アフター・ヤンのレビュー・感想・評価
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結局
その映画の雰囲気を好きな人は、その映画に対する評価は高いし、そうでなければ、当然低い評価となる。(と思っていた)
よく、矛盾点などを見つけて、厳しい評価にする人がいて、どうしてそこが気になるのかなあ、と不思議な気持ちを持つことも多かった。しかし、この映画を見て、評価の観点が違ったんだという当たり前のことに気づいた。
たぶん、この映画の内容については私はあまり理解していないが、それでもこの雰囲気はとても好きだ。
雰囲気(その映画の世界観)を作っているのは、音響だったり、構図だったり、出演者の演技だったり(もちろんストーリーも)するのだろう。そして、それらを形作っているのは何より監督の意図であろう。
なのに、今回、監督の意図をさほど読み取ったわけでもないまま、どこがどうというわけでもなく、見ていて心地よく、とても好きな映画のひとつになった。
追記)
二回目を見て、改めてよい作品だなと思った。アジア的というよりも日本的なものを感じた。「日日是好日」と共通なものを感じた。
この監督さんの他の作品を見てみたい。
切ない記憶
人工物の死生観
コリン・ファレル久しぶりでした。
「フォーンブース」がお気に入りで、リメイクの「トータルリコール」はそのあとだったと思うけど、それ以降はいくつか観た気もするけど、あまり印象が無いです。
コゴナダ監督は初見ですが、固定カメラで美しい画面が印象的ですね。ヴィルヌーブ監督が洋の様式美とするならば、こちらは少しアジアの様式美を取り込んだ感じか。
SF映画としてのギミックは、映話というべき電話と、全体像が見えない車、”テクノ”と呼ばれる人工人間くらい。未来を押し付けずに、現代人からして違和感のない、未来の当たり前の生活感をうまく表現できていた。
中国系の子供ミカが慕うテクノであるヤンが、ある日突然動かなくなってしまう。ヤンを治そうと父親(コリンファレル)はあちこちあたるが、うまくいかない。そんな中で、ヤンの中のチップにビデオデータが記録されている事が判明。その映像を手掛かりに、ヤンの過去を遡る。そして、静かに静かに物語は進み、ヤンに関わっていた人たちの思いや人生をほんのりと映し出す。
アイボのように、人工ペットを家族として愛情を注ぐように、人工物に人が情を移すのは普通だと思う。本作はそれを超えて、その人工物がどのように感じていたのかを想像していく物語だ。もしかすると、深い想いがあったのかもしれないし、そうではなく無機のプログラムの反応があっただけなのかもしれない。
ヤンが動いているうちはわからなかったが、彼が失われてしまったからこそ動く感情があることで、彼の存在がより際立つ。彼に感情や感傷があったかは定かではないが、彼を取り巻く人間たちに影響を与えていたのは事実として残る。生物か否かに関わらず、その影響が重要だということだろうか。
テクノであるヤンの死(?)は、治るかもしれないという期待感と、治らないと判るまでの間の曖昧な時間が、人間の死とは違う。こうした今までに無い状況を、どう受け入れればよいのか、ヤンの遺したものは何だったのか、心の体操として捉えると面白い作品であった。
シネフィル系映画オタクの品のある小津オマージュ
本作のコゴナタ監督はvideo essayという、映画監督の映像から様々な作家性を分析するという動画を何本もつくっていた生粋の映画オタクである。
そこでは小津安二郎、ベルイマン、ヒッチコック 、ブレッソン、ゴダールなどの大巨匠の作品を取り上げており、彼の作風もそれらの作品を土台とした映画の美学が通底していることがわかる。
特に小津への敬愛は相当なもののようで、
本作でも何回かその片鱗をみせていた。
しかしそれもこれ見よがしなオマージュでは一切なくて、さりげなく品がある。
家族愛というテーマ、定点カメラや建築などの空間へのこだわり、細やかな小津イズムが感じられる。
サントラは日系アメリカ人のaska matsumiya氏が手掛け、リリィシュシュのカバーソング、UAの水色などが使われており、テーマソングは坂本龍一に頼んだりと、日本オタク的な側面もみえて、映画、音楽マニアとしてはそういうマニアックな楽しみ方もできる。
意外だったのはオープニングのダンスバトルで、彼の作風的に考えられないようなテンションだったので、あのようなこともできるのかと伸びしろのようなものを感じた。
「記憶」に関する物語を静謐な世界観で描いた一作。
短編小説を原作として、ノスタルジックな雰囲気とSF的な描写が絶妙なバランスで調和した作品。予告編を見ただけでも抑制的なトーンが伝わってくるけど、不思議な余韻を残すラストシーンまでゴゴナダ監督の語り口は終始一貫しています。さしずめ派手な見せ場を省いた『DUNE/砂の惑星』(2021)といったところ。ミニマリスト的、と表現しても良いような、簡素かつ静かな語り口が最近のSF映画の潮流なのでしょうか。
