郊外の鳥たちのレビュー・感想・評価
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失った物は二度と戻らない。
この映画から観て感じる事は、主人公の過去と現在を交差する形で、デジタル化、高速化等便利さを追求するした慣れの果てに世界中が失った生活感、本当のゆとり、豊かさ、幸せ等とは何かを考える作品です。
是非おすすめします。
まぼろしの青い鳥たちは、どこか遠くへ飛び去っていった
中国のめざましい経済発展と、その進歩の波濤をうまく乗りこなすことのできない人々。「都市再開発」というモチーフは両者のギャップを描き出すための恰好のキャンバスだ。ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』然りロウ・イエの『シャドウプレイ』然り、中国映画の巨匠たちは煌々たるビル群と古ぼけた団地の陰陽を通じて自分たちの(あらゆる意味における)立ち位置を模索してきた。
本作もまたビル群と団地の二項対立を立ち上げはするものの、その矛先を安易に都市開発やら資本主義やらに向けるような政治性とは慎重に距離を取る。
4人の測量作業員たちを中心とした現在の物語レイヤーと日記の中の子供たちを中心とした過去の物語レイヤーは、対立的に布置されているものの、両者ともに過去を目指しているという点においてほとんど変わりがない。測量作業員たちはみなどこか生気を失っている。ロングショットで長々と続く作業シーンはひたすら退屈で緩慢な印象を我らに与えるし、4人が土手の真ん中で昼寝をする彼らの寝姿からは幼児退行じみた過去への志向が見てとれる。彼らが間接的であれ日記の中の子供たちの世界線と干渉することができたのも、彼らが過去へのノスタルジックな憧憬を内面に抱いているからであるように思う。
一方、子供たちが織り成す過去の物語も、過去とは言いつつもそこでは今まさにその過去なるものが失われつつある。彼らが暮らす街にも再開発の波が押し寄せ、旧市街の住民たちは川向こうの高層マンションへの引っ越しを余儀なくされる。それによって子供たちの人間関係にも否応なく変化が生じる。山の中の草地にみんなで寝転がり、自分の好きな人を教え合うような他愛のない日常は失われてゆく。子供たちが不登校になった太っちょの家を目指す一連のシークエンスは彼らの関係が不可逆的に失われていくさまをアレゴリカルに描き出している。出発時には7〜8人はいたはずの集団が、紆余曲折を経て最後には3人にまで減ってしまう。しかも太っちょの家には最後まで辿り着けない。
夕暮れの中、子供たちが最後に目にするのは、自動車がひっきりなしに行き交う高架だ。それを見て子供たちは泣き暮れる。彼らはもう先へ進めない。そこから先は彼らの世界ではないから。彼らの物語はそこで途絶せざるを得ない。
しかし留意すべきは、本作において憧憬される過去が必ずしも無辜無謬な美しいものではないということだ。子供たちの物語が樹上の鳥の巣を棒で突いて落とすシーンから始まるのは、彼らが根本的に残酷であることの示唆だ。他にも、いじめや仲間同士での対立など、無菌的なノスタルジーを拒むようなシークエンスがいくつも挿入される。
それではなぜ本作に登場する人々は皆一様に過去を目指しているのかといえば、そこには手触りがあるからだ。粗暴さや関係の不和に汚染されていようが、いや、むしろそれ故に、過去には温度があった。エアガンで肩を撃たれたり、不意に抱きつかれたり、友達を背負ったり背負われたり。人々はその生々しい温度を求めているのかもしれない。測量作業員たちが冒頭で互いのパートナーとの生活について談義するシーンや、彼らの一人が宿泊先のホテルで美容院経営の女と衝動的に寝るシーンからは、彼らの生活から温度が失われていることを示している。
温度という比喩をビル群と団地の二項対立に対応させてみると、そこには人間とオブジェクトという新たな対立構造が析出する。経済成長によって無機的なオブジェクトに埋め尽くされた街にはもはや温度は存在しない。もちろん経済成長は悪いことではない。都市開発による利益がその損失を上回ることは疑いようがない。チェン・カイコー『黄色い大地』やチャン・イーモウ『あの子を探して』に出てくるような辺境の貧しい原始的生活に回帰したい人間などいない。ただ、フィクションの役目はそうしたわかりきった客観的事実を羅列することにはない。
本作の眼目は、経済成長の結果としてオブジェクトに囲繞されてしまった人間たちのよるべのない不安や喪失感を描き出すところにある。しかも「人間が生きていた頃」として彼らが想起する過去にもまた随所でオブジェクトの陰が覗いている、という絶望的現況。双眼鏡を覗いた子供が「私あそこに住むの」と川向こうに立ち並ぶ高層マンションを指し示す友達に向かって「どれも同じに見える」と言うシーンはきわめてクリティカルだ。高層マンションのオブジェクト性=非人間性に疑義を呈しつつも、それを眼差す視線もまた双眼鏡というオブジェクトを媒介しているという皮肉。もはやオブジェクトなくして我々の生活は成り立たない。ノスタルジーの中にさえ完全なる逃避は実現しない。
いったい我々はどうするべきなのか?考えあぐねて睡魔に絡め取られている隙に、まぼろしの青い鳥たちは一羽、また一羽とどこかへ飛び去っていくのだろう。
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