こちらあみ子のレビュー・感想・評価
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言葉にできない心の声をきけ!
作品序盤のあみ子が家族の写真を撮る場面、ゆるゆるで大らかな家族だなという印象を受けた。
この段階では、あみ子に対して、ちょっと変わった子くらいの認識だったので、あみ子が変わっているところを家族がよく分かっていて、それを受け入れている優しい家族に見えた。
物語が進み、あみ子が発達障害であろうことが分かってくる。
同じころにあみ子が、家族が崩壊してしまうようなことをしでかす。
こうなると、序盤に感じていたゆるくて優しそうな家族像が間違っていたことに気づき始める。
タイトルの「こちらあみ子」はトランシーバーに向かって言うあみ子のセリフだが、要はあみ子からの呼びかけである。私はここにいる。誰か応えてという呼びかけだ。
裏を返せば、誰もあみ子の呼びかけに応えていないことを意味する。
「お化けなんてないさ」と歌うあみ子の、「だけどちょっと、だけどちょっと、ぼくだってこわいな」のところが「私だってさみしい」と言っているように見えた瞬間に、言葉にできないあみ子の心がガツンと流れ込んできた気がした。
観ていてあみ子の呼びかけに自分も応えていなかったのである。
私が小学生や中学生だったころ同級生にあみ子のような子がいた。今までに数人と関わりをもったことがある。
その時の自分は普通に接していた、つもりだった。バカにしたりしていない、つもりだった。
しかし今考えてみると、自分はあみ子のお父さんとあまりかわらないことに気付いた。
それは、話が複雑化したときや、理由など、言っても解らないだろうと言わなかったことだ。
「なんで?」に対して、真実を言わず、適当に流す。自分は無意識にバカにしていたのである。
つまり、大らかそうに見えた父は、最もあみ子に向き合っていなかったことがわかるのだ。
優しく振る舞っているように見えても、家族として最低限の接触だけをして、あみ子に対する真摯さが足りていないのだ。
序盤に感じていた優しそうな家族は、ある意味で虚構だったといえる。
あみ子が起こした事件によって、頑張って支えようとしていた兄は崩壊。母はもっと直接的なダメージにより崩壊。父はあみ子を更に突き離すようになる。
唯一、あみ子に対して対等で真摯に向き合っていたお調子者のクラスメイトは、あみ子の「ねえ、なんでなん?」という問いに、過去の私とは全く違う理由で「秘密」と答える。
しかしそれは、奇しくもあみ子の孤立を生み出してしまった。
エンディング、怖さを感じるシークエンスだったが、最悪は免れた。
しかし「大丈夫」と答えるあみ子が本当に大丈夫だとは思えない。
あみ子は自分の複雑な感情を言葉にできない。言葉にできない心の声をきけ!
普通だと描かれないけれど視点の特異な映画
この映画のテーマが、「タブー」ですね。
発達障害を持つ小学生の「あみ子」の存在が周囲の人々を
変えて行く。
それが良い方向へ・・・ではなくて悪い影響を与えて
悪い方へ悪い方へ転がっていくストーリーでした。
普通の小説家はこんな発達障害児童の家庭への悪影響。
そんなことをテーマにしませんし、書かないと思う。
タブーです。
障害児の暗い部分、負の側面、家族への悪影響・・・なんて、
書けないですよ。
原作者の今村夏子さんはこの作品などで太宰治文学賞」と
「三島由紀夫賞」を受賞した。
映画からはちょっと離れますが、「こちらあみ子」に作者は
この作品に強い思い入れがあります。
大学卒業後に清掃のアルバイトをしていた、など人付き合いが苦手。
もしかしたら「あみ子」は作者の分身なのかもしれない。
全部、あみこの存在と言動のせい・・・とは限らないけれど、
映画を観てれば、あみ子のせい・・・そう思えてきます。
義母(尾野真千子)が死産したのは、あみ子のせいではない。
しかし庭に「弟の墓」と札を立てて、わざわざお母さんを呼びに行って、
「弟のお墓だよ」と見せつけて、
結果的にお母さんは号泣して、そこから病気がちになり、
精神に不調をきたし、入退院を繰り返す。
優しかった兄は中学で喫煙しはじめて暴走族に入り学校へ行かなくなる。
両親は離婚して、
あみ子は引っ越しとの名目でおばあちゃんの家に連れて行かれ、
お父さんに置いてきぼりにされる。
そしてあみ子の憧れの同級生の「のり君」が、
病んできて、「好きじゃー」あみ子、「殺すー」と、のり君。
「好きじゃー」「殺すー」「好きじゃー」を繰り返して、
結果、のり君はあみ子に暴力を振るい、
それもあみ子に馬乗りになり鼻の骨を折り大出血!!