細部まできっちり描写しつつ、柔らかな光を多用するという画面作りは、静謐な作品の語り口と調和していて、より世界観の一貫性を高めています。SF的な要素は随所にちりばめられているけど、どれももう少ししたら実現しそう、という現実との地続き感があって、だからこそヤンの残した映像に奇妙な生々しさ、親近感を感じさせます。
コリン・ファレル(ジェイク)もジョディ・ターナー=スミス(カイラ)も、もちろんみごとな演技を見せてくれますが、二人の娘を演じたマレア・エマ・チャンドラウィジャヤは特に素晴らしく、印象的です。またヤンを演じたジャスティン・H・ミンは、人型ロボットの雰囲気を漂わせつつも、人間的な温かみのある視線、表情がとても良く、彼の演技によって物語に強い説得力が加わっています。
鑑賞前は『デトロイト:ビカム ヒューマン』のような作品なのかと思っていたら、サイバーパンクじゃない『サイバーパンク2077』だったとは!ブレインダンス的な技術も出てくるし。
SF好きでなくてもそうでなくても楽しめる作品ですが、静かで謎めいた描写が続くので、心身に疲労が溜まっている時の鑑賞は、人によってはよい導眠剤になるかも。作品を存分に味わうならば、おめめぱっちりの時に観るのがおすすめ。
俺たちはロボットじゃない人間そのものだ
コゴナダは韓国系アメリカ人らしいがそのせいかはわからないが、欧米人のシノワズリ、オリエンタリズムを感じてしまう。日本茶飲んで、座禅組んで、兵法読んでるようなIT系の人みたいな、ノリを感じてしまう。
何より、親が黒人、白人でその養子とそのケアをするロボットが黄色人って構図から差別的に思える。黄色人は黄色人から生まれるし、ケアするために生まれているわけでもない。黄色人男性優しそうというステレオタイプを踏襲している。
これ事態が差別的な見方かもしれないが、黒白カップルの間に黄の養子をもらって、黄ロボットに面倒みさせていたら、自らのルーツを認識するときにどうしたって黄ロボットに懐くだろう。そのあたりの考えをもっと聞いてみたいが、この映画ではそこに全く触れない。アメリカの養子文化を知る良い機会なのに。
アジア的循環型世界観に驚いてもいいけど、アジア人の私にはそれをロボットに言わせることで、アジア人をロボットかのように思ってしまうのでないか。欧米の他の肌の色の人がこれに感心するのはいいけれど、日本人がこれ観て感心するかな?
ラーメンすするのを下品と思い、ジャンプカットしてしまうのは悲しい。
A24 Ada lamb
ラーメン
ラーメンを啜るお茶屋さんのコリン・ファレル
じわっと染み込んでくる。
見た目や役割に、序列や優劣を持ち込み、社会の中で固定化する。
肌の色や人種、民族が異なっても互いを理解し合うことで、より深い絆を得る。
悲しいかな、いずれも人間の所業。
このテーマを扱った作品はもとより、毎日のように報道を通して触れるものの、ここまで穏やかに、そして問題の凄惨さや押し付けがましさもない。「考える」ことではなく「感じる」きっかけを与える、そんな作品だったように思う。
このテーマでこの表現様式は、自分にとっては斬新だった。
I wanna be
繰り返されるシーン、記憶、思い出。
記憶の断片、まるで何度も転生しているヤンの人生。
ヤンはもういないのに、ヤンの存在ばかりがどんどん大きくなっていく。
終わることからまた始まる何か。
ああ、なんて胸に迫ってくるのだろう。テクノ(ロボット)であるヤンが、ペットやAIのような存在を越えている。そしてそれは、中国人であるがゆえに東洋的な神秘性も加味される。「有」が存在しなければ、「無」も存在しないという。まるで、禅の世界だ。禅でも「自己があってはじめて非自己がある。」と説く。非自己(他人とか)があるからこそ、自己の存在も成り立つ。非自己が目の前に存在するから自己を見つめ直すことができる。そう、ヤンがいたことで、ジェイクの家族がそれぞれを見つめ直すように。思考は飛躍して、ヤンにプログラムされたシステムのように、もしかしたら人間もプログラムされているのかもしれないとさえ思う。それはよく言う、前世の記憶、だろうか。
そんな脳内で錯綜する思考のさざ波が凪いで来ると、柔らかく丸い感情が水面から浮かび上がる大きな泡のように膨らんで、何になりたいの?どうなって欲しいの?と問いかけてくる。自分はどんな答えを探しているのだろう。I wanna be・・・。I wanna be・・・。そう、禅ではこう言っていた、答えはすでに自分自身の中にある、と。
なんなのだろう、よくわからくて、どちらかと言うと迷いに近いものなのに、この沁み込んでいくような心地よい感覚は。
