「蹂躙される聖公国。容赦なく消される支配層。ナザリックの「非道」を堪能する2時間。」劇場版「オーバーロード」聖王国編 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
蹂躙される聖公国。容赦なく消される支配層。ナザリックの「非道」を堪能する2時間。
『オバロ』は、テレビシリーズは4期とも視聴済み。
原作は未読。総集編劇場版も未見。
今回のもいつも通りヒドい話ではあったが(笑)、まあオバロらしい内容だったのでは?
僕が「カオティック」という概念に出逢ったのは、中学のときに学校でやけに流行っていたロールプレイング・ゲーム『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のゲーム説明でのことだった。ちなみにD&Dはマシンで遊ぶRPGではなく、サイコロを振りながら、ゲームマスターのシナリオに従ってプレイする、ホンモノの対人型RPGである。
僕はあまり考え無しに、いいとこ取りのキャラクターだと思ってエルフを選んでパーティを組んだものの、ちっともゲーム内でキャラが成長しないので、そのうち飽きて抜けてしまったのだった。
そのとき、ゲームの概念として「アライメント」という「属性」があって、ローフル(秩序、善)ニュートラル(中立)、カオティック(混沌、悪)という組み合わせを「事前に決めてキャラ付けする」というやり方を知った。
ちょうどディベート対決のように、自分で「悪の側」になるとキャラの性格を決めたうえで、そのキャラクターの行動原理に則って、自キャラを動かしていく。
当時、「善玉」に自己投影する以外の娯楽の楽しみ方を知らなかった僕にとっては、けっこう目からウロコの新概念だった。なるほど、「悪」に扮してRPG内で行動しても、一向に構わないってわけか。
キャラが、僕自身の思惑ではなく、僕の決めた規範に従って動く。
この新鮮な「発見」の延長上に、『オーバーロード』は存在している。
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ただまあ、やっぱりアニメの主人公には、相応に善良な振る舞いを期待してしまうのが人の性というもの。その意味で『オバロ』は、観ていてずいぶんストレスのたまる作品である。
何せ、主人公側の策略によって、無辜の民や兵士たちが大量に命を落とすから。
どちらかといえばローフルの側にいる王族や騎士が、ひたすら蹂躙されるから。
人の命を踏み台にして、やっていることは絵に描いたようなマッチポンプだから。
こういう「ろくでなし」の悪行三昧を、作り手がやたら肯定的に描く様を観ていると、いくら「そういうものだ」とわかってはいても、やはり落ち着かない。
これが、悪本人を主人公としたピカレスク・ロマンならばむしろ愉しめるのだ。
しかし、『オーバーロード』の主人公は、必ずしも悪ではない。
悪(カオティック)であることを選択せざるを得なかった、ただの一般人である。
それなのに彼は、今回の映画版でも、あれだけの死者が出るとわかっているデミウルゴスの作戦を承認・支援し、自らも作戦の重要なパーツとして獅子奮迅の戦いぶりを示す。
要するに「相手は所詮NPC」って扱いに思えちゃうところが、期を重ねるごとに増えている気がする。「命の軽い弱い敵」相手に、やることなすことえげつなさすぎるんだよなあ。
そうじゃなければ、もちろん『オバロ』にならないんだけどね。
その意味では『オバロ』は観ていて普通に面白いし、アニメとしては完成度も高いとは思うが、どうも苦手は苦手である。
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今回も、デミウルゴスと彼が召喚した憤怒の魔将の、聖王国の蹂躙ぶりは徹底したもので、やはり、冒頭のパパさんの末路とか、王女と女神官のあんまりな扱いとか観ていると、けっこう胸が痛みます(笑)。熟練のオバロファンは、冒頭から報われない犠牲者が犬死にするたんびに、やんやの喝采を叫ぶんだろうなあ……。
