「潔いラストに感動した」クレッシェンド 音楽の架け橋 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
潔いラストに感動した
前から思っていたが、人は他人をカテゴリーに分類して、その特性を決めつけてしまう傾向にある。その一方で、自分が分類されて決めつけられるのは断固として拒否する傾向にもある。
カテゴリーの最たるものは国家という共同幻想であり、その国民である。たとえば外国人から、日本人は〇〇だと否定的な決めつけをされると、日本人全部が〇〇という訳ではない、少なくとも私は違う、と反論するだろう。
その癖、ときにはそんなことも忘れて、アメリカ人は〇〇だと決めつけたりする。何を隠そう当方自身の経験だ。お恥ずかしい限りである。しかしひとつだけ言い訳をすると、言った途端に我に返り、すぐに前言を否定した。アメリカ人の全員が〇〇という訳ではない。
世界では78億の個人がそれぞれに生きている。環境も経験も個体としての特徴もひとりずつ異なる。ひとくくりにして決めつけるのは間違いだ。個人差は必ずある。
とは言っても、国民性や県民性といったものを無視することもできない。風土や歴史がその土地に住む人々の傾向に影響を与えるのも、また確かである。何が言いたいかというと、特定のカテゴリーに属する人々には共通した傾向が見られるものの、それは決して否定されるような傾向ではないということだ。
日本人は先の大戦でアジア各地で残虐行為を行なった。それは確かである。しかし日本人全員が残虐だと言われると、それは否定したい。戦争という国家の愚挙が、人間が日常的に理性で抑制していた残虐性を発露させるのであって、日本人が残虐だというのとは違っている。
人間はひとりで生きていくのは難しい。食料でさえ、自分ひとりでは手に入れられない。肉と魚と野菜を自分が食べる分だけでも自給自足するのは、稀に存在する仙人みたいな人を除いて、ほぼ不可能である。だから共同作業や分業が必要になる。原始共同体だ。生産物は共同体で分け合うが、そこにルールが必要になる。すると共同体は途端に複雑になる。巫女がいて、お告げを聞いてそれに従うかもしれない。
共同体以外にも人間がいて、場合によっては生産物を盗まれるかもしれない。共同体の敵である。一丸となってこれに対抗するだろう。同じ共同体の仲間とは共生感があり、ドーパミンが出て高揚する。自分たちとは別の共同体では、違う巫女が違う神を祭り立てていることがある。違う神を祭り立てているのはけしからんという怒りから、共同体同士が対立する事態が起こるかもしれない。部族の争いに近いが、原始的な戦争でもある。
しかし現代のようにインフラや食料、娯楽などが供給者と受給者に分かれ、その中間や外側に数多くの業種、業態の企業や役所が複雑に絡むと、もはや自分の仕事をするだけで精一杯だ。各自が供給者であり、受給者である。現代では供給と受給の流れは、国家の枠を超えている。どこにも共生感はないし、高揚することもないはずだ。
本作品の若者たちは、イスラエル人は〇〇、パレスチナ人は〇〇と互いに決めつけて攻撃する。国家間が争っているからといって、個人間まで争う必要がないことをわかろうとしない。原始共同体の高揚感が歴史的に残っているのだ。
アメリカ人に日本人は没個性的だと決めつけられても怒らなかった人が、中国人から日本人は自己主張しないと言われて激怒したのを見たことがある。どうしてなのかは、既におわかりだと思う。中国人の人権や人格を認めていないからである。
本作品でもイスラエル人とパレスチナ人は、互いに個人としての人権を認めようとしない。マエストロは、君たちは個人だ、次に音楽家だ、国を盾にして相手を攻撃するのは愚かな行為だと諭すが、ナショナリズムの高揚に麻痺した若者たちには通じない。
彼らをヒステリックに描いたのは、紛争のさなかにあるという切迫感を出そうとしたのかもしれない。しかし実際のイスラエルとパレスチナの若者は、インターネットの時代らしく、映画よりもずっとグローバルな考え方をしていると思う。自分たちの目的は国家の勝利ではなく、個人的な幸福だ。互いに譲り合って暴力を放棄すれば、戦争よりもずっといい解決策が見つかる。彼らはそれを知っているに違いない。
ところが若者たちのグローバルな考え方に水を差すかのように、マスコミは相も変わらずナショナリズムを煽る。オリンピックという国別対抗の運動会では、獲得したメダルの数を競うという馬鹿なことを報道するのに余念がない。ショパン国際ピアノコンクールでは優勝したブルース・シャオユー・リウのことをちっとも報じないで、2位になった反田恭平さんのことばかり持ち上げて大騒ぎをした。アメリカMLBで活躍した大谷翔平さんの報道にたくさんの時間を割いたが、もし日本のプロ野球に二刀流の韓国選手が来たらどうだっただろうか。ちゃんと受け入れただろうか。前半戦で大活躍したらオールスター戦で1番ピッチャーで投げさせただろうか。ファンになる子供がいただろうか。
当方は日常的に多くの若者と接触するが、もはやマスコミが煽るほどには、彼らの精神性に差別は存在しない。日本人を応援するという意識もない。プロ野球やボクシングの話をしているのはおじさんたちだけだ。外国人と仕事をするときも極めてフランクで、何のわだかまりもない。もちろん国家主義的な若者もいないことはないと思うが、個人的にはそういう若者とこれまで一度も関わったことがない。
国家の指導者が他国を仮想敵国として国家主義を煽り、国民を高揚させることで政権の安定を図ろうとするのは、既に時代遅れなのだ。世界の権力者に君臨している政治家たちがいつまでもそこに気づかない、あるいは気づこうとしないから、紛争はいつまでもなくならない。権力者に阿るマスコミがその傾向を助長する。そして本作品のような悲劇が起こる。
テルアビブといえば、岡本公三が空港で乱射事件を起こした街だ。無差別殺人は戦争と並んで不寛容の最たるものである。対して、音楽でいうハーモニーは調和のことで、これが優れているほどいいオーケストラである。それは不寛容の対極にある。
当方は毎年、渋谷のオーチャードホールでニューイヤーコンサートを聞いているが、必ず演奏されるのがラヴェルの「ボレロ」である。小太鼓のリズムに始まって、次々に楽器が参加して、最後はすべての楽器の大合奏となる。クラシックで最も盛り上がる曲のひとつだと思う。曲全体がひとつの大きなクレッシェンドなのだ。東京フィルハーモニー交響楽団の演奏は、毎年見事なハーモニーである。本作品の演奏のハーモニーはいまひとつだったが、それでも盛り上がった。潔いラストに感動した。