こういう「仕掛け」が他にもあるんでしょうね
映画の呪縛、人間の呪縛
丁度SF小説『鋼鉄都市』(アイザック・アシモフ)を読書中だったので、ロボットもの作品が観たくなり、本作も含め配信でも同類作品を探して観ていました。
本作は一応SF映画に分類されていますが、テーマが人間とは?家族とは?という非常に哲学的なテーマだったので、あまりSF映画という趣は感じられませんでした。
更にはテーマが完全に人間の側のみの視点だったので、SF感が薄かったのでしょうね。しかし、“哲学SF”というは私の大好物なので面白く観ることが出来ました。
本作のコゴナダ監督の作品は初めての鑑賞ですが長編二作目だそうで、元は評論家で小津の信奉者らしくテーマが“家族”というのも頷けますが、少し技巧に走り過ぎている様にも窺えました。映像はお洒落で、まるで美術館などのアート映像の様なイメージで物語には入り難かったです。
例えば同じ題材で、日本人のアニメ作家が作っても面白い作品になったかも知れません。
ストーリーを要約すると、近未来ある一家のベビーシッターロボットが突然動かなくなり、故障修理の過程である機能を持ったロボットであることが分かり、それは一日の任意の数秒だけ動画を記録するという機能で、その記録の任意の切り取りを観ることにより、AIの視線(選択)がまるで人間以上に人間らしさを感じられる動画であり、自分が見失っていたものを気付かされるというお話であり、人間の特性とプログラムの特性の比較が興味深くて色々と考えさせてくれました。
さて、ここからは本作の感想から脱線して、作品を観ながら関係ない事に色々と思いを馳せましたのでそれを書き綴ります。
アメリカ映画は誕生した時から様々なものと戦ってきました。例えば人種・男女・性差別等々、絶えず弱者の味方としての立場をとってきたように思います。
で、現代の多様性の時代では昔では考えられないようなキャスティングを配置するようになってきて、本作の家族も父親→白人、母親→黒人、娘→中国人、ベビーシッター→ロボットといった具合です。これは、最近のポリコレ問題も含み本作に限らず今のアメリカ映画の大半がそのようになっています。
但し、映画業界が推進していない差別が一つあります。(というか感じてしまいます)、それはルッキズム(外見を重視する価値観)です。
本作の多様性家族を見ても分かるように全て美しい人ばかりなのです。本作だけでなく大半の映画を観ても分かると思いますが、近年の映画は益々その傾向が強くなってきているのを感じられます。嘘と思うなら昔の映画のエキストラの顔を見れば分かると思いますよ。50年前の映画と見比べれば、主役だけでなく悪役から端役・エキストラまで綺麗で、醜いものは排除する傾向が強くなっています。
これは“美術”などにもある傾向なのかも知れませんが、元々“美”を表現するものだからという言い訳もありますが、現実世界には確実に美醜は存在しているのに美だけ描くのは、明らかに“真実”からは遠ざかります。
真実を追い求める媒体が何故ルッキズムには寛容なのか?これは映画だけでなく全ての媒体や社会にも通じる傾向の様に思われます。これだけ様々な差別に対して闘ってきたのにも関わらず、美醜に対する差別だけは受け入れてしまう社会傾向というか人間には、やはり闇を感じてしまいますね。
しかし、正直言って私自身“美”に対する関心や憧れは当然強く、敢えてこの問題は今まで扱いませんでした。というのが本音です。
ちょっと擬人化しすぎな感が…。日本と中国の区別がない黄色人種感もちょっと…。
コロンバスから続く絵の撮り方は素晴らしいものがあるが、ロボットを少し擬人化しすぎてはいないだろうか。
そこまで人間そっくりにロボットをつくることができる時代はいつ頃のことかわからないが、人間がそのまま演技をして、人間のような振る舞いをすると、ちょっと違和感がある。
また、ミカは日本人の名前ではないだろうか?中国からの養女ということであれば、名前は中国風にした方がよかったかもしれないが、西洋人は区別なく日本風の名前を付けてしまうかもしれないので、そういうことなのだろうか。
ラーメンを出したり、ボトルに日本語のロゴがあったりと、コゴナダ監督に日本趣味があることは明らかだが、そうであれば、もう少し正確な知識でつくってもらいたいと思う。
小津安次郎に傾倒し、その時代に活躍した脚本家の野田 高梧(のだ こうご)からコゴナダという名前を付けたらしい。
A24が配給なので、これはこれで成功と言えるのかもしれない。 SFとしてアーティスティックでもあり、おもしろいということかもしれないが、人間の家族観なんて、未来もそれほどは変わらないものだと思う。
#177
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