「そこはかとないブレードランナー感」アフター・ヤン N.riverさんの映画レビュー(感想・評価)
そこはかとないブレードランナー感
そこはかとないブレードランナー感を感じてしまった。
ハードボイルド要素を抜いた、かつドゥニ・ビルヌーブ風映像とでも言おうか。
リドリー・スコット監督のブレードランナー、その最後でレプリカントのロイが
わたしの見たものを見せてやりたい、のような言葉を残して命尽きたように覚えている。
(勘違いなら陳謝)
長らくその景色がどんなものだったのか、何を経験してきたのか、
垣間見ることは恐ろしいようであり、だからこそ気になり続けていた。
もちろん重なる所はないが本作に、そんなロイの姿をだぶらせている。
記憶として残る、残す時、
心にいったい、そうせしめるだけの何が飛来しているというのか。
はっ、とする瞬間。セレンディピティ。
ヤンのそれが一日の数秒間だけと限られていたならなお、
それら印象的瞬間の積み重ねが「私」という時系列を、
「心」そのものを紡いでいるのかもしれない、と改めて本作に振り返る。
だからしてありふれた日常もヤンのメモリーの中
美しきアートとなって保存されている。
無意識にしろ意識的にしろ選び抜いた心と記憶の不思議。
わたしもすべてを覚えていないなら、
思い出せる断片を大事にしたいと思う。
何より記憶の美しさを際立たせるのは、
主を失ってもなお、というくだりだろう。
主観でありながら、もう二度と立ち返ることのできない完全無欠の客観視点は
生命の儚さを印象付けて止まない。
生の一回生。
もうヤンは起動しない。
事実がひたすら心に沁みる。
原作が読んでみたくなった。
想像以上に刺さる作品だった。
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