「三者三様の「想い」」太陽とボレロ talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
三者三様の「想い」
<映画のことば>
俺、思うんだけど。
好きなことってさぁ、本気でやろうと思ったら、何かを犠牲にしなきゃ出来ないよね。
少なくとも前の年度から交付を当てにしていた市役所の補助金もままならず、銀行との融資交渉も難航。スポンサー企業からも支援に難色を示され、おまけに肝心要の指揮者まで病に倒れてしまうー。
そんな二重苦、三重苦の中で、今は亡き父から引き継いだ、アマチュア楽団・弥生交響楽団の延命を図りたいー。
そんな娘(女性理事長)の気持ちが、ジリジリと画面から伝わるようでした。
その一方で、それぞれの団員たちも(活動歴の長短は問わず)、またそれぞれに弥生交響楽団についての想いがあった。
(その想いは、上掲の映画のことばに、如実に結実しているというべきでしょう。)
その「想い」が、却(かえ)って楽団の最後を飾るべき、お別れコンサートを暗礁に乗り上げさせるー。
しかし、そこは、流石(さすが)は指揮者として楽団を取りまとめていた藤堂のこと。
病床にはあっても、そんな花村理事長や団員の気持ちを、ちゃんと知っていた。
そして、密(ひそ)かに手を回し(自分に残された人脈を駆使して?)最後の最後の「奥の手」を打っていたー。
花村理事長と鶴間社長が、ラストコンサートの相談に藤堂の病室を訪問しようとしたとき、病院の廊下で、さりげなくすれ違ったのは(病床に藤堂を訪ね、その藤堂から、お別れコンサートの指揮を依頼された)サングラス姿の西本智実だったと思います。
(藤堂と西本智実との関係性は、本作の詳しく描くところではありませんけれども、病院の屋上?のテラスで、西本の指揮のCDを聴きながら眠り込んでしまっていた藤堂が目覚めるのを、辛抱強く待つ西本の姿から、その二人の関係性も、決して浅いものでないことが窺われます。)
その三者三様の楽団に対する「想い」に思いが至ると、本当に、胸が痛くなりそうです。評論子は。
本作は、テレビの映画紹介番組でトレーラーを見かけ、また『相棒』シリーズなどで長く俳優として活動して来られた水谷豊の監督作品として、鑑賞することとしたものでした。
そして、その期待を裏切らない佳作であったことは、間違いがないと思います。
(追記)
<映画のことば>
素晴らしい演奏は、空気をさざ波のように揺らします。そして、そのさざ波が人々を包み、心を揺らします。
私がクラシック音楽を続けてきたのは、人々の心を揺らしたかったからです。
残念ながら、弥生交響楽団は解散します。
でも、皆さん、どうか音楽を辞めないで下さい。
どこにいても、いつでも、独りでも、音楽はできるのですから。
そして、信じて下さい。音楽は、神様が与えた、人々を幸せにする最高のマジックだということを。
クラシックのコンサートが好きな評論子には、楽しい一本でした。
そもそも、映画は「総合芸術」な訳ですから、題材としてのクラシック・コンサートとも相性が悪いわけはないはずです。
映画とクラシック音楽…その両方をいっぺんに楽しめるものを趣味にできて、幸せだとも思います。
(追記)
「演技が上滑り」という、反対の評も、充分に有り得るとは思うのですけれども。花村理事長を演じた檀れいの演技には。自分が理事する交響楽団が解散の危機に瀕しているのに、時に笑みすら浮かべる、この柔和な、穏やかな表情での、この演技は。
しかし、評論子は「いいなぁ」と思うのです。彼女のこの演技は。
本当に困った時こそ、余裕(ユーモア)を忘れないことが大切だという意味では。
軽快なダンス音楽である「ボレロ」(三拍子のスペインの舞曲)が題名に入っていることの意味だとも理解ができそうです。
(お別れコンサートは、西本が指揮を執ることを伝えられた時の、花村理事長のお茶目なはしゃぎようも、評論子には忘れられません。)
世上、生命保険などの勧誘員は、女性であることが多いですけれども。
この仕事は、男性にはあまり向かないと聞いたことがあります。かつて評論子か担当していた仕事の関係でお会いした、その勧誘員を束ねる立場の方から。
つまり、断られても断られても、笑顔で「朝訪」「夕訪」に通うことには、女性ならではの辛抱強さが必要と聞いたことがあります。
(男性は、三度くらい断られると、もうへこたれてしまって、通えなくなるとか。)
飽くまでも、評論子の伝聞の限りですけれども。
楽団の維持・再起に懸ける女性理事長・花村の覚悟と執念とが、実はそこに見えていたと言ったら、それは、評論子の穿(うが)ち過ぎというものでしょうか。