「少しずつ気を配るということ」梅切らぬバカ gladdesignさんの映画レビュー(感想・評価)
少しずつ気を配るということ
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」という諺がある。
「樹木の剪定には、それぞれの木の特性に従って対処する必要があるという戒め。転じて、人との関わりにおいても、相手の性格や特徴を理解しようと向き合うことが大事であることを指す。」ということらしい。
単純に「多様性を認めましょう」という話ではない、と思う。
私自身も含めて現代に生きる人々は、とかく主語を大きくして語りがちだ。
「最近の若いもんは」「だいたい男ってのは」「女っていつも」「子どもなんだから」
多様性の時代、などという言い方すら、主語が大きいのかもしれない。
障害があっても、年老いても、子どもであっても、暮らしやすい環境を求めていいし、そうした環境を自分たちで作り出さなければならないのだ。
そのためには、主張するだけではダメで、相手を受け入れ、想像をめぐらし、少しだけ譲歩する必要がある。
本作の主人公?の山田忠男(ちゅうさん)(塚地武雅)は自閉症である。
母・占い師の珠子(加賀まりこ)と暮らしている。
毎朝決まった時間に起床し、決まった時間に食事をとる。
こうした障害がある人たちが働く「作業所」と呼ばれる施設がある。
私自身、学生の頃、ボランティアサークルに所属しており、このような作業所・施設へ伺って、介助などの活動を行なっていた時期がある。
こうした施設は、自閉症や脳性麻痺による身体障害などの障害のカテゴリや障害の度合いにもよるが、障害があってもできる仕事(作業)を細分化して、毎日の「労働」を行うことで、社会の一員であることを維持している。
そのため、健常者の考える「仕事」とは、少し意味合いやイメージが違うかもしれない。
障害を抱えた人が集まって、共同で生活するグループホームも登場する。
そのグループホームでの生活は、近隣住民にとってはあまり喜ばしいものではない、という描写がある。
夜でも大きな声で話して、隣の住宅から騒音のクレームが来るなど、地域に根差した施設とは認知されていない様子。
近隣住民らは、わざわざ住宅地になくてもいい、不要だと主張。グループホームを糾弾する。
そう糾弾するのは、地域で乗馬クラブを運営する女性、今井奈津子(高島礼子)。
だが、過去にはこの乗馬クラブからも馬が脱走したことがあるらしい。
障害者が近隣住民に危害を加える可能性がある、と言いながら、自身の経営する乗馬クラブから脱走した馬は危険ではないのかと詰め寄られ、返答に窮する。
「障害者の問題」とすると、まるで人ごとになってしまうが、自身に関わることと構造が同じだということに、薄々気づいていながら、それを認めたくない心理が描かれる。
街の人たちの「普通に」暮らしたい、という主張は、ごく自然な主張である。
どこの街にでも、常に発生している問題だろう。
対象が障がい者だけでなく、老人ホーム、ゴミ処理施設、産廃施設、火葬場、保育園など、「住宅地にふさわしくない」という理由で排斥されている。
一方で、障害者にも「普通の」暮らしをする権利があるのも事実。
こうした考え方は、これまで見てみぬふりをされてきた考え方ではないだろうか。
多様性、という主張をするまでもなく、誰もが等しく、暮らす場所を自由に選べる権利があるはずだ。
その「自由」という権利を得るためには、「義務」を果たさなければならないだろう。
では、その義務とはなんだろうか。
それは「周囲に少し気を配る」ということだ、というのが本作に込められたメッセージなのではないかと思う。
障害者だからといって、子どもに怪我をさせていいわけではない。
障害者だからといって、夜中に騒音を出していいわけではない。
「障害者」を「乗馬クラブの馬」に置き換えても、それは成立する。
「お互い様」という言葉のように、互いに少しだけ気を配って暮らしていくしかないのである。
忠さんの伸びた爪を母・珠子が切ってやるシーン。
「周りの人を傷つけないように、伸びた爪はお手入れしないと」というセリフがある。
それは爪に対しても、庭からはみ出した梅の木にも当てはまる。
不要なものは取り除く、という風潮はいつの時代にもずっとあったのかもしれない。
世の中全体が、合理的に考えることが善、という考え方に染まっていくに従って、こうした不要なものは排除すればいいという考え方が強まっていく気がしている。
ただ、その「いらないもの」をいらないとジャッジするのは、いったい誰なのか、ということをもっと考えた方がいいかもしれない。
いらないと決めているのは、あなた自身かもしれない。
老いた母親が、自分が亡き後、障害を抱える息子がちゃんと暮らしていけるのかと案じて、離れて暮らすことを決断する。
そこには障害を抱える者と一緒に暮らしてきた家族の、切実な思いがある。
その思いに、想像を巡らすことができない地域住民が存在する、その「現実の壁」はとても重い。
珠子・忠さん親子の家の隣に引っ越してきた里村家の子ども・草太は、その壁をすらりと越えてくる。
忠さんとも自然にふれあい、距離を縮めていく。
乗馬クラブに、夜中に忍び込んでポニーが脱走してしまうトラブルを引き起こしてしまい、草太ひとりで逃げてしまった罪悪感から、朝食時に涙ながらに謝罪する。
子どもにとって、抱えきれないほどの重い荷物を、大人が見てみぬふりをしてしまっていることも、重たい「現実の壁」なのかもしれない。
一方で大人になっている忠さんは、母親の思いが届いているのかいないのか、廃品回収車の「壊れていても、構いません」をリフレインする。
壊れていても(障害があっても)構いません、というメッセージは、忠さんから母への「ありがとう」の意味があるのだと思う。
それは、視聴者にもしっかりと届いているだろう。
ラスト近くのシーン。
道路にはみ出た梅の木を、忠さんと里村親子が次々と少しだけ避けて通るシーン。
多少の不自由さは、みんなが少しだけ気を配ることで、なんでもないことになる。
それでいいし、それがいい。
自分さえ良ければいい、という「自分ファースト」が幅を利かせている昨今。
それはちょっと違うんじゃないの? と問われる、心の泥が少し落とされる、いい映画であった。