すごく怖い話です。
それって、あみ子が優しい「のり君」を変えたってこと!?
作家が病んでるのかな?
発達障害児やダウン症の子供が家族にいても、健やかな家庭も多いと
思います。
事実、多動性障害児で手に負えなかった男の子が、
大人になり凄く人の心の分かる中学校教師に成長した例を知っています。
確かに問題提起映画。
障害児が家庭の不幸の連鎖を引き起こす、みたいな視点は
ちょっと極端ですね。
あみ子は少しづつ成長して、空気を読める大人に成長するかもしれない。
もしかしたら、成長しないかもしれない。
だけど「生きたい」と心の底から思っている。
この映画が描いた世界は、パンドラの箱を開けた側面がある。
ホラーよりも怖い映画でした。
印象に残る映画
てんとう虫やカエルをアップしているシーンの意図を知りたい。
あみ子が怖がるベランダからの音の正体がわかって良かった。
わからないのは怖い。
広島弁で話す自然な雰囲気がとても良かった。
”秘密だらけの世の中”イコール”みんな何考えてるかわからない世の中”イコール”怖いオバケの世界”。
最後にオバケたちにサヨナラしたのは面白い描写だと思った。
今作では描かれていないが、ラストの後、おばあちゃんとどのように過ごし、どう成長していくのか楽しみだ。希望の持てる終わり方だった。
エンディングで流れた主題歌『もしもし』(作詞・作曲:青葉市子)が、とても素敵な曲で尾を引く。
あみ子からのメッセージ
観ていて何だか苦しくなった。
あみ子には、
言っても分からないかもしれないが、
言わないと関係は変わらない。
あみ子は多分変わらないから、
周りの人が変わるしかないのかな。
難しいけど。
あみ子への伝え方はお兄ちゃんの
ホクロかお母さんかの例えが良かった。
あみ子が引っ越す前に級友の男の子に
自分の変なところを一から教えてと
言ったけど、その男の子が
秘密と言って言わなかったのは
優しさからだけれども。
しんど過ぎたのと、なぜ作ったのかが全く理解できなかった
予告やいろんな媒体の宣伝、ネタバレに警戒し高評価のレビュー内容は確認せずポイントだけを見て鑑賞したところ、予想外の作品だったので面食らいました
ADHDの方々とそのご家族・周囲の方々のご苦労は他人には理解できないほどの心底計り知れないものがあると思っていますので、容易く手をかけるべきではないテーマだと思いました
本作を高評価する寛容な気持ちにはとてもなれず、むしろこういうのをフィクションの映画で作る意図が全く理解できないな、という一言が私の感想です
昨年「福田村事件」「月」など実話の映像化作品を観て震える思いをし、その事を残す偉業に挑んだ作り手へ敬意を感じ素晴らしいと思いましたが、本作はそれらとは全く次元の違う事だと思いました
久々にずんと重たかった一本
<映画のことば>
ちゃんと宿題をして、毎日学校にも行って、先生の言うこともちゃんと聞けるんなら(お習字を)やってもいいですよ。できますか。
授業中に歌を歌ったり、机に落書きしたりしてませんか。ボクシングも、はだしのゲンも、インド人も、もうしないと約束できますか。できるんですか。できますか。
さゆりさん(お母さん)から、矢継ぎ早に厳しく問い詰められた時の、なんとも言えない、あみ子の表情が、評論子には印象的でした。
題名にも関わってきますが、本作では、トランシーバー(あみ子への誕生日のプレゼントとして両親から贈られた)も、大切な意味を持っていると思います。評論子は。
もちろん、トランシーバーは通信機器なのですけれども、言い直せば、それは離れている「こちら側」(自分)から「向こう側」(通信の相手側)に繋がるもの。
自分自身でしっかりと持っている、あみ子の世界から、物理的にはつながっていても心理的にはそれとは完全に隔絶されている他外界(他者の世界)とを繋ぐモチーフとなっていたように思われます。
反対に言えば、そういう手段だけで外界と繋がっている、あみ子の閉塞的な世界を象徴するものなのだと思います。評論子には。
久しぶりに、観終わって「ずんと重たい」一本を引き当ててしまったというのが、偽らざる実感です、評論子としては。
反面、秀作としての評価に値する一本でもあったと思います。評論子は。
(追記)
たぶん、あみ子ちゃんは、いわゆる「ピンク色のゾウ」を探すタイプの子だったのだろうと思います。
ゾウは、普通はゾウの色をしているのですけれども。
しかし、自分のアタマで独創的にものを考える子は、皆とは違う発想で、皆とは違うことを発想するようです。
(ネットで引くと、また違う意味が多く出てきてしまうのですが、「サレジオ学院」という学校のWebページには、評論子の言う意味が出てくるようです。)
