こちらあみ子のレビュー・感想・評価
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大沢一菜の演技力!
この映画を言葉で説明するのは簡単じゃない。 この小説を読んだり、 この映画を見たりしてほしいと思う。
動画配信で映画「こちらあみ子」を見た。
2022年製作/104分/G/日本
配給:アークエンタテインメント
劇場公開日:2022年7月8日
大沢一菜
井浦新
尾野真千子
奥村天晴
大関悠士
橘高亨牧
幡田美保
黒木詔子
一木良彦
映画「星の子」を見て原作者、今村夏子の别の作品も見たくなった。
見てみるとこれは「星の子」とはまったく違う映画だなと感じた。
しかし、よく考えてみると子供が主人公で、
舞台は学校と家庭という点は同じだなと思った。
広島県に住むあみ子は変わった子どもだった。
自分の感情にまっすぐで、
他人の気持ちを気にしない。
あみ子の同級生であるのり君が、
お母さんから「孝太君の妹は変な子じゃけどいじめたりしちゃいけんよって。なんか変なことしようとしたら注意してあげるんよ」と言われている。
父親と母親(井浦新、尾野真千子)とお兄ちゃんはあみ子に優しい。
あみ子の日常を淡々と描く。
ある時お兄ちゃんが唐突に不良化した。
タバコを吸う。
暴走族に入る。
家に帰らなくなる。
父親は全く注意しない。
母親も注意しない。
あみ子は小学校でも中学校でも変わらず同じような生活を続けていた。
ある日保健室で事件が起こる。
大好きなのり君に殴られてあみ子は鼻を骨折する大怪我を追う。
自宅に帰ると父親に言われる。
「あみ子、引っ越ししようか」
父親と一緒に祖母の家に引っ越しした。
数日たった日、父親に言われる、
「お父さんは家に帰らなければいけんのよ」
あみ子は祖母の家に置き去りにされた。
これは障害を持った子供の話だった。
あみ子の同級生の坊主頭(橘高亨牧)が毒舌ながらもあみ子に優しかったのは印象的だった。
この映画を言葉で説明するのは簡単じゃない。
この小説を読んだり、
この映画を見たりしてほしいと思う。
満足度は5点満点で4点☆☆☆☆です。
「おばけなんてないさ!おばけなんてうそさ!」あみ子にとっての“おばけ”とは…?
アマプラで無料鑑賞できる『アタック・オブ・ザ・キラートマト』とか『トリプルヘッド・ジョーズ』とか見つけたんで、そういうの観て駄文書こうかと思ってたんですよね、実は。このアホは。
ですが、ここのところ、レビュアーさんが極端に少ない作品のレビューしか書いてないませんでした。
それも寂しいので“普通の映画”を観ることにした次第です。
いつも女装で観に行く映画館でフライヤーをもらってきて以来、気にはなっていた作品だったし。(しれっと女装絡めてるし・笑)
写真のぽけーっとした表情の奇妙な印象の子が、なぜかツボだったんですよ。
課金制だったので、どうせならと思いTSUTAYAへGo!しました。
“ちなみに”同時に借りてきたのって、やっぱり『インプリント~ぼっけえきょうてえ~』だったりするの。レビュアーさん、わずか2名の作品(笑)の、3人目に名を連ねようかと思ったんですが(懲りてねぇ…)そこは初志貫徹です。
相変わらず、まくらが長いです。ごめんなさい。では行きます『こちらあみ子』レビューです。
この作品のテーマに関わるキーワードっぽい“おばけ”って一体何?と思い、そこを考えてみることにしました。
結論から述べると、それはあみ子が抱える「自分でもよくわからない、漠然とした寂しさという恐怖」であったように感じました。
喜怒哀楽の、最初と終わり以外の感情を持ち合わせていないように見える「普通の子とはちょっと違う」彼女でですが、あと二個を認めてしまうと、自分自身が壊れてしまうこと。それを彼女自身の本能が理解しているように思えましました。
誰もが本能的に感じている“死”への恐怖に通じるような。
あからさまに死の匂いが漂っていたラストシーンなんて、その最たるものだと思いました。
“おばけ”たちの手招きに応えてしまういこと=どうしようもない「寂しいという感情」に呑まれてしまうこと=自我の崩壊=死にたいという気持ちが芽生えてしまうこと。なのでは?と。えつ、考えすぎ?
