「あみ子を排除するのは誰か」こちらあみ子 モモさんの映画レビュー(感想・評価)
あみ子を排除するのは誰か
大前提として、作り手、受け手、ともに誰もあみ子ではない、むしろあみ子を排除する側の人間であるという認識がもてないのならば(そう感じさせられないのであれば)こういった映画は当事者(本当にあみ子である人間、そしてその家族)にとって悪夢でしかないと思います。
あみ子は「少し風変りな女の子」と設定されていますが、母親はじめ周囲の対応、でてくるエピソードなどから、発達障害であることが示唆されています。はっきりした明示を避ける表現は、受け手にあみ子が自分と地続きであるかのように感じさせることができる(あみ子をカテゴライズして自分と区別してしまわない)ため、作品の間口を広げたり、想像力や理解を促進する(他人事ではないと思わせる)
効果があります。
がしかし、現在の日本のように、発達障害(に限らずマイノリティ全般)に適切な理解も支援もない社会においては、カテゴライズを避けることがそのままその問題をスルーすること、あるいはただ問題を矮小化することにつながりがちです。「みんな色々辛いよね、私もそう。普通の人なんていないよ!だから一緒に頑張ろう」…というように、全て共感ベースの話に集約されてしまいます。
相手は自分と同じ人間であっても、全く別の人間である。このことは、健常者同士であっても常に認識していなければならないことだと思うのですが、病気や障害においてはなおのことだと思います。何故ならその大変さの中には、周囲や社会の理解が進むことで改善される部分が沢山あるからです。
病気や障害をもった人だけが大変だと言いたいわけではなく、誰にとっても生きることがそれなりの困難を伴う中で、自分の感じている大変さと(この映画の場合)発達障害やそれに近い性質の人およびその家族が抱えている大変さを同様のものとして捉えてしまうと、寄り添うつもりが相手を傷つけることにもなりかねないということ……本来ならそれはどんな人間関係でも言えることだと思いますし、病気や障害の場合は特に、一般的に善として語られる共感こそが、理解を遠ざけ、支援など福祉方面の充実につながりにくくなるという問題が生じがちだと感じます。
現に、「かつて私はあみ子だった」と共感に似た感想をのべる人を沢山見かけましたが、発達障害のような性質は、治るものではないどころか、多くの人が成長にともなってより苦しみを抱えることになります(成人したあとに二次障害で生活が困難になる人が多い)。監督はじめ、「かつて自分は~」と思うような人は、あみ子ではない可能性の方が高いのです。映画の中で、家族の中で、クラスの中で、あみ子が(現実的な意味で)ひとりぼっちだったことからしてみても、「世界に存在する大半の人はあみ子ではない」と考えるべきだと思います。しかしこの映画自体の目線は、主人公の私的な目線に徹底して同一化しつづけることで受け手が自分はあみ子側にいる
と錯覚しやすくなるよう作られており……それは監督の狙いそのものなのだろうと思うのですが、そもそもその監督、主人公、受け手の目線を一体化させることによって、現実に存在する発達障害児童やそれをとりまく問題を、「発達障害でない人や何も知らない人の共感ベース」に矮小化してしまっていることが問題なのだと思います。現実には、周りの大人がここまであみ子(非定型発達とおぼしき児童)を放置しておくはずがなく、この異常な状況は「リアルを描いている」というよりは受け手に発達障害を認識させないようにするための「逃げ」のような設定であり、一方でノリくんとの関係など、出てくるエピソードは発達障害に典型的な例を用いているとこ
ろが(原作通りとはいえ)タチが悪いなと感じます。発達障害を感じさせたくないのであればオリジナルのエピソードを考えるべきですし、発達障害を無視できないと思うのであればむしろ、周りの大人の苦悩に多くの行動が伴っていないのは(昭和初期の設定なら別ですけど…)、リアリティがなさすぎておかしいし当事者に失礼です。ファンタジーかリアリズムのどっちかにふりきれる必要はないけれど、この作品はそのどちらもを言い訳に使いながら往復している印象を受けます。
映画として美しいかどうか、俳優が素晴らしいかどうか、という以前に、現実社会に存在する、当事者にとって切実な問題を
、その問題点については巧妙に避けながら創作のモチーフにする……その必然性は、本当にあるのでしょうか?そもそも発達障害を感じさせる主人公がいる映画のヒットで、発達障害に対する偏見が根強くなってしまったという過去は、映画に関わる人間なら当然知っているはずです…… 結局監督側の鈍感さの問題だという気がします。正しいことをする必要はないし、社会問題にとりくめという話でもないです。ただ、当事者がいるモチーフには、もっと繊細に取り組んでほしかった。
監督は「自分の中のあみ子」を大事に創作したつもりなのだろうと思いますが、私には、この映画の公開が、あみ子の可能性(理解や支援)を奪い、共感という名目を隠れ蓑にした見えない排除(そうしている本人たちですら気づかない)を促すもののように思えてとても辛かったです。映画としての完成度は極めて高いと思いますが、原作だけでなくそれがうけた批判などもちゃんと読んで咀嚼できていなかったのかな、と思ってしまいます。今後の作品でまた自分の中の大切にしているものを表に出すなら、もっと繊細な振り返り作業をしてほしいと切に願います
本当にその通りだと共感しました。絶賛のレビューも多いので自分がズレているのか?と不安になったりもしたのですが・・・。宣伝方法含め、大きな疑問を感じます。
こうした問題を扱う場合は、映画の完成度が高ければよいというわけではないと思います。