今の学校教育は、そういう独創的な子を排除するので、たぶん、あみ子ちゃんにとっても、学校は、決して居心地の良いところではなかったことでしょう。
文部科学省(旧文部省)が決めた学習指導要領のとおりにものを教えなければならない先生方にとっては、本当に「扱いにくい子」だった筈ですから。
加えて、そういう環境下で教育を受けた他の子どもたちも、長じて大人になると、今度は社会の中で、あみ子のような子を「変わった子」「変な子」と見てしまう―。
そういう負の循環(矛盾の拡大生産)が、早く断ち切れて欲しいと思っているのは、独り、評論子だけではないことと、信じたいところです。
(追々記)
哲郎があみ子を実家に置き去りにして(あえて、置き去りといいます)、ひとり夜道をクルマを運転して自宅に帰る道すがら、彼の心中は、どんなものだったのでしょうか。
男手だけで、生活のために仕事を続けながら、家事と育児とをこなしてあみ子を育てる決心ができなかったことを責めることはできないと、評論子も思います。きっと胸が潰れるような思いだったことは、疑いがないと思います。
反面、実は、評論子は安堵も感じてしまっていました。
大学生の頃から、自分で食べるものは自分で作っていたという「経験」かあった評論子は、彼と同じような選択は、することをせずに切り抜けてくることができたからでした。
同時に、そういう経験がもしなかったとしたら、彼のした選択を、評論子は、責めることができないとも思います。
いずれにしても、走り去る父(哲郎)のクルマを見ながら、あみ子の胸も潰れそうに痛んだことは、疑いようもなかったことと、評論子は信じています。
上映後、監督とのり君役の俳優の舞台挨拶があった。この作品、全国ロ...
上映後、監督とのり君役の俳優の舞台挨拶があった。この作品、全国ロードショーツアーをしていたそうで、私が観た9月の新文芸坐でちょうど1年経ったとのこと。
あみ子を見ていて、懐かしい子供時代を思い出した。通常の子とは違う感性を持っていて、純粋で自由で、そのせいで周囲の人たちを困惑させてしまう。何かの障害があるのだろうけど、普通の子と同じクラスにいる。
あみ子に優しくしなさいとお母さんに言われて、相手をしてくれるのり君。のり君のことが大好きなあみ子。習字教室で、のり君をこっそり見ているあみ子。
あみ子のお母さんは継母だということが観ていると後でわかる。そして写真撮影のシーンで、このお母さんが少し変だということも。
普段優しいお父さんもあみ子にウンザリすることがある。お兄ちゃんもそうで、だけどあみ子には自分の何が悪いのかわからない。
そして中学生の時、あみ子は酷い目にあう。
このころからあみ子は幻聴が聞こえるようになり、それを訴えるのだが誰も病院に連れて行くなどの処置をしてくれないところがかわいそうだった。
庭の金魚のお墓?のシーンから、「モリのいる場所」みたいな感じの作品かなと思ったが、面白いけどシリアスな展開だった。
あみ子にとってあの事件や家族の事はつらかったのだと思うが、三途の川ではなく、海で、こっちへおいでと呼ぶお化け達にバイバイして、生きることを選択したあみ子。きっと幸せになってくれるだろう。
トランシーバー
笑いもあるが笑えない。画面を境にして安全地帯にいる我が身にあって、偽善者にすらなれないであろう不寛容な自分に鞭を打つ。誰が救えようか。あみ子にとってはその人生だけが与えれたもの。他人から不幸に見えても、本人にとっては比較はできない。拒絶されれば心中にて語りかける。発達障害の話ではない。一方通行のトランシーバーは誰にもあること。辿る道は険しいが、怖くなんてない。海に入って浮かぶ幻想に訣別するシーンは相米映画を思い起こす。「おめでとうございます」と言ってあげたい。
成長という生きづらさ。
誰もが通り過ぎた子供の頃の"あの感覚"。
それを持ったまま成長"しない"あみ子。
しかし周りの同級生は成長して思春期を迎えていく。
変わらぬあみ子は次第に同級生と心理的な溝を深めていく。。
あみ子本人はいたって素直。
自分が思うままに話し、生きているだけ。
なのに彼女の奔放すぎる振る舞いによって、周りの大切な人がバラバラになっていく。
あみ子役がもう全く演技に見えなくて、もはやドキュメンタリーを見ているような没入感・実在感。
スクリーンの画角を活かした"見せない"カメラワークや特殊な音響も没入感に拍車をかける。
発達障害の子供と、その子供を抱えた家族の生き辛さ。それを見守る物言わぬ視点。
この包み込むような視点はいったい誰なのだろうか?