あみ子自身に「自我が崩壊する」という観念はないにせよ、それこそが「漠然とした恐怖」=“おばけ”の正体だったに違いないと思って。
最後の台詞の「大丈夫じゃー!」は、彼女が“おばけ”=「恐怖」に真正面から向き合う、もしくは、言えば立ち向かいたいという決意の“バイバイ”ではなかったのでは?と解釈したかったです。そうでないと、彼女があまりにも不憫すぎます。救いがなさすぎます。えつ、考えすぎ?
そんな彼女だからこそ、のり君という“希望”にすがりたかったのだと思えて。希望を見つめている時だけ彼女は、幸せな時間を過ごせていたのだと思い。傍目には滑稽としか映らなかったとしても。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でセルマが妄想の中でダンスを踊っていたかの如く。えつ、考えすぎ?
だから、鼻骨を折られるほど殴られても、彼女にとってのそれは、のり君と触れ合えるかけがいのない幸福な出来事だったのかな?と思えて。いつまでも剥がすことのない鼻の絆創膏は、あみ子にとっての“勲章”だったに違いないと思って。
“ちなみに”私、初見時にはあのシーンで笑ってしまったんですよ。
「好きじゃー!」→「殺ーす!」→「好きじゃー!」→「殺ーす!」→「好きじゃー!」→「殺ーす!」(笑)
ところが二度目に観ると、決して笑えない自分がいて。
先に述べたように、あみ子の、のり君への想いが、滑稽なまでに描かれている哀しいシーンだったと思うから。えつ、考えすぎ?
キーアイテムのトランシーバーは、言うまでもなく、彼女と他者とのコミュニケーションを表現しており。
決して応答のない一方通行の通話は「私はここにいますよ!」「私に気づいて!」のSOS信号だったのかなと思ったんですよ。えつ、考えすぎ?
そして、触れずにはいられないことが。銀幕初出演?(色々と調べたんですが、確たる資料が見つかりませんでした)の大沢一菜がとてもよかったの。
森井監督は、きっと一菜さんに演技をさせなかったのだと思いました。
あくまでも“素の”少女の姿を撮ることで、あみ子というキャラクターを創りたかったんだろうなぁと思って。
そのイメージにドンピシャとハマった少女が一菜さんだったと思って。
このあたり、先日観た『秘密の森の、その向こう』の少女の描き方と同じように感じました。
が…如何に?
アホの私にしては、珍しく真面目な考察系レビュー。
なのに、どうしてもわからなかったのは、劇中に登場する小動物の数々。エンドロールでもイラストが描かれていたので、きっと何かのサインだったと思うのですが。
やっぱりアホの私にはさっぱりでした。
『発達停滞大和民族』 こんな家族なら絆なんか要らない
彼女の心の中を、ファンタジーなシーンで描くが、健常者(?)としての偏見があるようでならない。きちんとこの少女の話を聞いたのだろうか。繰り返す、この社会から浮いた異常な少女(?)として、健常者(?)からは見える。それは仕方ないのか?そして、我々は本当に健常者なのか?
そもそも、彼女の視点で描くからには、正確な彼女の心理を描かぬば、彼女を描いた事にはならない。
つまり、
『絆を大事にする日本人』と言うからには、この映画の世界が、どうしょうもない社会であると理解しなければ駄目だ。なぜなら、『ストーリーの流れの矛盾』を利用して、デフォルメした誰にでも分かる様な設定にしてあるからだ。
・異常な放任主義
・異常な母親
・男子生徒のドメスティック
・知性の欠片すら無い夫
・子供達に無関心な学校教育
・噂だけが飛び交う村社会
大和民族はこう言った社会が『普通』なのだろうか。
それと比べて、少女のどこが変わっているのだろうか?普通に驚き、普通に親の愛を求め、順調に道徳心を育み、健気なまでに家族愛を求めようとしている。第2成長期のはずなのにその片鱗すらない。
勿論、家族が崩壊したり、流産がこの少女とは無関係なのは自明の理。最初から家族が壊れているのも、誰でも分かるはずだ。
大変に重要な事は、この演出家自身が、この主人公を分かっていない。若しくはに分かってあげようとしていない事なのではないだろうか?
強調して、もう一度言う。変わっているのはこの少女ではない。見ている者も含めた我々なのである。
原作者がこの少女の心を持った方なのかどうかは分からない。しかし、原作のテーマもそこにある。残念ながら、原作は読んでいない。また、映画は原作のテーマを理解しているかもしれない。しかし、充分な表現になっていない。そんな大変に残念な映画と評価せざるをえない。原作は大変に良いとは思う。だから、それを映画化するからにはきちんと原作者なは意見してもらいたい。
あの『ティファニーで朝食を』を映画化した時にトルーマン・カポーティは、主演をオードリー・ヘプバーンにした事と、結末を大いに批判した。社会はそのくらいの権限を原作者には与えるべきだ。考え方まで愛の無いAI化している。『発達停滞大和民族』だぜ♥
言葉にできない心の声をきけ!
