「「疑似家族」を描いた一本にもみえた。」鳩の撃退法 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
「疑似家族」を描いた一本にもみえた。
<映画のことば>
今ある事実から考えて、何が自然か。
そう考えれば、おのずと隠された事実が見えてくる。
世上に散らばっている素材から、一本の糸をより、何本もの糸を編み合わせて最終的には一枚の反物を織り上げる(一編の小説を書き上げる)ためには、こんな洞察力が必要なのだと思いました。小説家には。
けっきょく津田は、小説家である自分にとって、鳩(いくつかの意味で使われていたと思いますが、この場合には、津田の身に降りかかる災難)を回避するいちばんの撃退法が「臆せずに書くこと」であることを再認識したんだろうと理解しました。評論子は。
何年か前に筆禍事件を起こして、文壇からは干されかけていた津田にとっては、作家(小説家)として立ち直るためには、何よりの「荒療治」だったことと思います。
ミステリーもの?としても、場面の切り替わりが適切で、ストーリーの展開も楽しめます。
佳作であったと思います。評論子は。
(追記)
本作の物語からすると、いささか脇道なのでしょうけれども。
本作では、倉田健次郎と幸地秀吉とが、いわば「疑似家族」として描かれていることは、まず、異論のないところだと思います。「親はいなくても、食べ物と寝る場所があれば子供は育つ。」という倉田健次郎の台詞にもあったように。
そして、もうひとつ、本作には疑似家族があったのではないでしょうか。
つまり、津田自身は、そうまでは認識していなくても、房州書店の夫妻にとっては、津田は、わが子同然の擬似的な家族だったのかも知れません。それで、房州書店のオヤジさんは、3,000万円という「資本」を彼に託した…。
その意味で、彼の才能を信じて、「こうなれば、書くように仕向けるしかない」と、妻の生命保険金を彼に遺した房州書店のオヤジさん(オヤジさんだけでなく、たぶんの奥さんも?)、その想いを遂げることができたのだろうとも、評論子は思います。
ただ、遺した3,000万円と、津田のお金と勘違いして添えた3万円がもたらした災難が、彼を書かせる気にさせたという現実の因果関係までは、予想していなかったとしても。
(刑法学的には「因果関係の錯誤」)(笑)