そんな事に思いを馳せつつ、エンディングを迎えてその歌詞を聴いていると。
なるほどあみ子の生みの親、今は亡き母親の視点に思えてくるのだ。
残酷な映画ではある。
でも、あみ子はそれでもしゃんと前を向いて歩く事を選んだ。
誰に言われるでもなく、進む事を選んだ。
そんなあみ子の姿勢に一縷の希望があるのかもしれない。
社会派 ヒューマンドラマ
あみ子のイージーではない人生模様を描いた作品
レビューより考察を見た方が深く作品を知れると思うけども感想を少し。
あみ子は金鳳花の花言葉のような性格
お父さんは家庭を顧みない仕事人間
お母さんは義母で心が弱い
お兄さんは心優しい子だけどグレる
のり君はマザコン
橘高亨牧はトトロの勘太くんみたいに良い奴
胸糞レビューがあるけど当事者でなければハートフルにも思える作品。
お父さんがネグレストってのは勘違いだと思う、男親だけならレンチンの食事は普通だろうし積極的に会話をしようともしない、あみ子を抱えて病院に走ってるシーンを見たのか疑問、おばあちゃんに預けるのもイジメを悟ってセーフティーの最適解として選ばれた場所だと思う。
初見だと見逃しも多いのでDVDなどで繰り返し見直すと考えさせられる作品になると思うよ!
油断禁物の傑作!
「いやぁ~、こういう映画と出会えるから、映画観るのは止められない」と思う力作。
子供の純真さをそのまんま行動・発言に出してしまう「あみ子」だが、あみ子の行動・発言が大人の心臓をえぐるような事もある。また、そうした「あみ子」に降りかかる災いのような出来事の数々にも耐えて元気に……という姿から、元気をもらえる気がする。
広島に住むランドセル背負った小学生のあみ子は、書道教室の先生をしている母親(尾野真千子)と家族を見守る父親(井浦新)、そして兄がいる。
ここで母親が「あみ子さん」と呼ぶので「実母じゃないんだ…」と思うが、母親のアゴに大きなホクロ。「尾野真千子のアゴにホクロ有ったっけ?…にしても大きすぎる?」と思っていると、カメラがしっかりズームして笑える(笑)
こうした風景を見ると「家族の楽しい物語なのだろうか?」などと思ってしまうが、トンデモナイ展開でビックリ!
油断禁物である(笑)
印象的なのは、映画開始しばらくは「小津監督好きなのかな?」と思わせるようなローアングル=あみ子目線で描かれるのだが、このあたりから気になる雰囲気。
この映画、森井勇佑という監督の作品で、長編監督デビュー作。
いきなり凄い映画を撮りあげたものだ。 傑作!
<映倫No.123025>
100億個
原作既読の為驚きなく見れた。原作の方がもっとオドロオドロしくあった気がする。怪我の部分も変わり、仕方ないのだろうけどそこはちょっと原作の中では大切な部分である気がする。原作でもあみ子目線なのでわからない所が多いまま話しが進んでいくのだが、誰もが救われない感じ。終わりは原作の方がら良かったかな?
愛すべき厄介者
発達障害のある女の子のお話。本人に悪気が無いのは十分承知の上で敢えて…残念ながらあみ子に全く共感出来ませんでした。誰が悪いわけでもなく、あみ子にとっては生きずらい世界なのでしょう。あみ子(回りの人達も)の今後に幸あれと願わずにはいられません。
メッセージ性と創造性と優先順位はどちらが上?