作品序盤のあみ子が家族の写真を撮る場面、ゆるゆるで大らかな家族だなという印象を受けた。
この段階では、あみ子に対して、ちょっと変わった子くらいの認識だったので、あみ子が変わっているところを家族がよく分かっていて、それを受け入れている優しい家族に見えた。
物語が進み、あみ子が発達障害であろうことが分かってくる。
同じころにあみ子が、家族が崩壊してしまうようなことをしでかす。
こうなると、序盤に感じていたゆるくて優しそうな家族像が間違っていたことに気づき始める。
タイトルの「こちらあみ子」はトランシーバーに向かって言うあみ子のセリフだが、要はあみ子からの呼びかけである。私はここにいる。誰か応えてという呼びかけだ。
裏を返せば、誰もあみ子の呼びかけに応えていないことを意味する。
「お化けなんてないさ」と歌うあみ子の、「だけどちょっと、だけどちょっと、ぼくだってこわいな」のところが「私だってさみしい」と言っているように見えた瞬間に、言葉にできないあみ子の心がガツンと流れ込んできた気がした。
観ていてあみ子の呼びかけに自分も応えていなかったのである。
私が小学生や中学生だったころ同級生にあみ子のような子がいた。今までに数人と関わりをもったことがある。
その時の自分は普通に接していた、つもりだった。バカにしたりしていない、つもりだった。
しかし今考えてみると、自分はあみ子のお父さんとあまりかわらないことに気付いた。
それは、話が複雑化したときや、理由など、言っても解らないだろうと言わなかったことだ。
「なんで?」に対して、真実を言わず、適当に流す。自分は無意識にバカにしていたのである。
つまり、大らかそうに見えた父は、最もあみ子に向き合っていなかったことがわかるのだ。
優しく振る舞っているように見えても、家族として最低限の接触だけをして、あみ子に対する真摯さが足りていないのだ。
序盤に感じていた優しそうな家族は、ある意味で虚構だったといえる。
あみ子が起こした事件によって、頑張って支えようとしていた兄は崩壊。母はもっと直接的なダメージにより崩壊。父はあみ子を更に突き離すようになる。
唯一、あみ子に対して対等で真摯に向き合っていたお調子者のクラスメイトは、あみ子の「ねえ、なんでなん?」という問いに、過去の私とは全く違う理由で「秘密」と答える。
しかしそれは、奇しくもあみ子の孤立を生み出してしまった。
エンディング、怖さを感じるシークエンスだったが、最悪は免れた。
しかし「大丈夫」と答えるあみ子が本当に大丈夫だとは思えない。
あみ子は自分の複雑な感情を言葉にできない。言葉にできない心の声をきけ!
普通だと描かれないけれど視点の特異な映画
この映画のテーマが、「タブー」ですね。
発達障害を持つ小学生の「あみ子」の存在が周囲の人々を
変えて行く。
それが良い方向へ・・・ではなくて悪い影響を与えて
悪い方へ悪い方へ転がっていくストーリーでした。
普通の小説家はこんな発達障害児童の家庭への悪影響。
そんなことをテーマにしませんし、書かないと思う。
タブーです。
障害児の暗い部分、負の側面、家族への悪影響・・・なんて、
書けないですよ。
原作者の今村夏子さんはこの作品などで太宰治文学賞」と
「三島由紀夫賞」を受賞した。
映画からはちょっと離れますが、「こちらあみ子」に作者は
この作品に強い思い入れがあります。
大学卒業後に清掃のアルバイトをしていた、など人付き合いが苦手。
もしかしたら「あみ子」は作者の分身なのかもしれない。
全部、あみこの存在と言動のせい・・・とは限らないけれど、
映画を観てれば、あみ子のせい・・・そう思えてきます。
義母(尾野真千子)が死産したのは、あみ子のせいではない。
しかし庭に「弟の墓」と札を立てて、わざわざお母さんを呼びに行って、
「弟のお墓だよ」と見せつけて、
結果的にお母さんは号泣して、そこから病気がちになり、
精神に不調をきたし、入退院を繰り返す。
優しかった兄は中学で喫煙しはじめて暴走族に入り学校へ行かなくなる。
両親は離婚して、
あみ子は引っ越しとの名目でおばあちゃんの家に連れて行かれ、
お父さんに置いてきぼりにされる。
そしてあみ子の憧れの同級生の「のり君」が、
病んできて、「好きじゃー」あみ子、「殺すー」と、のり君。
「好きじゃー」「殺すー」「好きじゃー」を繰り返して、
結果、のり君はあみ子に暴力を振るい、
それもあみ子に馬乗りになり鼻の骨を折り大出血!!
