「このショートケーキが人生の総量」ベイビーわるきゅーれ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
このショートケーキが人生の総量
脱力系×バイオレンスという組み合わせはコーエン兄弟『ファーゴ』やタランティーノ『パルプ・フィクション』という偉大な先鋭らが座していて意外にも難関なのだが、それらに劣らない傑作だったように思う。
「殺し屋の女子高生」などといういかにもタランティーノ的な2人組(ちさと、まひろ)がこの映画の主人公なのだが、「女子高生」という表象がもたらすお決まりのイメージを張り手で押し返すパワーとリアリティがあった。
彼女たちの標的はおしなべて屈強な男たちだが、彼女たちはまるでタイムカードを切るように易々と引き金を引く。さっきまで楽しげに談笑していたってお構いなしだ。男たちの必死の命乞いもガン無視。その横で他愛もない雑談に花を咲かせる。彼女たちにとって人を殺すことはその程度の意味しか持たない。
後半になると本物のヤクザや喧嘩のプロといった錚々たるメンツがこぞって彼女たちの前に立ちはだかるのだが、昭和から連綿と続く仁義の魂も平成の内閉的なストイシズムがもたらす鋭い暴力性も、彼女たちの前では等しく価値がない。お前らの時代は終わったんだよ!とでも言わんばかりに2人の新暴力が景気よく炸裂する。
そうそう、幕間に挟まる雑談もまた素晴らしい。「野原ひろしの格言で説教してくる奴ウザい」「ジョジョ知らないのにいちいちジョジョのセリフで返事すんな」「バイト落ちた」「香水つけすぎ」。
この他愛もなさ、まさにファミレスで耳に入ってくる女子高生の会話そのものだ。『デス・プルーフ』の前半部の会話劇みたいな。しかし彼女たちが死ぬか生きるかの危険な稼業に身を置いていることを踏まえれば、これらの雑談が彼女たちにとっていかに痛切でかけがえのないものであるかが伺えるというもの。
それにつけても巧いのは彼女たちの言葉遣いの塩梅だ。シニシズムとアレゴリーを基調とした冷めた物言いはまさにZ世代そのものといった感じだが、それが単なる形態模写に留まっていない。たとえばちょっとでも時代遅れな言い回しを誰かがすれば「それまだ使う人いるんだ笑」という彼女たちの容赦ないツッコミが入る。要するに彼女たちにはものすごく自信がある。自分たちが最先端なのだという堂々たる自負を持ったうえで発話をしている。
現代/現在の言葉遣いを取り入れようとしておかしな空転が生じている作品が山ほどある中で、最先端の心づもりをかなり精密に汲んでいる作品だなと感心した。
2人の服装に関しても文句ナシだ。外交性の高いちさとはショート丈の英字スウェット、オーバーサイズカーディガン、ベロアワイドパンツ、キルティングジャケット、converseといったTHE・現代JKといったスタイルで、一方内向的なまひろは「忘れらんねえよ」のスウェット、ゴシックなバンドT、暗色系デニム、絵文字の総柄ロンT、ジップアップパーカー、スポーツ系ナイロンジャケット、VANSといった所謂ボーイッシュオタクスタイル。両者ともにTikTokからそのまま飛び出してきたかのような出立ちだ。何がいいって出てくる服がみんなQoo10やらSHEINやらで揃いそうなところだ。一式予算5000円くらいで。
中盤にはメイド喫茶でバイトを始めたちさとが、奨学金で大学に通うメイドの先輩をしきりに「貧乏」と形容するシーンがある。しかし2人の関係は悪化するどころかむしろ親密なものとなる。Z世代にとってもはや貧困は隠すべきスティグマなどではなく、一定の確率で付与されるバッドステータス程度の認識になってしまっていることの証左だろう。
そういえば序盤のちさととまひろの雑談シーンでも「増税が悪い」「社会が悪い」というやりとりがあったが、実のところここはけっこう本質的なシーンなのではないかと思う。「失われた30年」を全身に浴び続けてきたZ世代にとって、社会とは基本的に憎むべき敵なのだ。敵、という表現は大袈裟かもしれないが、少なくとも同じ場所にいる味方ではない、とはいえる。
事実、ちさともまひろも近縁の人間関係については深く頭を悩ませることはあるものの、それ以外のものに関してはほとんど関心さえ寄せない。内輪には徹底的に優しく、外部には徹底的に冷たく、という極端な情緒配分。わかるわかる。私もそうだ。
そもそもちさととまひろはどうして殺し屋などという危険な仕事をしているのだろうか。まひろは自分のことを「社会不適合者」と嘲ったが、裏を返せばそれは、彼女のような人間を受け入れる素地が日本に存在しないということなのではないか。落伍者たちの最後のセーフティネットとしての「殺し屋」。
もし「殺し屋」という設定が何かのアレゴリーだとすれば、それはキャバクラやソープといった風俗業のことを指すといえるかもしれない。風俗業もまた、高給と自由の代わりに自身の身体的安全を差し出すという点では殺し屋と大差がない。
最終決戦前、ちさととまひろは食べようとしていたショートケーキを冷蔵庫の中にしまう。「この戦いが終わったら…」というお決まりの約束を交わして決戦に繰り出すのだ。カゴ付きの自転車で。
しかし生きるか死ぬかの戦いを乗り越えるための願掛けアイテムがたかだか数百円のショートケーキというのはあまりにも物悲しい。思えばちさととまひろは殺し屋稼業で潤沢な資金を得ているはずなのに、彼女たちの食べるものは軒並み貧相だ。具の少ないおでん、硬そうなフランスパン、300円の団子、何かの煮物など…バブル以降少しずつ日本を蝕み続けている貧困は、今や精神の領域にまで入り込んでいるのかもしれない。したがって、たかだか数百円のショートケーキに自分のたちの命運を賭けてしまえるのだ。
そして彼女たちは欺瞞と不条理に満ちた戦地に向かう。まあなんとかなるだろ、という持ち前の軽いメンタルで。しかしそこにはオプティミズムというよりはむしろ諦観のようなものを感じる。そうでも思っていなければやっていられないような不安が彼女たちの目の前にあるかのようだ。
殺し屋稼業は確かに割がいい。しかしそれがいつまで続くかはわからない。任務途中で死ぬかもしれないし、会社が倒産するかもしれない。そうなったらいよいよおしまいだ。だから彼女たちは笑う、軽視する、冗談を飛ばす。正気でい続けるために。
現代社会の下層に生じた歪みを、怒りと悲しみによって直接抉り出すのではなく、あくまでシニカルな笑いによって逆説的に提示しているという点では中島哲也『嫌われ松子の一生』を彷彿とさせる。あるいは山野一『四丁目の夕日』か。
しかし私はこういう作品がとても好きだ。ひとしきり笑ったあとでじわじわと滲み出してくるシリアスほどシリアスなものはない。阪本監督の他の作品もぜひ観てみたくなった。