こちらあみ子のレビュー・感想・評価
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たとえば天才バカボンのパパ、たとえばブッダのように
あみ子は最強だ。
忖度どころか、人への気遣いがない。ひたすらに自由だ。
未来への不安がない。ただ刹那の事実に生きている。
彼女の周りが、理不尽であればあるほど、彼女の強靭な生命力が浮き出る。この映画を成り立たせているものは、彼女への、一種の憧憬だ。
発達障害を正確に描写しているか、とか、周りの大人たちの理不尽な対応を告発すべきだ、とか、それらはこの映画にとって、どうでも良いことなのだ。
あみ子とは真逆の、常識と苦悩にまみれた私にとって、彼女のおかしみと正直さが爽快であれば良い。
この映画は、あみ子というファンタジーなのだ。
【不可思議なる諧謔と、哀しみが漂う作品。少し変わったコミュニケーション不全もしくは発達障害に見える“あみ子の見ている世界観”が不思議な余韻を残す作品でもある。】
■あみ子(大沢一菜)はちょっと風変わりな女の子。
優しいお父さん(井浦新)とお兄ちゃん、書道教室の先生でお腹に赤ちゃんがいる口元の黒子が印象的なお母さん(尾野真千子)、憧れの同級生・のり君たちと元気に過ごしていた。
だが、彼女のあまりに純粋無垢な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていく…。
◆感想
・あみ子が、流産してしまったお母さんと流産した”弟”の為に立てたお墓。
ー だが、母はそれを見て狂ったように泣き出し、それ以来精神に不調を兆し入院する。-
・あみ子の兄も中学に入ってから、不良になりバイクを乗り回し、家には帰って来ない。
・唯一、あみ子の面倒を見ていた優しき父も、ある日”引っ越しをしよう・・。”とあみ子に言い、お婆ちゃんの家に引っ越しするが、”家に帰らないと・・。”と言い残し、あみ子を残し一人帰ってしまう。
■それでも、あみ子は一人海岸に行って、足元の波を蹴り上げながら遠き水平線を見つめるのである。
そして、海上には、中世の人々が船に乗って彼女を応援するかの様に手を招いてくれているのである。
<あみ子は自由に思った事を実行しているだけなのに、周りの人を混乱させて行く。
もしかしたら、彼女はコミュニケーション不全もしくは発達障害なのかもしれない。
今作は、そんなあみ子を俯瞰した視点で優しく描く。
中世の西洋の人々が突然現れて、行進するシーン・・。
“あみ子の見ている世界”を映像化したかのような不可思議なる諧謔と、哀しみが漂う作品である。>
それであなたはこんなあみ子を許せるのか?問題
(ネタバレですので鑑賞後に読んで下さい)
この映画の肝は、こんなあみ子を観客のあなたは許せるのか?問題だと思われました。
個人的には、(そう明確に演出しているのだと思われましたが)共感性の乏しいあみ子に対して終始イライラしてしまいました。(苦笑)
そしてこの映画の本質は、共感性の乏しいあみ子が、家族を含めた周りから、そして観客を含めて排除されて行く、それを露わにした作品だと言えます。
そういう意味ではこの作品を作った作者(監督)は冷徹なのかもしれませんが、個人的にはそれには感心できませんでした。
私達はおそらく現実であみ子に出会ったら、ほとんどの人が排除してしまう、そのリアルの方を肯定した方が良いと思われます。
そしてあみ子の内面理解を含めた本当の関係性は、綺麗ごとを取り除いたあみ子を排除したのちに始まるのだとも個人的には思われています。
映画自体はあみ子役の大沢一菜さんの演技も素晴らしく、見るべき点もあったのでこの点数になりました。
あみ子は最後、岸で「大丈夫!」と言ってそれが映画での救いになっていますが、現実ではもちろん大丈夫ではなく、本当に大丈夫にさせるには、あみ子以外の登場人物の、その他観客含めた大半の、あみ子ではない人々の内面の方も描く必要があるのだと、個人的には思われました。
よかった
原作が大好きなので、主人公のあみ子の感じに違和感がないことに驚く。実際原作も深刻な話ではあるのだが、コミカルに描かれていて読んでいて楽しい。ところが映画の本作はコミカルな感じがあまりなくて、状況の深刻さが浮き彫りになり、とてもつらい話だった。