2022年キネマ旬報ベストテン第4位、森井勇佑監督作品。
いやぁ~、凄い作品です。凄いというより問題作といった方が適切なのでしょう。
しかしこれだけ長く映画を見続けていても、こういう作品をどう捉えるべきなのか?、私はこの歳(もうすぐ70代)になっても分からないのですよ。
こういうテーマ性の作品は映画ファンの為だけの作品ではないし、キネ旬ベスト4(通好み)っていうのもどうなのかって気もします。
本作は映画通からすると間違いなく優れた作品なんですが、優れた芸術性よりも分かりやすさの方が一般観客には効果的でもありますからね。その辺りの評価が難しいです。
ある精神疾患を持つ子供をかかえた家族の物語なのですが、同じ様な疾患を持つ人たちとその家族が鑑賞すれば様々な思いが駆け巡り何らかの影響を与えることは確実の作品です。
私の姪の今年5才になる娘も発達障害といわれていて、いまだに会話が出来ない状況なのですが、私ら遠くから見守るだけの存在でも、こういう作品を見るとその子の将来に対して様々な思いが湧き上がりますしねぇ。
しかしまあ、個人的には鑑賞して良かったとは思いましたが…
あみ子が切ない
物語早々にあみ子に障がいがあるのがわかる。
当然のように差別されるシーンもあり、中々普通の子どもと同様にいかない様は観てるこっちが辛い。
障がいに幻聴、幻視まで出てくるあみ子を観ているとこの作品が軽いものでは無くなってくる。映像化してお化けに扮した人物があみ子について来始めると厳しい。
兄貴はグレて暴走族入り、死産した母はうつ病になり、父親は家族を放棄して離婚、あみ子は祖母に引き取られ田舎へ…。
頭から終わりまであみ子はあみ子なりに生きているのだが、障害児にありがちな不潔、拘り、多動と理解されない様は悲しい。
作品の世界観としては差別にイジメは冷然として存在し、執拗に絡んでしまった“のりくん”にはぶん殴られるし、あみ子を包む世界は果てしなく厳しい。
終盤、習字教室に来ていた名も無き同級生男子が予想外に優しかったり、 あみ子なりに状況を理解しており、情緒的にも全く成長しない訳ではない事や何処かに誘おうとするお化けの集団にさようならと手を振るあみ子に幸せを祈ってしまう。
あみ子を排除するのは誰か
大前提として、作り手、受け手、ともに誰もあみ子ではない、むしろあみ子を排除する側の人間であるという認識がもてないのならば(そう感じさせられないのであれば)こういった映画は当事者(本当にあみ子である人間、そしてその家族)にとって悪夢でしかないと思います。
あみ子は「少し風変りな女の子」と設定されていますが、母親はじめ周囲の対応、でてくるエピソードなどから、発達障害であることが示唆されています。はっきりした明示を避ける表現は、受け手にあみ子が自分と地続きであるかのように感じさせることができる(あみ子をカテゴライズして自分と区別してしまわない)ため、作品の間口を広げたり、想像力や理解を促進する(他人事ではないと思わせる)
効果があります。
がしかし、現在の日本のように、発達障害(に限らずマイノリティ全般)に適切な理解も支援もない社会においては、カテゴライズを避けることがそのままその問題をスルーすること、あるいはただ問題を矮小化することにつながりがちです。「みんな色々辛いよね、私もそう。普通の人なんていないよ!だから一緒に頑張ろう」…というように、全て共感ベースの話に集約されてしまいます。
相手は自分と同じ人間であっても、全く別の人間である。このことは、健常者同士であっても常に認識していなければならないことだと思うのですが、病気や障害においてはなおのことだと思います。何故ならその大変さの中には、周囲や社会の理解が進むことで改善される部分が沢山あるからです。
病気や障害をもった人だけが大変だと言いたいわけではなく、誰にとっても生きることがそれなりの困難を伴う中で、自分の感じている大変さと(この映画の場合)発達障害やそれに近い性質の人およびその家族が抱えている大変さを同様のものとして捉えてしまうと、寄り添うつもりが相手を傷つけることにもなりかねないということ……本来ならそれはどんな人間関係でも言えることだと思いますし、病気や障害の場合は特に、一般的に善として語られる共感こそが、理解を遠ざけ、支援など福祉方面の充実につながりにくくなるという問題が生じがちだと感じます。
