「コゴナダ監督独自の静謐な世界観やゆったりとしたテンポにはあらがえない魅力を感じ取るかたもいることでしょう。」アフター・ヤン 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
コゴナダ監督独自の静謐な世界観やゆったりとしたテンポにはあらがえない魅力を感じ取るかたもいることでしょう。
人型ロボットが家庭にも普及している未来を舞台にした「アフター・ヤン」を見てきました。韓国系米国人のコゴナダ監督は、小津安二郎監督を信奉しているというだけあって、極めて静謐で哲学的な世界を作り上げました。画面の隅々まで作り込まれ、余計な物が一切映っていません。スタンダードサイズの画面に正対する人物や、画面の奥に人物を配する構図など小津調を取り入れていました。物語は、すべてが整えられ調和した映像の中で淡々と進んでゆくのです。セリフの少ない寡黙な作品でした。
人間そっくりのロボットが普及した近未来。茶葉店を営むシェイク(コリン・ファレル)は有色人種の妻カイラ(ジョディ・ターナー=スミス)と中国系の中国系の養女ミカ(マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ)に加えて、ミカの教育係として購入したロボットのヤン(ジャスティン・H・ミン)がいて、4人で暮らしていました。
ヤンは外見も知能も、生身の人間と変わらりません。幼いミカは兄のように慕ってい田のです。
しかしある日、ヤンが故障。シェイクはヤンを修理してくれる技術者を探すことになります。そして修理のために内部構造を調べると、科学的にはありえない“感情”が記録されていました。彼には1日数秒の動画を記録するメモリーが搭載されていたのです。
そこにはヤンが見た映像が1日数秒分ずつ記録されていた。シェイクが再生すると、見知らぬ女性が映し出されます。
ヤン視点の映像は生き生きと弾んでいます。数秒ずつの断片を続けて見ているうちに愛着や郷愁といった感情が喚起されてきて、それらは「記録」というよりヤンの「記憶」と呼んだ方がふさわしいものでした。恋人に注ぐようなヤンのまなざしに、シェイクは戸惑い動揺する。ヤンは人間になろうとしていたのでしょうか?
画面の基調となるトーンはぬくもりはあっても無機質なのに、人工知能(AI)がどこまで人間に近づけるかという主題は、映画にもしばしば表れるみのです。ロボットに心があるかどうかは、SFでは古典的なテーマ。驚くべき速さでA(人工知能)が進化している21世紀、それはもはや現実的な関心事かもしれません。
AIが身近な存在として描かれる作品といえば「her 世界でひとつの彼女」 「アンドリューNDR114」などが浮かぶますが、ヤンのルックスは人間そのもの。それゆえに、養女ミカの相棒であるヤンの喪失を通して描かれる記憶や愛、家族、ルーツについての物語が、より親密で深遠なものに感じられました。このSFには、人間を人間たらしめているものは何か、という問いかけも含まれていると思います。また多様性の象徴のような家族構成を始め、何かを問いかけたいという意志も感じられました。
ただ、知的好奇心は刺激するものの、前作の長編デビュー作「コロンバス」同様、感情に訴えるものに乏しいのです。機械に心はあるかという命題を扱う映画に心が欠けているのは、皮肉です。例えば「ブレードランナー」で雨の中、レプリカント(人造人間)が見せる涙のようなシーンがあれば、と思うのは高望みでしょうか。
話しているのは英語だが、画面は米国らしくありません。淡い色調、東洋風の衣服、シェイクがいれるお茶。俳優たちの表情は乏しく、セリフ回しもささやくようです。東洋的な感覚を美化しすぎているような場面もありますが、コゴナダ監督独自の静謐な世界観やゆったりとしたテンポにはあらがえない魅力を感じ取るかたもいることでしょう。
ジェイクが、もはや家族同然の存在となっていたヤンを救うべく、ヤンの修復していく過程で感じることは、「人間とは何か。人間と機械の違いはどこにあるのか」という問題。ヤンとシェイクがどれほど隔たっているかと問いかけの中に、考えさせるものがありました。