「弱者に寄り添うふりをして、本当に寄り添っているの?」茜色に焼かれる マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)
弱者に寄り添うふりをして、本当に寄り添っているの?
旦那が交通事故で死んで、母子家庭になった。
加害者が謝りもしないので、慰謝料を受け取らなかった。母子家庭なのに。
旦那の婚外子の養育費を、払う義務もないのに払い続けている。母子家庭なのに。
旦那の父親の介護施設入所費用を払い続けている。女の平均給与は男の75%しかないのに。
だから、ダブルワークで、風俗の仕事も行っている。
旦那が社会に異議申し立てをするロックバンドをやっていたから、その妻として、公的な救済に頼ることなく自助努力だけで生活している。自分の意志で。
でも、それって、おかしいでしょう。
異議申し立てをする人間は、公的な救済に頼ってはいけないのか。逆を言えば、公的な救済を頼るためには、社会にものを言ってはいけないのか。
「お前のかあちゃん風俗なのに、公営住宅に住みやがって」家賃が安い公営住宅には、風俗嬢のようなアウトサイダーは住んではいけないのか。社会に、いや正確に言えば、政治にNoと言う人間は、公営住宅に住み公的援助を受ける生活が認められないのか。
認められるに決まってるでしょう。税金払って、社会的な義務を果たしている限り、そこからの恩恵を受ける権利がある。というか義務が果たせない事情があるなら果たさなくても、恩恵は受けられるのが筋でしょう。
誰しもが、義務を果たしながら権利を享受して、なおかつ、よりよい社会を作り上げるために、社会・政治に意見を表明していく。それが、社会人としてのあるべき姿。
でも、ここに描かれた世界はちょっと違う。「結果は自己責任。それでも、何がしの救済を受けるなら、黙れ!」そんな社会(新自由主義という考えが理想とする社会です)を声高に肯定するつくりにはなっていないけれど、それを受け入れる主人公を描くことは、そういう社会を認める映画になってしまっている。それが意図的なのか、現実を描いた結果に過ぎないのか、どうでしょうか。
映画の構造を端的にまとめると、主人公は前半、がまんしてがまんして。終盤に、怒りを爆発させ、最後に親子でほんわかムード。だから見る者も、前半ストレスをためて、終盤、溜飲を下げて、最後はあったかい気持ちで「ま、いろいろあるけど頑張りましょ」って、理不尽な社会を受け入れていく。いや、受け入れてはいけない、っしょ。
家のかみさんは、「最近の邦画、安易に女優を脱がせすぎ」と怒ってます。「女は最後、体を売ればいいから」ってセリフ、邦画では地で行ってますよね。