「田中良子は芝居が得意だ・・・という字幕がでる。 ほどなくして、男性...」茜色に焼かれる りゃんひささんの映画レビュー(感想・評価)
田中良子は芝居が得意だ・・・という字幕がでる。 ほどなくして、男性...
田中良子は芝居が得意だ・・・という字幕がでる。
ほどなくして、男性がひとり、交差点で交通事故に遭い、死亡する。
それから7年。
死んだ男性の残された妻・田中良子(尾野真千子)が、元上級官僚の加害者老人の葬式に出席しようとしたところ、遺族から「嫌がらせをするつもりか」と追い返される。
「どうして葬式に行ったのか」と中学生の息子・純平(和田庵)に問われるが、「夫を殺したひとがどんな顔をしていたか忘れないように、最後に顔を観に行った・・・」と答えるが、良子の脚は瘧(おこり)のような震えが止まらない・・・
そして、葬式の帰り道に「香典代 10,000円」という字幕がでる・・・
といったところからはじまる話で、ここまでの冒頭の演出から、社会的弱者である女性のドラマであり、弱者としての根底には貧困があることが示される(ことあるごとに、そこにどれだけの金額がかかったかが示される)。
鑑賞前の予感は、ケン・ローチ的な映画かしらん、といったところだったが、それは半ば的中し、半ば外れていた。
良子の口癖は「ま、(とにかく)、がんばりましょ」である。
彼女は1000円に満たない時給でホームセンターの花売り場で働く傍ら、時給3600円ほどでピンサロで1日6時間働いている。
風俗店で働くというのは、これといった特別な才能や技能を持たない女性たちの最終的な金の稼ぎ方で、底辺といっていいだろう。
職場には、幼い時分から父親から性的虐待を受けてきて、常にインスリン注射が必要な1型糖尿病を患っているケイという若い女性(片山友希)が働いており、良子にとって、「あるところまでは」肚を割って話せる相手だ。
しかしながら、「あるところまでは」という枕詞がつかざるを得ないあたりが、みている方としてもどうにもこうにも、もどかしい。
良子の生きづらさは、夫を亡くしたことだけでなく、ある種の正しさを通そうとしていることにあり、それは、ひとつは事故の加害者から慰謝料を受け取らなかったこと。
加害者側から一言も慰謝の言葉を得ていないのに、慰謝料は受け取れない。
パンクロック(と思われる)で、世間に対して、挑み続けた夫を裏切ることは、やはりできない・・・
もうひとつは、夫が残した「もうひとりの子ども」に対して、養育費を払い続けていること。
もうひとりの子どもは、良子の息子よりも3歳ほど年上で、高校生だと後にわかるが、この年齢関係から考えれば、亡き夫は幼い子どもがいたにも関わらず良子に転心したわけで、ひと昔前に言い方をすれば「略奪婚」。
つまり、後ろめたさ、申し訳なさのようなものが養育費になっているのだろう・・・
と考えていくと、良子の口癖「がんばりましょ」は、「正しく生きていきましょう」なのだろう。
良子は良子なりに「正しく」生きていこうとしているわけだが、それを許さないのは男たちの偏見であり、劇中の台詞「シングルマザーと風俗嬢は簡単にヤれると思っている」に代表される女性蔑視。
とにかく出てくる男どもがろくでもない。
ほとんどが先の台詞のような思考回路で、同性としても唾棄すべき存在。
そんな男たちをやり込めるのが終盤のクライマックスのひとつだけれど、それが溜飲を下げるカタルシスまでに昇華されない。
(ま、昇華されるほど、この世の中は甘くはない、ということなんだけれど)
先に、ケン・ローチ的な映画を期待したが、それは半ば的中し、半ば外れていた、と書いたが、それは、監督の良子に対する距離感で、ローチの初期作品のように突き放すわけでもなく、近作のように共感し抱きしめるわけでもない。
良子に寄り添ったような物語にしたいが、そんな方法は、現在の社会を鑑みると安直で安易である・・・
映画を撮りながらの石井裕也監督のそんな苦悩が映画から溢れているように感じました。