「二元論を超えて」やすらぎの森 Allanさんの映画レビュー(感想・評価)
二元論を超えて
この映画は人を選ぶ。今回、私の評価は比較的高いものだが、たとえ同じ「私」であっても、明日の私が同じように評価するかはわからない。この作品には、恐らく個々人にベストなタイミングというものがあって、それは孤独や死、愛の路頭に迷っている時なのかもしれない。少なくとも私はベストなタイミングで鑑賞したようだ。
それぞれが孤独にどう向き合い、何を克服し、何を克服しなかったか。これが映画のテーマだろう。登場人物たちは様々な形で森と関わるわけだが、誰もが皆、あの森に何かを変える力を信じている。もちろん変わるものもあるが、万能薬などないように、変わらないものもある。登場人物たちはそれぞれのやり方で、その変わらないもの、克服できないものと向き合いながら、自分なりの答えを出していく。絵や自死やギターは彼らなりの答えである。
施設で人生のほとんどを暮らしてきたマリーと、ケベックの深い森で自由気ままに暮らすチャーリーは一見全く違うように見えて、ふとした瞬間に同じ種類の孤独を共有していたりする。マリーが森に入ったことで克服したものがあれば、森で長く暮らすチャーリーにも克服出来ない孤独がある。複数人の孤独とそれへの答えが複雑に交差しながら、物語として一つの大きな孤独の様相が見えてくる。
また、山火事という事象の用いられ方が大変良かった。数十キロ先の山火事が徐々に自分たちの生活を侵食していく様子は、彼ら自身が内側に抱える孤独に徐々に蝕まれていくことを想起させる。それが果たして良いことなのか悪いことなのか、受け手である私たちにはわからない。山火事という事象が個人を深い人間に仕立てた(例えば、テッド・ボイチョクに類稀な絵を描かせた)ことは良いことかもしれないし、一方でそれに殺された(文字通り山火事は多くの死者が出るし、生存者の心に傷跡を残す)ことは悪いことかもしれない。つまり、客観的に山火事=孤独に善悪、良い悪いの判断を下すことは出来ないのである。
山火事が到達したのかわからないまま物語は終わる。恐らく多くの人は、それまでの示唆から「焼けた」という結論を出すだろうが、むしろ多くの人がそのように予想するならば、焼けたシーンを描かないということの意味はない。つまり、皆が描かれなかったシーンを同じように解釈するなら、そのシーンは描かれたも同然であって、そのような選択をする監督は無能である。ところが私には監督が無能とは思えないし、むしろ、ここで焼けたシーンを挿入しなかったのは、焼けた焼けなかったに価値を置いていないからではないかと思えてくる。山火事=孤独が善悪の二元論ではないことを表したいがために、焼けた焼けなかったの二元論を避けた結果が、「描かない」だったのではないか。そのように考えると、この映画の深みが滲み出てくる。