おそらく監督さんはとても真面目な人なのだろう。今村夏子さんは、どんなに暗くて深刻な状況にもふざけてしまうような楽しい人なのだろうと思う。
引き算の演出が美しい
2022年劇場鑑賞52本目 優秀作 73点
もっと評価されてほしい作品だし日に日に評価を上げている
今作すごく秀逸なポイントが多くて、第一に伝えたいのはタイトルにもあるように引き算の演出が美しい作品です。
というのも、そう感じる場面は何個かあって、主人公のあみ子が発達障害を患っていることや養子であることを直接的に説明や明言がされておらず、それを前者は夜に騒音を感じるのを空耳だと感心なさそうに促す父だったり、後者は距離のある間柄に感じる母の会話や空気感だったりで間接的に表現されています。
でも正直確かに少しだけ精神的なところだったりが変わっているかもしれませんが、言ったら普通の子と紙一重くらいでしか違いは無くて、でもそれは鑑賞している我々のような第三者だから容易にに言えることで、いざ同じクラスメイトだったり親族だったりするとそうにはいかないんだろうなあと、ちゃんと想像できるから両親も周りの子も憎めない(語彙力
他にもトランシーバーや最後の落とし方など秀逸なシーンや表現はあります。
本当に心が号泣しそうになるくらいグッとくる作品です。
是非。
素晴らしかった。人はこうやって排除されていくのかということを知る。...
素晴らしかった。人はこうやって排除されていくのかということを知る。わかりやすい福祉ものではなく、あみ子の暴力も描く。オノマチと彼はさすが。冒頭から映像シーンが美しく隠喩的。あみ子にとっての世界が映像として語られている。
あみ子を理解してくれる人や、あみ子の居場所があったら、もっとあみ子...
あみ子を理解してくれる人や、あみ子の居場所があったら、もっとあみ子は生きやすいだろうなぁ……
本来なら父親がその役割だったんだろうけど、父親自身に何も情報得られずにいて、その結果あみ子を実家に預けるしか選択肢がなくなった。
もしかしたら、1番の理解者は兄だったのかも。
いずれにしろ、居場所って必要なんだなということは、この映画を観て改めて感じた。
自分の意思が不変であれば人間は生き続けられる
あみ子から見る世界はけっして壊れていない。
弟(妹)の死は、「生まれてきたもん。生まれてきたけど死んどった」
母親は心の病になり、兄は不良になり、両親は離婚へ。あみ子も不登校に。
端から見ると壊れているのに、あみ子の世界はやはり壊れていない。
そこに、壊れていく運命に翻弄される少女の姿はない。
その類のお涙頂戴の物語は数多くあるけれど。
運命は変えられない。世間の目も変わることはない。
でも自分の意思はいつでも変わらない。
自分の意思が不変であれば人間は生き続けられる。
原作の今村夏子のポリシーが、見事なまでに再現される。
映像でしか描けない、あみ子この一瞬見せる悲しげな表情にぐっとくる。
あみ子のイメージにぴったりの大沢一菜に目が潤む。
待っているよ
文章で読んだ時よりも映像になるとギラギラとしたあみ子がそこにはいた 枠におさまりきらない感情のパワー
乾電池で例えるとあみ子は直列回路で自分を表現するタイプ多くの人はおそらく並列回路
そんな印象
裸足でドタバタ大袈裟に床を歩いてみた
あみ子の気持ちに近づきたくて そしたら少しだけ悲しくなった
応答せよ…こちらあみ子 無関心にされることほど心細いことはないよね あみ子は人と繋がることが苦手というか空気が読めないとこがある でもそこには全く悪意がない だから周りの人は疲れ果ててしまう
あみ子が応答せよと言えば言うほどに人は離れていく ただ世の中はそんな人だけではなく坊主くんみたいな子は必ずいてさりげなく気にかけてくれる
そのことに救われた
付かず離れずのお父さんにも
のり君の「殺す」と坊主くんの「殺す」は同じ言葉でも全く意味合いが違うし「おれだけのひみつじゃ」の言葉はあみ子の心にもさざなみのようにやさしく広がったろう
トランシーバーの波長のようにさざ波があみ子に寄せる
人の違いを尊重し痛みに気付ける世の中へ
あみ子から連絡きたら応答できるかな?
何て応えようかな?