すごく怖い話です。
それって、あみ子が優しい「のり君」を変えたってこと!?
作家が病んでるのかな?
発達障害児やダウン症の子供が家族にいても、健やかな家庭も多いと
思います。
事実、多動性障害児で手に負えなかった男の子が、
大人になり凄く人の心の分かる中学校教師に成長した例を知っています。
確かに問題提起映画。
障害児が家庭の不幸の連鎖を引き起こす、みたいな視点は
ちょっと極端ですね。
あみ子は少しづつ成長して、空気を読める大人に成長するかもしれない。
もしかしたら、成長しないかもしれない。
だけど「生きたい」と心の底から思っている。
この映画が描いた世界は、パンドラの箱を開けた側面がある。
ホラーよりも怖い映画でした。
印象に残る映画
てんとう虫やカエルをアップしているシーンの意図を知りたい。
あみ子が怖がるベランダからの音の正体がわかって良かった。
わからないのは怖い。
広島弁で話す自然な雰囲気がとても良かった。
”秘密だらけの世の中”イコール”みんな何考えてるかわからない世の中”イコール”怖いオバケの世界”。
最後にオバケたちにサヨナラしたのは面白い描写だと思った。
今作では描かれていないが、ラストの後、おばあちゃんとどのように過ごし、どう成長していくのか楽しみだ。希望の持てる終わり方だった。
エンディングで流れた主題歌『もしもし』(作詞・作曲:青葉市子)が、とても素敵な曲で尾を引く。
あみ子からのメッセージ
しんど過ぎたのと、なぜ作ったのかが全く理解できなかった
予告やいろんな媒体の宣伝、ネタバレに警戒し高評価のレビュー内容は確認せずポイントだけを見て鑑賞したところ、予想外の作品だったので面食らいました
ADHDの方々とそのご家族・周囲の方々のご苦労は他人には理解できないほどの心底計り知れないものがあると思っていますので、容易く手をかけるべきではないテーマだと思いました
本作を高評価する寛容な気持ちにはとてもなれず、むしろこういうのをフィクションの映画で作る意図が全く理解できないな、という一言が私の感想です
昨年「福田村事件」「月」など実話の映像化作品を観て震える思いをし、その事を残す偉業に挑んだ作り手へ敬意を感じ素晴らしいと思いましたが、本作はそれらとは全く次元の違う事だと思いました
久々にずんと重たかった一本
<映画のことば>
ちゃんと宿題をして、毎日学校にも行って、先生の言うこともちゃんと聞けるんなら(お習字を)やってもいいですよ。できますか。
授業中に歌を歌ったり、机に落書きしたりしてませんか。ボクシングも、はだしのゲンも、インド人も、もうしないと約束できますか。できるんですか。できますか。
さゆりさん(お母さん)から、矢継ぎ早に厳しく問い詰められた時の、なんとも言えない、あみ子の表情が、評論子には印象的でした。
題名にも関わってきますが、本作では、トランシーバー(あみ子への誕生日のプレゼントとして両親から贈られた)も、大切な意味を持っていると思います。評論子は。
もちろん、トランシーバーは通信機器なのですけれども、言い直せば、それは離れている「こちら側」(自分)から「向こう側」(通信の相手側)に繋がるもの。
自分自身でしっかりと持っている、あみ子の世界から、物理的にはつながっていても心理的にはそれとは完全に隔絶されている他外界(他者の世界)とを繋ぐモチーフとなっていたように思われます。
反対に言えば、そういう手段だけで外界と繋がっている、あみ子の閉塞的な世界を象徴するものなのだと思います。評論子には。
久しぶりに、観終わって「ずんと重たい」一本を引き当ててしまったというのが、偽らざる実感です、評論子としては。
反面、秀作としての評価に値する一本でもあったと思います。評論子は。
(追記)
たぶん、あみ子ちゃんは、いわゆる「ピンク色のゾウ」を探すタイプの子だったのだろうと思います。
ゾウは、普通はゾウの色をしているのですけれども。
しかし、自分のアタマで独創的にものを考える子は、皆とは違う発想で、皆とは違うことを発想するようです。
(ネットで引くと、また違う意味が多く出てきてしまうのですが、「サレジオ学院」という学校のWebページには、評論子の言う意味が出てくるようです。)
今の学校教育は、そういう独創的な子を排除するので、たぶん、あみ子ちゃんにとっても、学校は、決して居心地の良いところではなかったことでしょう。