現に、「かつて私はあみ子だった」と共感に似た感想をのべる人を沢山見かけましたが、発達障害のような性質は、治るものではないどころか、多くの人が成長にともなってより苦しみを抱えることになります(成人したあとに二次障害で生活が困難になる人が多い)。監督はじめ、「かつて自分は~」と思うような人は、あみ子ではない可能性の方が高いのです。映画の中で、家族の中で、クラスの中で、あみ子が(現実的な意味で)ひとりぼっちだったことからしてみても、「世界に存在する大半の人はあみ子ではない」と考えるべきだと思います。しかしこの映画自体の目線は、主人公の私的な目線に徹底して同一化しつづけることで受け手が自分はあみ子側にいる
と錯覚しやすくなるよう作られており……それは監督の狙いそのものなのだろうと思うのですが、そもそもその監督、主人公、受け手の目線を一体化させることによって、現実に存在する発達障害児童やそれをとりまく問題を、「発達障害でない人や何も知らない人の共感ベース」に矮小化してしまっていることが問題なのだと思います。現実には、周りの大人がここまであみ子(非定型発達とおぼしき児童)を放置しておくはずがなく、この異常な状況は「リアルを描いている」というよりは受け手に発達障害を認識させないようにするための「逃げ」のような設定であり、一方でノリくんとの関係など、出てくるエピソードは発達障害に典型的な例を用いているとこ
ろが(原作通りとはいえ)タチが悪いなと感じます。発達障害を感じさせたくないのであればオリジナルのエピソードを考えるべきですし、発達障害を無視できないと思うのであればむしろ、周りの大人の苦悩に多くの行動が伴っていないのは(昭和初期の設定なら別ですけど…)、リアリティがなさすぎておかしいし当事者に失礼です。ファンタジーかリアリズムのどっちかにふりきれる必要はないけれど、この作品はそのどちらもを言い訳に使いながら往復している印象を受けます。
映画として美しいかどうか、俳優が素晴らしいかどうか、という以前に、現実社会に存在する、当事者にとって切実な問題を
、その問題点については巧妙に避けながら創作のモチーフにする……その必然性は、本当にあるのでしょうか?そもそも発達障害を感じさせる主人公がいる映画のヒットで、発達障害に対する偏見が根強くなってしまったという過去は、映画に関わる人間なら当然知っているはずです…… 結局監督側の鈍感さの問題だという気がします。正しいことをする必要はないし、社会問題にとりくめという話でもないです。ただ、当事者がいるモチーフには、もっと繊細に取り組んでほしかった。
監督は「自分の中のあみ子」を大事に創作したつもりなのだろうと思いますが、私には、この映画の公開が、あみ子の可能性(理解や支援)を奪い、共感という名目を隠れ蓑にした見えない排除(そうしている本人たちですら気づかない)を促すもののように思えてとても辛かったです。映画としての完成度は極めて高いと思いますが、原作だけでなくそれがうけた批判などもちゃんと読んで咀嚼できていなかったのかな、と思ってしまいます。今後の作品でまた自分の中の大切にしているものを表に出すなら、もっと繊細な振り返り作業をしてほしいと切に願います
今世紀一番しんどかった映画
純粋無垢とか素直とかいうのは簡単だし、力強く生きてほしいとか言うのも簡単。
継母は心が壊れた。
10円ハゲが出来た兄は家に帰らなくなった。
父はあみ子を持て余して捨てた。
確かに親を含めた身近な大人に知識とサポートが有ればあみ子にとって、そして周囲の人間にとって別の未来があったと思う。
でもこの結末はどうしようも無い。
発達障害的なものと思うけど、今もきっとどこででも起こりうる事だと思う。
お化けに呼ばれて海に入らなかったあみ子。
大丈夫、じゃないんだよ。と思う。
周りは全然大丈夫じゃない。
だからせめて、ひとかけらの客観性を持たずに生き続けてほしい。
ひたすら己の内側の声にだけ耳を澄ませて生きてほしい。
海に入らなかったのなら、お化けについて行かなかったのなら、最後まで何にも耳を貸さず貫いてほしい。
などと作中のあみ子に辛くなるのは、家族やのり君に申し訳なくなるのは、あらゆる場所でズレた発言行動をし続け、周りに人が居ないまま中年になり、先日ADHDだと診断された私だからだと思う。
自分を振り返り自己嫌悪に陥るには十分過ぎるほどの客観性があり、そして決意も決心もいつもあっという間に忘れてしまう毎日を過ごす私には、この映画は辛過ぎる。
ということで見返す事は絶対無いと思うし、冷静になって評価が出来ないけど(星の数は0にも5にも出来ないので2.5とします)、この映画の存在を、私自身を忘れないように残します。
あみ子はわたし…。
素直さは時にひとを傷つける。そんななかで、社会の慣習やルールに従属することを選ぶか、ひとと関わることを拒絶して生きることを選ぶか。息を殺して生きていくことの、なんて息ぐるしいことか。
全100件中、21~40件目を表示