待ってるよ
追記 やはり書いておこう…
高校生の頃バス停で待っていたら小学生の男の子にいきなり抱きつかれたことがある軽くフワッとした感じだったけど
何?と考える間もなく身体が硬直した
すると近くから、やめろやめろと冗談混じりに先生が生徒に言う声がした
別にその時はそれで流したのだけれども…
後から生徒が謝れないなら先生に謝ってほしかったと思ったことがある
もちろん悪意の無い行動だとは分かっていたけれど
今回こちらあみ子を観て思い出した今でも覚えてること
子供時代との決別。
人は皆自分の内なる世界を持っている。同じ世界に住んではいても人々の内なる世界はそれぞれ異なる。社会においては成長する過程において皆が内なる世界を捨て、あるいは外の世界と折り合いをつける術を身に着けてゆく。
あみこはそれが出来ないかあるいは人より遅れている。だからなにかと外の世界では変な子と見られてしまう。
画一化を目指す今の日本の学校教育では天才は育たないと言われる。子供の個性を伸ばすのでなく同じように行動する人間の育成が第一だからだ。かつて軍隊や工場労働者の大量生産のためにはそれでよかったのかもしれないが、現代において新たな発想ができる突出した能力の育成には不向きであろう。
あみこは学校でもつまはじきにされ、家庭も崩壊してゆく。父にも捨てられたあみこは内なる世界の住人と別れを告げる。そうして彼女は子供時代との決別を遂げるのであった。
現実世界の外側で。
観賞後の疲労感足るやなかなかのものでした。予告の限りでは風変わりな女の子と家族が繰り広げるハートウォーミングな日常の物語と思っていたけど、甘かった。
小5のあみ子は落ち着きがなく思い付いた事に猪突猛進。空気が一切読めず一人で喋り続けている。劇中言語化はされていないものの発達障がいを抱えているのは明らかで、家族は四六時中振り回され続けている。
自分が実際家族として関わることを想像すると気持ちが持たないかもしれないと思った。家族はもちろん地域や学校の理解は必須。でもそれがないあみ子の家族は結局崩壊してしまう。母親の違和感。父親の無関心。兄の逃避。なんだかんだ一番の理解者が名前すら覚えていないクラスメイトというのは皮肉だ。この先あみ子がどう成長してゆくのか。壊れたトランシーバーから返信はない。
評論の必要性
大変にモヤモヤする、心の蟠りが消せない作品である。本当に難しく、このテーマに対して毎日、否、毎時間心の中で白黒が入れ替わる"オセロ"のような心情変化を繰り返させる正に普遍な問題である。
表題どおり、こういう作品は絶対に評論が必要だ。感想ではない、プロの評論家のロジスティックな建築的論評だ。そこには自分の気づき得なかった視点や、見えない所へのイマジネーション、そして腑に落とすヒントが示唆されている。
単に脊髄反射の如く、今作品を咀嚼できないという諸兄にはキチンとプロの論評の、感情とは一線を画した冷徹な理論をフィルターとして通すことで、如何に自分が映画を”ボーッと”観ていたかを恥じることになることを体験して欲しい。それでいいと思う。その”恥”を受け入れることで本当の意味の映画ファンにステップアップしていくのだから・・・
毎週、映画評を自腹(真贋は置いておいて)で観てのラジオで発表するラッパーは、7月29日(金)にこう言った。「もしかしたらカメラの視点は、一貫して言及されない誰かかも知れない・・・」と。
今作品、不思議なことに前妻の事は一切触れない。あの隠し事が一切できない(チョコクッキーの件は喋らない都合の良さは否めないがw)主人公が、この件に対して一切台詞として言及していない、又は妹を弟と間違った件も、勝手に妄想するに、過去にいたかも知れない産みの母やかつて存在していた弟が、寄り添うようにこの主人公を見守っている視点で描かれているのではないだろうかと・・・ だからこそ、スタッフロール中のエンディングテーマ中に主人公の問いかけと、曲中の『もしもし・・・』が呼応しているのではないだろうかと・・・ 勿論、パーソナリティはそこまでは発言していない。でも、ヒントをどう取るかは、観客の裁量である。
鑑賞後のティーチインでの今作監督の登壇で、もし質問を受け付けられたら是非訊いてみたい内容ではあったが、でもパンフレットにその答えが載っているかも知れない。私は財布に余裕が無かったのだが・・・(泣)