文部科学省(旧文部省)が決めた学習指導要領のとおりにものを教えなければならない先生方にとっては、本当に「扱いにくい子」だった筈ですから。
加えて、そういう環境下で教育を受けた他の子どもたちも、長じて大人になると、今度は社会の中で、あみ子のような子を「変わった子」「変な子」と見てしまう―。
そういう負の循環(矛盾の拡大生産)が、早く断ち切れて欲しいと思っているのは、独り、評論子だけではないことと、信じたいところです。
(追々記)
哲郎があみ子を実家に置き去りにして(あえて、置き去りといいます)、ひとり夜道をクルマを運転して自宅に帰る道すがら、彼の心中は、どんなものだったのでしょうか。
男手だけで、生活のために仕事を続けながら、家事と育児とをこなしてあみ子を育てる決心ができなかったことを責めることはできないと、評論子も思います。きっと胸が潰れるような思いだったことは、疑いがないと思います。
反面、実は、評論子は安堵も感じてしまっていました。
大学生の頃から、自分で食べるものは自分で作っていたという「経験」かあった評論子は、彼と同じような選択は、することをせずに切り抜けてくることができたからでした。
同時に、そういう経験がもしなかったとしたら、彼のした選択を、評論子は、責めることができないとも思います。
いずれにしても、走り去る父(哲郎)のクルマを見ながら、あみ子の胸も潰れそうに痛んだことは、疑いようもなかったことと、評論子は信じています。
タイトルなし(ネタバレ)
上映後、監督とのり君役の俳優の舞台挨拶があった。この作品、全国ロードショーツアーをしていたそうで、私が観た9月の新文芸坐でちょうど1年経ったとのこと。
あみ子を見ていて、懐かしい子供時代を思い出した。通常の子とは違う感性を持っていて、純粋で自由で、そのせいで周囲の人たちを困惑させてしまう。何かの障害があるのだろうけど、普通の子と同じクラスにいる。
あみ子に優しくしなさいとお母さんに言われて、相手をしてくれるのり君。のり君のことが大好きなあみ子。習字教室で、のり君をこっそり見ているあみ子。
あみ子のお母さんは継母だということが観ていると後でわかる。そして写真撮影のシーンで、このお母さんが少し変だということも。
普段優しいお父さんもあみ子にウンザリすることがある。お兄ちゃんもそうで、だけどあみ子には自分の何が悪いのかわからない。
そして中学生の時、あみ子は酷い目にあう。
このころからあみ子は幻聴が聞こえるようになり、それを訴えるのだが誰も病院に連れて行くなどの処置をしてくれないところがかわいそうだった。
庭の金魚のお墓?のシーンから、「モリのいる場所」みたいな感じの作品かなと思ったが、面白いけどシリアスな展開だった。
あみ子にとってあの事件や家族の事はつらかったのだと思うが、三途の川ではなく、海で、こっちへおいでと呼ぶお化け達にバイバイして、生きることを選択したあみ子。きっと幸せになってくれるだろう。
トランシーバー
成長という生きづらさ。
誰もが通り過ぎた子供の頃の"あの感覚"。
それを持ったまま成長"しない"あみ子。
しかし周りの同級生は成長して思春期を迎えていく。
変わらぬあみ子は次第に同級生と心理的な溝を深めていく。。
あみ子本人はいたって素直。
自分が思うままに話し、生きているだけ。
なのに彼女の奔放すぎる振る舞いによって、周りの大切な人がバラバラになっていく。
あみ子役がもう全く演技に見えなくて、もはやドキュメンタリーを見ているような没入感・実在感。
スクリーンの画角を活かした"見せない"カメラワークや特殊な音響も没入感に拍車をかける。
発達障害の子供と、その子供を抱えた家族の生き辛さ。それを見守る物言わぬ視点。
この包み込むような視点はいったい誰なのだろうか?
そんな事に思いを馳せつつ、エンディングを迎えてその歌詞を聴いていると。
なるほどあみ子の生みの親、今は亡き母親の視点に思えてくるのだ。
残酷な映画ではある。
でも、あみ子はそれでもしゃんと前を向いて歩く事を選んだ。
誰に言われるでもなく、進む事を選んだ。
そんなあみ子の姿勢に一縷の希望があるのかもしれない。
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