でも、パンフにあった丸山くがねの著者インタビューを読んでいたら「(聖公国の新キャラクターは)基本的には全員、『ナザリックってこんなに酷いんだよ』ということを示すために作ったキャラクターです」「この映画を観てナザリックを嫌いになった人たちがいたらそれは私の手の内で、逆に好きになったという人は私の手から飛び出した方ですね」と宣っていて、むしろ僕の感性は著者の期待に応えているのかもしれない(笑)。
主役の日野聡は盤石の仕上がり。しゃべり方から、今アインズ様分が何割で、鈴木悟分が何割かが、そのときそのときできちんと伝わってくるってのが凄い。
従者ネイアの頑張りぶりと、アインズ様への傾倒していく過程は、青山吉能の力演もあって、物語の主軸として良く出来ていた。パワハラ系騎士団長のレメディオスも、意外と良いこと言ってるのに言い方と態度で部下に疎まれる感じが生々しかった。いやあ、うちの会社の女性上司と、切れ方とかマジでそっくりなんだけど(笑)。
あと、原作で登場しないナザリックの階層守護者たちを無理やり出したりしなくて、本当に良かった。まあ、個人的にナザリックの面々にはほとんど興味がないし、欲情副官とかウナギ吸血鬼とか蟲メイドあたりには一切の魅力も萌えも感じないので、出て来てくれなくて全く構わないんだけど……。
一方で、前半に派手なバトルが集中していて、後半は二人きりの潜入任務とか敵の亜人の棟梁たちの地味さとか、ノリが大人しくなってしまうのは、ちょっと勿体ない感じ。
何よりもひっかかるのは、「一見して奇妙なカット箇所」が頻出することで、これは明らかに尺の問題ではない。特に、アインズ様との接見のシーンがいきなりブツッと切れて、ネイアがレメディオスに怒られているシーンに「飛ぶ」のは、モンタージュとしていくらどう考えてもおかしすぎる。最初だか二度目だかのアインズ様と憤怒の魔将とのバトルが「省略」されるのも、シーンのつながりとして最悪に気持ち悪い。あそこは少なくとも「何か」が挟まらないと「えっ??」となってしまう。
作り手の側も当然、4カ所くらい極端に不自然なつなぎの部分があることは自覚しているはずで、「直前に何らかの事情で尺の調整を行わざるを得ず、窮余の一策で、まとめて切って大丈夫そうなシーンをカットした」か「そもそも作画が間に合わず、泣く泣く落とした」かのどちらかくらいしかあり得ないと思う。
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それにしても、原作自体は相当昔に書かれた話だったかと思うけど、ホント今の世の中の現状を予言するかのような内容だよなあ。
例えば、アメリカは今ウクライナに巨額の軍事援助を実行しているが、実はNATOとロシアの対立を煽って、「ウクライナがロシアに攻めこまれるように」お膳立てをしたってことだって、ない話ではないわけだ(陰謀論だけど)。
これがもし、中国とアメリカが手を結んだとすれば、日本は聖公国と同じような運命をたどっても、おかしくはない。中国が日本に突然攻めてきて、アメリカは日本に対する軍事援助を表明する。これはいかにも「ありそう」な構図だが、「ありそう」だからこそ、すべてが「茶番」だという可能性だって出て来る。これだけアメリカにオンブにダッコで、しかもアメリカからすると極端に片務的な日米安保が、なぜアメリカの了承のもと成立しているのか? そこにアインズ・ウール・ゴウンの「無償の協力」と近しい「うさんくささ」を感じ取るくらいの嗅覚はあっていいのではないか。
国際政治や地政学の話だけではない。
いつしか、国の中枢をカスポンドのような「他国に操られているイエスマン」で固められたりはしていないか? 人は誰しもレメディオスのように部下に振る舞ってしまうことがあるのではないか? 「奇跡」を身をもって眼前で経験したネイアの立場に立ってみたとき、自分も「宗教」の吸引力には抗えないのではないか? 虐殺される相手が日本人ではなくほかの国の住民になった時点で、アインズ様のように「相手の死に対する罪悪感」が薄まってしまうことも実際にあるのではないか。
『オーバーロード』は、生々しい国家間の駆け引きや、人の命を数量化したような戦争の応酬、組織内での諍いや規律なんかもみっちり描いてあるぶん、そんな「現実」の問題を観客一人一人が再考してみるよすがにもなる。
テレビ版の五期があるのなら、また愉しみに見たいと思う。