本当に心の中を語ろうとしないのは誰なのか、を考えさせる一作
たまたま鑑賞した回が、監督や主演俳優の舞台挨拶込みだった、という幸運に恵まれた本作。子供達の生き生きとした姿が印象的な作品でしたが、撮影現場もまったくその通りだったようで、楽しそうに撮影の思い出を語る若い俳優達と、ちょっととぼけた感じでコメントする監督がとても印象的でした。
本作が劇場長編映画の初監督作品となるという森井勇佑監督ですが、そうは思えないような入念な物語構成と計算され尽くされた撮影、そしてテンポの良い編集など、舞台挨拶の穏やかな印象とは異なって、映画に対する強い熱意と愛情、そして経験の厚みが伝わってきました。
劇中ではあまり具体的には言及されていないのですが、主人公あみ子(大沢一菜)は生まれつき、あまり他者との意思疎通ができないようで、家族もあみ子に優しく接しつつ、あみ子の言動に振り回されることに疲労している様子です。学校では級友たちからも「変わった子」と見なされ、友達の輪に加えてもらえない様子ですが、あみ子は周囲の反応をそれほど気にしている様子は見られません。
だがある大きな事件がきっかけで、家族の軋轢が増していきます。実はあみ子は他者に対して共感することは難しくとも、どのような状況にあっても自らの考えについては包み隠さず、率直に伝えていることが分かってきます。一方で、あみ子よりも「正常」と考えている家族の側は、自分の気持ちを正直に周囲に話していたかというと…。しかし正直なあみ子が幸せになっていくのかというと…、と物語は決して期待したような方向に進まず、非常に印象的な着地点を見せます。
あみ子の想像と現実の狹間があいまいになっていく場面、あみ子と真っ正面から向かいあって対話を重ねていくある友人の表情、会話の内容がいつまでも印象に残りました。
面倒臭い子供の映画
原作未読です。
ベタな子供映画の傾向って絶望的不幸の連続からある程度の努力と
強運と良い人過ぎる周りの支援でその不運から脱却して
大団円を迎える安っぽい涙の感動作…なのですが
これは異色過ぎる現実的な話。
人生経験の少ない子供は空気が読めないから残酷な言動も平気だし
周りの迷惑も関係無し。あみ子も身内にはいて欲しくないタイプ。
中盤母親が継母な事が判明しなんとなく子供によそよそしいのも納得。
父親も中学生の息子がグレてもお構い無しの無関心ぶり。
後半ある事がきっかけであみ子と継母との間に埋めようのない溝ができ
祖母の家に預けられ家族離散の危機。
ここで挽回すると普通の話なのだが前記の通り異色作。
ええ〜そこで終わりかよ。
イレギュラーな話は好きだけどこれはどこが映画化する程魅力的なのか
良くわからん話だった。
弟のお墓
題名とポスターだけだと、なんか素朴な作品なのかと思っていたら全然違う問題作だった
映画として俯瞰して見ているから時折笑えるが、実際近くにいたら迷惑で困惑する存在だ
あるシーンでは思わず「やめてー!!ダメダメ」と心の中で絶叫
映画として見ているぶんにはいいんだけどねぇ
おーとーせよ、おーとーせよ
おーとーせよ、おーとーせよ、、、
このあみ子の呼びかけに、
応答しないが見守るよ(とも取れる)という解釈が、
今村夏子原作を映画化する時の高難度のキーワードだ。
言動のピントがずれている主人公に、
カメラもピント(こころの)を合わせない。
今村原作は、
軽妙に戦慄を感じさせながら、
解決不能の人間関係や、
社会問題をぶっ込んでくる、
言葉が闇を纏って刺さってくる、
それが魅力で、なおかつ、
的確な文章で、
行間でピントをぴったり合わせてくる。
映画は全部丸出し。
行間は基本的にはない。
どうやってピントを合わせるか。
今後もどこからか現れてくれるだろう、
ウルトラの兄、
兄自身も育てていた鳩と決別した、
鳩の卵は残した。
ウルトラの妹とはさよならした。
舟に乗っていた、むらさきの、、、、
ではなく赤いスカートの妹。
ウルトラの父と母もう要らない、、、
応答せよ応答せよ、
こちら観客、
大丈夫か?
大丈夫だ。
見事なピントだ。
と解釈した人にとっては傑作。
カットを割って細かく語ると、
今村ワールドが色褪せる、
高難度のキーワードを、
結果的にはだが、乗り切った。
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