう。頻繁に裸を披露しているが、たくましく頼りがいのある肉体だ。男など必要としないはずだ。キリスト以外は。そんな主人公が求めるキリストの代わり、男の代わりが何なのかというと、、、。
なんともあけすけで品があるとは言えない映画だが、修道院という閉じ込められた場所で生きるとはこういうこと(信じるものをもつこと)なのかもしれない。
【2/19追記あり】なかなかレビューは難しいけど…。
今年53本目(合計705本目/今月(2023年2月度)19本目)。
一応、映倫の指定としてはR18で、実際に見ると、「女性同士の行為」などの描写がいくつかみられます(ほか、拷問シーンなど)。ただ、モザイクがかかっていたわけではないですし、教会というのは女性が多く住むところで「性の偏り」がやはり出るところなので、どうしてもこうした「一般的な恋愛」ではない「恋愛」が進みがちな部分はあるのでしょう(性質上そう「なりがち」というだけであり、「だから教会はおかしい」とかということは述べていません)。
この映画、実はいつが舞台なのかの明示的な説明がなく、最初にペストが何だのという話が出てくるので、一見して百年戦争のころ?と思わせるところがありますが、実際にはそれよりも遅い事件であったようです(このころのキリスト教文化や教会は、映画で描かれているように、絶対的な存在でもあった)。
他の方も書かれていた通り、このペストの部分は今のコロナ事情の比喩(メタファー)なのかな、という気がします。
今では彗星などはいつやってくるのか等すぐわかりますから、それを先に計算することはできますが、当時はできませんでした。したがって、そうした自然現象でさえキリスト教文化と結び付けられるようになったのです。このような「不思議な現象」をキリスト教文化と結び付けるのは簡単でも、異を唱えるほう(そのこじつけ、間違っていませんか?というもの)は、その「立証責任」をおうものの、当時の科学技術ではそれはどだい無理なものであり、結局、「何でもかんでも不思議なことがおきたらイエス様の奇跡、だから教会を信じなさい、信仰しなさい」というようになっていったわけですね。
映画自体はR18ですが、一部に明確に「女性同士の行為を想定できるシーンがもろに登場する」というものですが、その点ではR15にやや近いかな、という気はします(モザイクシーンやら、見てられないレベルの破廉恥なシーンは一切出てこない)。
このため、「彼女・彼氏をつれて2人で見に行く」場合、「一般論としては」凍ってしまうという回答になるところ、「彼女・彼氏のどちらかがカトリック(プロテスタント)」といったように「事情がわかっている場合には」推せるかな、といったところです(ただ、このR18の映画を「積極的に」すすめるのもむつかしい)。
ずっと教会と町のシーンばかりで「展開がマンネリ化する」という点は少し気になりましたが、「ペストが流行るから」という理由があったのは確かで、逆にこのことはペストの研究が進むまでは恐れられてきた病気なのです。そうであれば、そうした「舞台の少なさから出てくる展開のマンネリ化」は仕方がないものだと思いますので、減点なしにしています。
ただ、「条件つきで」R18といってもカップルで見に行くのもありですが(「条件付きで」という点に注意)、普通のカップルが行くと凍り付くことになりますので注意しましょう。
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<<ここから2/19追記>>
【この映画はどのような背景で作られたのか?】
・ このようなタイプの映画を「ナンスプロイテーション(Nunsploitation)映画」といいます。nun(修道女)とexploitation(搾取する)から作られた合成語で、もとは「エクスプロイト映画」というものの派生です(1950年以降、特にアメリカ等で、今でいうB級やC級以下の映画で、とにかく低予算ではありながら客を呼ぶためにあえて「タブー」とされる分野(当時は黒人問題や薬物問題、ナチス関係ほか)を扱い、とにかく「内容も支離滅裂なら何を言いたいかはわかるがあまりにバカバカしい」という類の映画です。その「修道女版」ということになります。
※ exploitation(利用・搾取)は、動詞 exploit (利用する)の名詞形ですが、単に「利用する」という意味より「悪意をもって搾取する」という意味合いが強いです。
ただ、こちらの派生したほうの分野は、カトリックなりプロテスタントなりの教会があった、今もあるという事実をもとにしていること、また、歴史的に「ある程度」調べられている映画もある(例えば、「肉体の悪魔」などの作品は、表現も確かに厳しいが、史実にもかなり配慮されて作られて高評価だと言われる)のも確かです。本作品が「概ね主要な点において」史実として描かれているように、この「教会における女性同士の同性愛」は描かれることがタブー視されていたのですが、もっぱらヨーロッパで発達したこのサブジャンルに関しては「歴史的な検証ができる状態ではあった」「近代・現代では、いわゆる表現の自由等が憲法上要請されるようになった」ことから、「あまりにいい加減、支離滅裂でない」限りにおいて、今でも作られています(本作品も、まさにそれです)。
※ ただし、その考え方(「あまりにいい加減、支離滅裂でない限り、表現の自由のほうがまさる」)は、西洋や今ではアメリカイギリス、日本韓国といった「表現の自由の先進国」では当然のこととして扱われているだけで、どうしてもキリスト教に保守的な国では「国ごとの規制がかかる」ことが多いです(この映画、調べたところ、少なくともシンガポールとロシアでは発禁扱いになっている模様)。
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